どこ吹く風

自分には全く関係・関心がないというように、知らん顔をすること。「何処吹く風と聞き流す」

教養としての数学

 数学に興味がある。以前にもこのブログで述べたが、学生時代私は数学が一番苦手だった。点さえ取れれば良いと、公式を丸暗記してテストに臨んでいた。「考える」という最も肝心な部分をおろそかにしていたのだ。結果、思うように点数が伸びず、苦手意識を持つ。その苦手意識から分不相応な難しい参考書に手を出す。結果、余計に苦手意識を持つ。その繰り返しだった。そんなわけで、今再び点数にこだわらない【教養としての数学】を学んでみようと思っているのだ!

 

 その他にも理由はある。仕事上、世界史のほかにも文系教科である現代国語を教える機会がある。その際、私は自分でも驚くくらい【楽しんでいる自分】を発見した。理由を考えてみた。

 

 世界史を教える醍醐味は、歴史上の様々な人物を紹介できる点にあると私は思っている。剣に生き、剣に倒れた武将。その命を賭して真理を追究した科学者。「そんなことは聖書に書いてない!」と時の権力者にたてついた宗教改革者。死の間際、いっぱいの紅茶をたしなみ「これでよし!」とのたまった哲学者。どれも面白い。その状況下で、それをやるか?と言いたくなるような行動をとる。人間って面白いのだ。歴史とはその人間たちが織り成す絵巻物だ。また、もう少しうがった見方をするならば、世界史の授業は蓄えた知識をどういう切り口で生徒に見せるか、そこに工夫の余地があり、それこそが面白いともいえる。

 

 それでは現代国語を教えた時私が感じた面白みとは何か?一言で言うとより抽象度が高い。これに尽きる。世界史が主に“知識”を扱うのに対して、現国(現代国語は)より抽象的な事柄を扱う。それは異文化論であったり、科学思想史であったりする。取り扱う内容そのものが抽象的なのだ!つまりより考える余地がある。そこが面白い!

 

 そこで考えた。文系理系の垣根を取り払うならば、もっとも抽象的な事柄を扱う教科は何だろう?それこそが数学なのだ!

 

 そんなわけで、私は今数学に興味がある。もちろん人様に教えようとかそういうレベルにはない。自分自身の趣味として教養として、学びなおしてみたいと思うのだ。そう言えば北野武さんは数学が得意で、東大に合格した友人にも数学を教えていたのだとか・・・。もしかしたら、数学が扱う抽象的な事柄の、その向こうに芸術があるのかもしれない。そんなことを考えた。

 

そんなわけで、今再びの数学が私の中で来ているのです!

旺文社のいちばんやさしいレベルの参考書です!



理性と感情と

 先日、公共の温泉施設に両親を連れて行った。その際、ふろ上がりに親父が施設に備え付けの図書コーナーで『マンガで読むギリシャ神話』を若干恥ずかしそうに読んでいた。≪若干恥ずかしそうに≫と言うのは、うちの父は常々私に対して「マンガなんて読んでないで本を読め!」と繰り返し叱責してきたためだと思う。戦中生まれの親父は、【マンガ=くだらないもの・幼稚なもの】という図式が頭の中で出来上がっていたのだろう。いつも難しそうな本を、難しそうな顔をして読んでいた。

 

 それに対し、私は「マンガがくだらないかどうかは読んでから判断すればいい。そもそも、難しいことを難しく書くのはナンセンスだよ。本当にきちんと理解している人は、難しいことを解りやすくかみ砕いて伝えることができる。言い換えると抽象的な概念を具体的に表現できてこそ、本物だよ!マンガにはそれができる。」と、理でもって説いてきた。でも父は一向にそれを受け入れなかった。結果父と子の溝はなかなか埋まらなかったのだが・・・。

 

 その父がマンガを読んでいる。私は半ば嬉しく、また半ば尊敬の念をもって父を眺めた。80を超えた人間が自分の誤りを認め、その方針を転換するというのは、なかなかにできることではない。その率直さが私にはまぶしかった。何故、今になって翻意することになったのかはわからない。何かしらの変化が彼の中にあったのだろうか?なんにせよ、親父にとって、長谷川家の本棚にとって大きな一歩だ。

 

 親父は田舎で物理の教師をしていた。だからと言うわけではないが、私は理(ことわり)でもって説いてきたつもりだった。それがこのように時間がかかってしまったのは物の理(物理)など所詮、人間の感情にはかなわないという事か?

 

 人がほかの何よりも理によって動く生き物なら、どれだけ時間と労力が省かれるだろう?なぜもっと人間は理性的になれないのか?そういう、ひょっとすると驕り高ぶった?思いが私にはある。同時に父がマンガを読んだことに対して「嬉しさ」だとか「尊敬の念」だとか、そういった感情を抱く自分がいるのも事実だ。

 

 理性か?感情か?

