どこ吹く風

自分には全く関係・関心がないというように、知らん顔をすること。「何処吹く風と聞き流す」

ダイナミズム

 友人に言わせると私にトークの才は無いらしい。友人が畳みかけて言うには「貴方は一般論をさもありがたみがあるようにデコレイトして述べる。笑止な限りだ」と。「それはちょっと違う」と私は思う。一般論の背後にある“仕組み”を解き明かす事は非常にダイナミズムに富む。それがどんなに単純な命題であったとしてもだ。

 どういう事か?

 「リンゴが木から落ちたことに着想を得た」という話が嘘か誠かはさておき、ロバート・フックのもしくはニュートンの発見したグラビティー(引力)は現代からすれば当たり前の事かも知れない。しかし話はそんなに単純ではい。そこに至る過程としてケプラーによる天体の運動法則、つまり

「惑星は太陽を焦点とした“楕円軌道”を描く」

事は解っていた。当時の自然科学者たちはそこに

慣性の法則

ガリレイたちが作り上げてきた、外力が働かなければ地上の物体は等速“直線運動”をつづけるとする法則)

をあてはめて考えた場合“矛盾”が生じることに気づいていた。この“矛盾”を整合する上でフックが“考え出した世界の仕組み”が「グラヴィティー

(全ての天体は引力によってその各部分を中心に引きつけているだけでなく、天体間で相互に引き付けあって運動する)

の概念である。

そしてフックの提示した概念に着想を得て、それを数学的に証明したのがニュートンなのである。(ウィキペディアより)

 アリストテレスに始まり、中世の概念、天動説と地動説の対立、等々の歴史を経て、直接的にはロバート・フックがたどり着いた「惑星は太陽を焦点とした楕円軌道を描く」事と「慣性の法則」との矛盾から「引力」と言う概念は成立に至るのである。なんとダイナミズムに富む事か!

 で、何が言いたいかと言うと、私こと長谷川が綴っているこの文章は、フックのもしくはニュートンの考えたことに比べれば矮小な事甚だしい。ただ、“一般論の背後にある仕組みを解き明かすダイナミズム”を書いている当人は感じているのである。その辺、友人は理解していないはずないのだが・・・と思いながらキーボードをたたいていたら彼からラインが来た。

「やっぱり、長谷川の話は滑らないよ。」

「爆笑」

私が

「まあな!」

と返すと

「滑りまくり。一般論、虎の威を借る狐」

「愉快」

と返ってきた。

 どうやら若干嫉妬交じりの憎まれ口だという事は向こうも自覚していたらしい。付き合いが長くなると気心も知れてくる。悪くない関係だ。もっとも一般論はともかく、私のトーク自体はどうやら滑るらしい。気を付けよう。(笑)

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損する人っているものです。

「長谷川漣の何処吹く風」もあわせてどうぞ!11/30にその8が掲載予定です。

長谷川 漣の何処吹く風 – 表現者の肖像 (gentosha-book.com)

フィギアスケートの構造的矛盾

 今日、パク・キュヒさんのギターリサイタルを聴きに行ってきた。クラッシックのことなどまるで解らない私は「きれーな人だな~。まだ若そうに見えるけど20代かな?それにしちゃ表現力あったな。特に後半凄かったな。」と感心して家に帰った。PCで検索してみると国際コンクールで何度も優勝している凄い方だった。ただ1985年の生まれで年齢的には結構いっていた。少なくとも20代ではない。

 先にも述べた通りクラシックのことなどまるで私には解らない。ただ「演奏家の役割とは、作曲家がその楽曲で伝えたかったことを理解し表現する事」それくらいは解る。つまり演奏家表現者として作曲家がその楽曲で伝えたかった感情を再現せねばならない。その感情とは、苦悩であったり、歓喜であったり、孤独であったり、哀愁であったり、時に怨念や狂気であったりもするわけだが・・・。ここで問題になるのは表現者がこう言った感情を体得しているか、つまり実感した経験があるかどうか?という事である。

 孤独を感じたことのない人間に孤独を表現しろと言っても無理な話だ。実感が伴わず、ただ上手に演奏するだけでは聴衆の心に響かない。上手いだけの演者が一流になれないゆえんだ。

 と、そこで年齢の話になる。パク・キュヒさんが、何も単に若くてきれいだから驚いたのではない。あんな若そうなのに表現力が豊かだから驚いたのだ。でも(パクさんには失礼だが)調べてみたら実際には35歳くらいの方だった。納得した。その意味で、本物の表現者になろうとするならある程度年を食うのは必然なのだ。と、考えながらある事に気づいた。

