どこ吹く風

自分には全く関係・関心がないというように、知らん顔をすること。「何処吹く風と聞き流す」

フォーカス オア ノット

 

 何に対してフォーカス(焦点を合わせるか?)するか?つまり何に対して真面目であるか、何に対してこだわりを持つか?はその人の人となりを決める重要なファクター(要素)だ。私は自分の事を常々こだわりのない人間だと思っていたのだが、どうもそうではなかった様だ。それどころか、どうも私にはある種の事柄に焦点を合わせ過ぎる傾向、つまり真面目過ぎる、もしくは敏感すぎる傾向がある事が解った。この年になって。しかもそれは往々にして“生きづらさを伴う”ものだった。というのも・・・以前こんな文章を書いた。

 

 小学生のころ、

「世界中のみんなが幸せになれればいいのに」

と思った。でも同時に

「他人より幸せであることに幸せを感じる自分自身」

にも気づいていた。

 

矛盾だ。

云々

 

 こんな文章を書くからには、きっと私は「幸福」とか「平等」とか「他者」と言った事柄に対して私は敏感すぎる、言い方を変えるとフォーカスし過ぎる(真面目過ぎる)傾向があるのだろう。見えない方が良いことまで見えてしまう。ほどほどに焦点をぼかした方が上手な生き方と言える。例えば「贅沢は素敵だ!」と単純に言えたらよかったのかもしれない。

 また、私は障害のある人(自分を含めて)を見かけた際「差別してはいけない」という思いがまず脳裏に浮かんでしまう。その発想自体がもうすでに差別に他ならないのに。これも同様で「障害」という事柄にフォーカスし過ぎなのだ。「障害のある人もない人もいて、それで好い。」と程よく?焦点をぼかせれば、どれだけ生きやすい事か。その意味で、私には明らかに、ある種の事柄に焦点を合わせ過ぎる傾向がある。自分では大らかさを気取っていたつもりが、その実、真面目人間に他ならなかったのだ。「真面目過ぎる人って苦手だ。」などと思いつつ、自分自身が十分な真面目人間だったのだから元も子もない。無論、ある種の対象に限ってはだが・・

 

 ああ、もっと上手に生きなければ、と思う。ただ一方で、何かに焦点を合わせて、そのテーマについて突き詰めて考え抜く。それが哲学や文学の世界を切り拓いてきたのではないか?という思いもある。今、哲学や文学と書いたがそれは文化芸術全般に言える事だ。例えば、味覚についてフォーカスして突き詰めた人間がたくさんいたおかげで、今の私たちが美味しいものを食べられる。いわゆる食文化って奴だ。

 

 世界にはフォーカスすべき様々な対象があり、それぞれにフォーカスしてきた人々のおかげで社会は豊かになった。私がフォーカスしたのがたまたま、「幸福」だったり「平等」だったり「他者」だったり「障害」だったのだ。それはもう三つ子の魂何とやらで、私にはどうしようもない。ただ、いま少し生きやすさにつながる対象に興味関心を抱いていたらよかったのに・・・。とも思うのだ。私がユーモアの大切さを強調するのはまさにその反動に他ならない。と自分で自分を分析している。

 

 

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ユーモアって大事なんです。


さてこの文章をお読みの皆さんは「何」にフォーカスしていますか?「何」に対して真面目ですか?真面目過ぎるが故の生きづらさを感じていますか?突き詰める事と、程よくぼかす事と、どちらが大切なのでしょう?何が正しいのかは私には解りません。ただ、生きづらさの中にこそ、真実があるような気がしてならないのです。もっとも真実が人を幸せにするとは限らないのですが・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「長谷川漣の何処吹く風」もあわせてどうぞ。最後の1回です。

長谷川 漣の何処吹く風 – 表現者の肖像 (gentosha-book.com)