 

 なかなかに人間と言うのは難しい。でも、だからこそ理解する面白みがあるというものだ。そんなわけで、今後も人間をテーマに文章を書いていこうと思う。

神話って面白い!

 

本当の知

 先日、前から乗っていた自転車が古くなったので、新しいのをネットで購入した。すると万事保守的な母が、「なんでもすぐにネットで買うのはどうかと思うよ。」といつものように小言を言う。対して私は「機会損失と言う言葉を知ってるかい?俺が自転車に乗れないのは俺にとっての機会損失になる。これ以上は言わないけど、言葉とその概念くらいは知っておいた方がいいよ。」体よく母を黙らせたことに気をよくした私は、自分で言った機会損失と言う言葉に思いをはせていた。

 

 「もし、もしお金が潤沢にあればの話だけど、今の若者にとっての最大の機会損失は海外に行かない事だろうな・・・。」最近の若者は海外に積極的に行きたがらないという話をよく聞く。無論、円安という現実的な問題はある。だとしても、十代二十代で海外に行かないのは大いなる機会損失だと心底思う。私だってそれほど海外経験が豊富なわけでは決してない。ただ、海外に行ってみてそこで得たものは自分にとって計り知れないくらい大きかった。

 

 昔ベトナムを旅した時、同行した友人に「俺はヨーロッパに行きたい。」と告げると「つまらないでしょ。」と一蹴されたことがある。その時は「なぜ???」と思ったのだが、今なら解る。少し歴史を学ぶとわかるのだが、合理性と効率をキーワードとする近代のパラダイムは欧米によってもたらされたものだ。友人に言わせれば「今更、欧米的価値観を見に行ってもつまらないでしょ!」という事だったのだ。それよりも、いまだ近代のパラダイム(欧米的思考の枠組み)に染まってない国を見に行った方が面白いよ!そう本能的に悟っていたのだろう。結果ベトナムに行ったのは大正解だった。

 

 日本にいると当たり前のことが向こうでは当たり前でも何でもない。逆に日本にいると何でもない事が向こうでは常識だったりする。誤解を恐れずに言うならば、常識が異なるというのは思考の枠組みや価値観、つまりパラダイムそれ自体が異なるという事だ。その意味で異国の地で生活するのは思考の枠組みを再構築する機会ととらえることができる。友人は「どうせ再構築するなら、全然違うもののほうが面白いよ!」と言いたかったのかもしれない。

 

 もっとも、日本人は近代欧米的パラダイムすら、いまだ会得していない。と言うか福沢諭吉の頃からほとんど進歩していない。欧米には欧米で十分に行く価値があると思うし、近代以降のゲームチェンジャーは常に欧米だ!そのことを肝に銘じておかないと足元をすくわれてしまう。ただ、近代のパラダイムがすべてと考えるのでは、友人に言わせるなら「その知はツマラナイ」という事になる。

 

 今私に時間と金銭的余裕があるなら、ネイティブアメリカンに会いに行ってみるのもいいし、アボリジニの生活にも触れてみたい。アイヌの人たちにも学ぶところは多々あると思う。多様性と言ってしまえばそれまでだが、知のパラダイムは決して一つではない。本当の知とはあらゆるパラダイムを身に着けつつ、あらゆるパラダイムから自由であることなのかもしれない。

 

 もしこの文章をお読みの皆さんの中に10代20代の方がいるなら、お金の許す限り、是非積極的に海外に行くべきだと思う。そしてそこで本当の知を獲得して欲しい!

アサヒサイクルの自社ブランド「クリーム」!

 

学び続けることの意味

 先日、ある生徒から「先生はどんな本を読んできたのですか?」と質問を受けたので、とりあえず田中芳樹先生と村上春樹先生をあげておいた。そこで、どの作品が一番面白かったか?という話なったので、お二方とも若かりし頃に書いたもののほうが面白かったねと答えておいた。以前もこのブログで述べたことだが、どのような表現者であれ、一人の人間の抱くテーマの数とはそれほど多くはない。初期の作品を世に出した後、表現者と言われる人たちの多くは「○○煎じ」。もしくは「出○らし」になってしまう。ビートルズの凄かったのは年を経るごとに新たなテーマを開拓していった点にある。そう私は思っている。

 

 「丸に入る漢字当ててごらん。」と伝えると、ある生徒は見事どちらも答えた。出涸らしの涸の字が書けなかった私としては正直ほっとした。

 

 ついでに伝えておくと、こうして話している私だって、いずれは皆に伝えることが無くなって出涸らし、若しくは二番煎じになってしまうかもしれない。出来るだけ、そうならないようにとは思っているのだけれど・・・。その為に私がどうしているかわかるかな?と問うと、別の生徒が「学び続けるってことですか?」と答えた。