「そういやフィギアスケートって矛盾しているなあ。」

 フィギアスケート選手の身体的なピークは10代後半からせいぜい25歳くらいまでだろう。しかし今まで論じた通り、その年齢では表現者としてはまだまだ未熟なのだ。つまり楽曲のテーマを表現者であるところの選手が消化しきれないのだ。フィギアスケートがスポーツであるのと同等か、もしくはそれ以上に芸術性を競う種目である以上、表現すべき様々な感情がある。にもかかわらず、十代後半の選手にはそれが実際の感情として体得できていないのだ。これはまさにフィギアスケートと言う競技の構造的矛盾である。

 したがってと言うべきか、テーマ曲選びは大切だ。10代の選手にも表現しやすい解りやすい曲を選んだ方が得点に結びつくという結果になるからだ。それはそれで年齢相応で溌溂としていていいのかもしれない。しかし何か物足りないのも事実だ。

 さてこの矛盾をどう整合すべきか?そもそもスポーツなのか芸術なのか?その辺りが問題なのではないだろうか?
 皆さんはどう思われますか?
 どうするIOC・バッハ会長?

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その選手に合ったテーマを選曲するのも大事です!

「長谷川漣の何処吹く風」もあわせてどうぞ!

長谷川 漣の何処吹く風 – 表現者の肖像 (gentosha-book.com)

自分事

 以前読んだ本に「天才とは人類全体にとっての関心や問題を“自分事”として捉える事の出来る人だ」とあった。TVでグレタ・トゥーンベリさんを観ていてまさにその通りだと思った。若干16歳の彼女は、地球温暖化に対して無策をとり続ける大国の首脳たちに警鐘を鳴らす。

 

 「私たちは大量絶滅の初期の段階にいるのだ。それなのに、あなたがた大人が話すことと言ったらお金と、永遠の経済成長という作り話ばかり。よくもまあそんなことができるものだ!」

 

 人類全体に共通する課題を彼女はまさに“自分事”として受け止め、現実の行動で訴えている。毎日のごみの分別さえ苦労する私とは大違いだ。先の発言で彼女は「私たち(人類)は大量絶滅の初期の段階にいる」と述べている。そうなのだ。長期的視野に立てば我々人類はまさに大量絶滅の初期の段階にいるのだ。だというのに大国の首脳たちは何を暢気に構えているのか?自分たちの世代が助かればそれでよいとでもいうのか?人類が絶滅してしまうかもしれない。本当にそれでよいのか?

 

 話しは移ります。かつてこの地球上はやたらとでかい爬虫類で溢れていました。「恐竜」です。約2億年間にわたってこの世の春を謳歌した彼らは6600万年前に姿を消します。彼らに代わり哺乳類の時代が訪れ、やがて二足歩行する利口なサルが現れます。彼らは「てくのろじ」を駆使し、空を飛ぶ鉄の塊をつくったり、破裂する玉を使って殺し合いをしたりします。その上、今度は別の星まで届く乗り物まで造り上げました。ここに及んで1つ問題が生じました。あんまり「火」を使い過ぎて、この星が温まってしまったのです。目先のことしか考えられないサルたちは自分たちの「てくのろじ」で自分の首を絞める結果になってしまったのです。哀れサルたちはついに絶滅してしまうのでした・・・。でも悲しむことはありません。サルたちが100年かけて温めたこの星ですが、もう1万年もすれば元に戻ります。1万年はサルにとっては気の遠くなるような時間でもこの星にとってはほんの瞬き位のもの。なんせ47億年も生きているんだから!サルに代わって今度はどんな生き物がこの星の主役に躍り出るのか?楽しみは尽きません。

 と考えると人類が絶滅してしまう事も、無くは無いなと妙に納得してしまうわけです。

  

 つまり、何を言いたいかと言うと、人類が絶滅することは人類にとっては無論忌むべき事です。ただ、視点を何処に設定するかで物事の見方、ここで言うところの“自分事”はいかようにも変わるのです。

 

さて、あなたにとっての“自分事”とは?