 

 「そう。そうなんだ。学び続けることの意味はたくさんあるのだけど、少なくとも私にとってはそういう意味がある。それに別段、表現者じゃなくても、学び続けることは新たなテーマを見つける事。つまり、新たな自分を発見することでもある。生涯学び続ける。そんな人であってほしいね。」と締めくくった。

 

 幸い現代はスマホとインターネット環境さえ整っていれば、どこからでも学べる時代だ。その恩恵を十二分に受けるべきなのだと思う。

 

 この文章をお読みの皆さんも、生涯現役!学び続ける人であってほしい。

学生時代に挫折した本です。再読してみようと思いアマゾンで購入しました。

 

王様のレストラン

 今日、仕事の帰り道の車中でランダム再生をしていたyoutubeMusicから平井堅さんの楽曲『プレシャス ジャンク』が流れて来た。久しぶりに耳にしたその楽曲に、私はドラマ『王様のレストラン』を思い出していた。(この楽曲はドラマのエンディング曲だった)

 

 とあるフレンチレストラン「ベルエキップ」で何となく働いていた若者たちの前に、揺るがぬ情熱と厳しいプロとしての生きざまを持つ一人の男、千石武が現れる。千石は今でこそ給食センターで働いているものの、頑固で厳格、プライドも高く、一時はその名を響かせたこともある優秀なギャルソンだった。千石に触発された若者たちの奮闘する様子が、シニカルで痛快な人情味いっぱいの人間ドラマとして展開されるのだが・・・。

 

 ドラマ『王様のレストラン』の最終話で千石は言う。「要するにここは一流を気取っているだけの一流とは程遠い、最低の店です。最低の・・・。いや、がしかし、最低ではあるが・・・素晴らしい!!!」

 

 私はこの度ある塾に勤めることとなったわけだが、どうせ働くなら一流の塾で、もっとも何をもって一流とするのか?規模か?それとも知る人ぞ知る隠れ家的な塾か?それはにわかには解らない。でも、少なくとも松本幸四郎さん演じる千石に「素晴らしい!!!」と言ってもらえるような塾で働きたい。それはこのドラマ『王様のレストラン』から鑑みるに、仲間を愛し、お客様を愛し、そして自分を愛す、つまり自分の仕事に誇りを持つという事に他ならないのだろう。

 

 その日私は塾の教務室を1人で掃除した。もしかするとそんな思いを込めて私は自分の職場を掃除してきたのかもしれない。「誰からも何にも言われなかったら少し寂しいな。」と思っていたところある同僚の先生から「有難うございました。」とお礼を言ってもらえた。「見ていてくれる人は見ていてくれるもんだ。」と、嬉しかった。

 

 さて、一流の?塾を目指す私の、我々の冒険は始まったばかりだ。もし、この文章をお読みになった方々の中に北関東在住の十代で、塾選びに困っている方が、もしおられたなら、是非、我々の塾の資料請求してみてはいかがでしょう?この塾を選んでよかった!と言っていただけるよう、精いっぱい頑張る所存です!

(5) 王様のレストラン 最終話 ラストシーン - YouTube

平井 堅 『Precious Junk』MUSIC VIDEO (youtube.com)

三谷幸喜さん面白い!!!

 

毒を吐く

 今日、中田敦彦さんの動画でコールドプレイの『Viva La Vida』について話しておられたので聞いてみた。聞いてみて、私は富野由悠季さんの『ガンダム』を思い出した。小説版を読んだことのある方ならご存じと思うが、1年戦争のあとアムロ・レイは連邦組織によって軟禁状態に置かれる。連邦の意図はよくわかる。あんな化け物?がいたら始末に困る。かといって1年戦争の英雄を殺すわけにもいかない。軟禁され、その監視下に置かれる。そして表現は女性に対して失礼極まりないが、小説に従うなら、定期的に女をあてがわれながら・・・。よくわかる話だ。

 

 私は同時に先日見たゴジラー1.0も思い出した。作中のセリフに「誰かが貧乏くじを引かねば!」「皆のために誰かがゴジラに立ち向かわねば!」という下りがある。私はそのセリフを白々しい気持ちで聞いていた。「皆のためにか。やれやれ。」続編がつくられそうな感じで終わっていたので、ゴジラを打倒した彼らがその後どう描かれるのか?興味深いところではある。国を救った英雄か?はたまた、危険人物か?

 

 そんなわけで、岡田斗司夫さんが絶賛されていたこの作品を私は正直楽しめなかった。(楽しんで見られた方々には申し訳ないのだが・・・。)庵野秀明さんのシン・ゴジラ山崎貴さんのゴジラー1.0ともに面白いと言えば面白かったのであろうが、(エンタメの王道だと言えばその通り!)何だか薄っぺらいな。と思ったのも事実だ。だからと言って「じゃあ、自分で作ってみろ!」と言われたら一言もないのだが・・・。

 

 田中芳樹先生の作品に「西風の戦記」がある。この作品では、王族同士権力争いの中、叔父に父と兄を殺され、復讐の意思を疑われるのを恐れて、その幼少から徹底的に暗愚を装い、自己をひた隠しに隠して成長した暗い主人公が描かれている。その主人公は長じて父と兄の復讐を果たさんと決起するのだが・・・。この主人公のセリフで印象に残っているものがある。「俺は自己の復讐を果たさんがために民衆を巻き込んだ厄介者にすぎんよ。」細部は確かではないが、文意はこのようなものだったと思う。

 

 さて、何が言いたいかと言うと、これと言って言いたいことがあるわけではないのだが・・・。敢えて言うなら「人間社会はそんなに甘くはない。」と言ったところか。も一つ付け加えるなら「大衆は最強だ!」と。なんせ大衆は考えないから。

 

 こんなことを書いていると「こいつはテロリストの予備軍だ!」などと論理の飛躍した詮索をする輩もいるので断っておくが、私はテロリスト予備軍などでは決してない。ただの大衆の一人だ。しかも頭の悪い・・・。

 久しぶりに公の場?で毒を吐きました。だいぶシニカルな気分になっていたようです。もっともこの国には表現の自由なるものがあるそうなので(ほんとか嘘か知らないけど・・・。)悪しからず。

 

所詮俺は自己の復讐のために民衆を巻き込んだ厄介者のに過ぎんよ。

 

ものがたりの力

 今日、堀江貴文さんの東京大学での講演の動画を見た。堀江さんが仰っていたのだけれど、起業するにしてもなんにしても、若いころのほうが有利だと。何故なら年を取るとその情熱はあっても体力が続かないからだと。体力ばっかりは若いころのほうが間違いなくあると。そして、気力は体力がないと保てないと・・・。おっしゃる通りだ。私もつい先日、岩本ナオ先生のマンガ『金の国 水の国』と『マロニエ王国の七人の騎士①~⑧』を借りて来た。一気に読んでしまおうと思っていたのだが、『金の国 水の国』を読んだ時点で疲れてしまった。これが若いころだったら一息に読めたのだけれど、さすがに、コミックを9巻一気に読むのには情熱はあっても気力・集中力が続かない。昔だったら一気に読破していたのに・・・。

 

 この論を突き詰めれば、インプットをするのは人生の前半でアウトプットするのが人生の後半だと言えなくもない。私自身、もう新しい何かをインプットするのはむつかしい。なかなか昔のようにはいかない。これはもしかすると表現者とかクリエイターとか言われる人たちにとっても共通の悩みなのかもしれない。少し品のない表現だが、食べたものを自分なりに咀嚼して、内部で発酵させて吐き出す。自分はもう、おなか一杯食べただろうか?時期的には発酵させ吐き出す段階にきているのだが・・・。

 

 それらのことを考慮に入れてみると、やはりピカソは偉大だ。彼の残した作品は1万6千点ほど。対して普通の画家が生涯に残す作品数はせいぜい数百点だ。同業者の画風を剽窃しておいて、いつの間にかそれがピカソの作風であるかのように我々が錯覚している作品。それらを含めたとしても、彼が如何に創作に対して貪欲だったかがわかる。ありとあらゆる作風を自分のものとして取り込んでしまおうという意欲が感じられる。しかもそれが生涯を通してだ。ちょっと舌を巻かざるを得ない。ただ私人としての彼は、私の知る限りではちょっと友達にはなりたくない、そんな存在だ。天才とは押しなべてそういうものかもしれない。

 

 話は戻るが、堀江さんのお話を聞いていると、起業して失敗しても、やり直せる社会的な枠組みは、彼が起業したころに比べて格段に整ってきているそうだ。その割にはやはり起業する人は少ない・・・。若さと、つまり気力と体力とが充実していて、あと足りないのは情熱なのでは?と私などは思う。では、情熱ってどっから来るのか?そう考えた時、答えは、やはり“感動”なのではないか?感動は物事を進める原動力だ。では、感動ってどこに転がってんの?と言う話になるのだが、それはやはり“ものがたり”なのではないか?と私は思う。今、必要なのは“ものがたり”の力なのかもしれないな。と思った。そんなわけで私は今日も“ものがたり”を求めて近所のTSUTAYAへと足を向ける。私にもいつか読んだ人に“感動”を与える“ものがたり”が書けたらいいなと思うのだが、どうも私の文章は“感動”と言うより“扇動”に近いらしい。やれやれ(笑)

 

 『金の国 水の国』とても面白かったです。主人公の女性はとても心の清らかな人でした。岩本先生のお人柄でしょうか?有難うございました。