なるべくなら前向きで建設的な何かを”自分事”にしたいものです。

私?私にとっての自分事とは「今日食ったガリガリ君が当たってよかった!」

と、まあそんなところです(笑)。

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目先の事で精いっぱいなのが私の現状です。

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長谷川 漣の何処吹く風 – 表現者の肖像

ピーク

 山脈にピークがあるのと同様、人生にもピークがある。子どもの頃にピークを迎える人もいれば、いわゆる遅咲き、つまり晩年に人生のピークを迎える人もいる。また、一度の人生に2度3度とピークを迎える人もいれば、逆にピークと言うほどのピークを迎えないまま人生を終える人もいる。時にはピカソのようにピークを迎えっぱなしのまま人生を終える人もいるわけで、十人十色で非常に興味深い。ただ、ピークと言いうるくらいのピークを迎える人は、多くの場合近いしい人たちのサポートを受けている。それは親であったり、配偶者であったりするわけだが・・・。

 私の母方の祖父は北関東で象牙細工師をなりわいにしていた。祖父には菊の花を育てる趣味もあり、地元の展覧会でしょっちゅう賞を貰っていた。(どうも私が文章を書くのに凝るのも、この祖父に似たらしい)凝り性の祖父だったが子供が勉学に励む年頃になると菊の趣味をスッパリとやめたそうな。「今度は子供に華咲かせなきゃだからさ!」と後年冗談交じりに語っていた。祖父は自分の趣味そっちのけで、叔父と母のために頑張ったのだろうと思う。20代30代前半までに本人の人生のピークを迎え、子を儲け、その後は自分の子供の成長を第一義に置く。ことライフサイクルと言う観点から言えば、祖父の例はスタンダードなものなのかもしれない。私の友人が子供を持つという事は「バトンタッチ」する事なのだと言っていた。なんとなくわかる気がする。これに対し、先にあげたピカソなどは特殊例と言うべきだろう。ピカソの場合、言い方は悪いが「他者の才能を食い物にして」自身のピークを維持した観がぬぐえない。芸術家って、天才って、良くも悪くも凄いものだと思う。

 さて、ひるがえって私こと長谷川漣のピークはいつになるのか?私はついこの間44歳になった。よっぽどのことがない限りはもう結婚しようとは思わないし、子供を持とうとも思わない。残りの人生を自分自身のために使い切るつもりだ。先のライフサイクルと言う概念からすればピカソとはまた違った意味で特殊例と言える。それを踏まえた上で、改めて私のピークはいつになるのか?40代か50代か?それとも誰も(本人さえ)気づかないままもう終わってしまったのか?いや、そんなことはない。私はまだまだこれからだ!ここで、臆面もなく、本当に臆面もなく大きなことを言わせてもらうならば、私、長谷川のピークは私が死んでからだ。死して一層輝きを放つ、それが私の文章だ。死後百年、2百年と残る文章を書く。それが私の望みなのです。

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その人生を詳しく知ると一層面白いです!

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長谷川 漣の何処吹く風 – 表現者の肖像

 

届け、この想い!!

いくつになっても褒められるのは嬉しいものだ。

先日、以下の様な文面のラインが友人から送られてきた。

 

 

さっき、職場の女の子から

「山形さん(仮名)からいただいた

『不可能なんてありえない』の本、

おもしろいですよ。

毎晩寝る前に読んでます。」

だって!!

長谷川よ、彼女は社交辞令などを言う子ではない。

純粋に褒めている。

俺はそれが妬ましい。

~中略~

あんないい子がお前の本を褒めている。

良かったな。

 

 

私は嬉しくなって思わず小躍りしてしまった。

ダイレクトに褒めてくれた一人目の読者だ。

ちなみにこの本『不可能なんてありえない』は

まだペンネームが定まっていなかった頃の物で

長谷川 徹

名義になっている。

私が初めて執筆した本だ。

ついでにPCで販売履歴を見て見ると

何と6冊も売れている!

少なくとも6人の人が自発的に読んでくれているという事だ

(それとは別に私自身が著者割引で10冊購入している)

何と嬉しい事ではないか!

よしっ、これからも頑張ろう!

そう思った次第だ。

 

自分の想いが誰かの心に届いて

それを震わす。

 

そんな事が出来るとしたら

こんなにすごい事って他にはない。

 

学生時代の友人が当時はやっていた

実況ワールドサッカー・ワールドカップフランス98』

でラストパスを出す際に必ず

「届け、この想い!!」

と叫んでいた(笑)。

それにあやかって私も自分の文章を世に送り出すにあたって

叫ばせていただく。

 

「届け、この想い!!」

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のめり込みました。

 

「不可能」なんてありえない (MyISBN - デザインエッグ社)

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  • 作者:長谷川 徹
  • 発売日: 2019/04/01
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 こちらもどうぞ

 

5歳のモネ (∞books(ムゲンブックス) - デザインエッグ社)

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  • 発売日: 2019/08/20
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 ついでにこの動画も

www.youtube.com

「長谷川漣の何処吹く風」もあわせてどうぞ!

長谷川 漣の何処吹く風 – 表現者の肖像

 

 

目標と目的

 今話題の映画「浅田家」を観てきた。大変面白かった。物語は二ノ宮君演じる主人公のマサシが写真界の芥川賞と言われる木村伊兵衛写真賞をとるところから大きく動き出す。主人公のマサシと自分自身を重ね合わせて観ていた私としては「やっぱ賞って大事だな。」と今更ながらに実感した。これまで私はどちらかと言うと賞なるものを軽んじてきた。「人の創ったものを人が評価する。客観的な評価なんてありえないのでは・・・?」と言うのがその理由だった。でもそれは間違っていたようだ。賞をとる作品にはどれも見るべき点がある。逆説的ではあるが、私が「浅田家」を観ようと思ったのも、この作品が「ワルシャワ国際映画祭 最優秀アジア映画賞」を取っていたからだ。そして、その期待に十分応える内容だった。賞を狙って書くのはどうかと思うが、結果として賞がついてくるのは間違った事ではない。どうやら私にも賞が必要なようだ。目標ができた。エッセイの賞をとろう。そう思ってエッセイでもらえる賞を探してみた。すると、自由なテーマで書かれたエッセイに与えられる賞は極々少ない事が解った。それに対し芥川賞をはじめとして小説に与えられる賞は巷に溢れている。これは単純に小説の方が売れるからだろう。では私も小説にシフトするかと言うと・・・そうはしない。私はエッセイを書きたいのだ。スキマ時間に気軽に読めて、それでいて新たな発見がある。そういう文章を書きたいのだ。そこで思ったのだが、つまりはエッセイの市場規模を大きくすればよい。その為にはエッセイの文学的価値を小説と同等か、もしくはそれ以上に高めればよい。よし、それが私の目的だ。日本におけるエッセイの文学的地位を高めた男、長谷川 漣。そういうのも悪くない。

 今日、目標と目的ができた。目標はエッセイで賞をとる事。目的は日本におけるエッセイの文学的価値を極限にまで高める事。残りの人生をかける価値がある。

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是非、映画館へ!!!

「長谷川漣の何処吹く風」その7もあわせてどうぞ!

長谷川 漣の何処吹く風 – 表現者の肖像

はじめの一歩

 大学時代、ある先生をつかまえてこんな質問をした。

 「中世ヨーロッパの王侯貴族が〔道化師〕を召し抱えたのは寂しかったからではないでしょうか?ジョークって奴は自分と同等か目下の物に対して有効なわけで、そうすると一番偉い王様にはジョークを飛ばせる存在がいなくて、そこで敢えて道化師のような存在をそばに置いたのだと思うのです。」

 私は自分の〔発見〕を誰かに伝えたかったのだ。それを認めてもらいたかったのだろうと思う。そんな私の心中を先生は察しておられたのかもしれない。「君はおもろいこと言うなあ。ええなぁ。」と褒めてくださった。私は思わずうれしくなった。今にして思うと先生は私に≪自信≫を授けて下さったのだと思う。ああ、あの「ええなぁ」は肯定のための肯定だったのだ。当の先生ご自身はきっとお忘れになっていると思うが私にとっては忘れられないエピソードだ。

 それとは別に、ある時、ある大学院生にこんな話を振ってみた。「やっぱゲイって繊細で美意識にすぐれているんですかね?槇原敬之の音楽聞いていてもそうですもんね。」そしたらその大学院生は頭ごなしに否定してきた。どんな風に否定されたかは覚えていないが、とにかく頭ごなしに否定された。私は計算は出来ないが人の敵意を感じ取れぬほど馬鹿ではない。「ああこれは否定のための否定だ。」それ以来その大学院生には話しかけない事にした。もっとも当時の私は卒業論文をほめられて「自分の頭で考えたことを文章にして褒められるってこんなに気持ちいいものか」と多少浮かれていた。彼はそれが気に食わなかったのかもしれない。文系の大学院生などと言うのは今も昔も明日をも知れぬあやふやな身分である。気持ちは解らぬでもない。その彼も、今では教授だ。あのころとは違う対応ができるものと願いたい。

 肯定のための肯定、否定のための否定。いろいろな状況があって、いろいろな人がいるわけだが、さて、ひるがえって私自身はどうか?おかげさまで別の学童に再就職できた私としては無論、前者でありたい。子どもたちがどんなに拙い事であっても「見て見て、聞いて聞いて。」ときたときに「ほう、すごいねぇ~。」と言ってやれる存在でありたい。それが、この仕事のはじめの一歩だと思うのだ。

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がんばって復帰してください!!!

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「長谷川漣の何処吹く風」もあわせてどうぞ!月末にその7が公開予定です。

長谷川 漣の何処吹く風 – 表現者の肖像