どこ吹く風

自分には全く関係・関心がないというように、知らん顔をすること。「何処吹く風と聞き流す」

馬と鹿

私  さあ、今日はみんなに1つありがたい知恵を授けるぜ!聞きたい?

生徒 わーい聞きたい聞きたい!

私  昔々の中国にある年老いた皇帝がいた。天下を統一してやりたいことは何でもやった始皇帝だけど、その皇帝がついに死んじゃう。さて、死んだのが都だったら問題はなかったのだけど、全国旅行の途中で死ぬんだ。死んだときにかれの側に仕えていたのが宦官(かんがん)の趙高。

生徒 宦官て何?
 

私  皇帝が公の仕事をするときには官僚が補佐するんだけど、プライベートの時間に皇帝の世話をするのが宦官。
 宦官は男性性器を切り取られている者たちなんだ。かれらは身分は低く皇帝の私的な奴隷に近い存在。皇帝の身近にいるので、妃たちに近づく機会もあるわけだ。妃たちが皇帝以外の男性とまちがいをおこして皇帝の子どもではない子を産んだりしては困るからね。これが宦官が使われる理由。この宦官は身分的には低くて、役人でもないのだけど、皇帝に身近に接触する時間が長いから、皇帝に成り代わって権力を振るう者もでたりする。皇帝の秘密を知ることもできるしね。

生徒 なるほど

私 さて、趙高たち数人の宦官だけが皇帝専用の馬車に出入りすることが許されていたんだ。皇帝の死を趙高しか知らない。かれはこれを利用して権力を握ろうとした。そこで皇帝の遺言をこっそり見てみた。すると、次の皇帝は長男に譲ると書いてある。長男はこの時、異民族の討伐で北方に遠征中。遠く離れているんだね。始皇帝には何人か息子がいるんだが末っ子の胡亥(こがい)だけが、始皇帝とともにこの旅にでている。そこで、趙高は胡亥にそっと接触して始皇帝の死を告げる。
「陛下の死を知っているのは私とあなただけです。いまなら遺言を書き替えて胡亥様が次の皇帝になることができます。私と協力しませんか?」などといって仲間した。胡亥も皇帝になれるのならと喜んで即位後の趙高の地位と権力を保証したんでしょう。

生徒 悪だね趙高!

生徒 胡亥も

私  まあ、そうだね。そんなこんなで、大行列は咸陽に帰り着いた。
趙高は準備どおり始皇帝の死と胡亥の二世皇帝としての即位を発表した。長男には北方の異民族との戦いで戦果を挙げていないことを理由に自殺するように命令する。皇帝の偽の手紙を送ってだ。

このようにして即位した二世皇帝胡亥はやがて飾りものになってしまう。

実権は宦官趙高が手にするようになった。
宦官は普段は人間以下の存在として軽蔑されているから、権力を握るとやりたい放題になる。政治に対して責任感を持つことはあまりない。ひたすら自分の富と虚栄心を追求するようになるらしい。どうせ子孫もないわけで守らなければないものもないからね。

 

生徒 宦官って悲しいね

私  まあ、そういう見方もできるね
   趙高はやがて自分自身が皇帝になる野心を持ったらしい。自分がどれくらい宮廷の役人たちをつかんでいるのか試してみる。
ある時二世皇帝の前で百官がそろっているところへ、趙高は鹿を連れてきて「馬でございます。」といって献上した。二世皇帝は「趙高、何を言っているのか。角が生えている、鹿ではないか!」と反論した。誰が見ても鹿は鹿だからね。
すると趙高はじろりと居並ぶ百官を見回したんだ。すると、趙高におもねる役人たちは口をそろえて、「陛下こそ、何をおっしゃいます。馬ではありませんか。」
二世皇帝は愕然とする。自分の皇帝の地位なんていうのが実は空っぽのいすだっ

たことに気づくんだね。これが「馬鹿」という単語の・・・?

 

生徒 わかった「馬鹿」の語源だ!

私  その通り!正解!みんなはこの話どう思う?

生徒 百官たち情けない!

生徒 でもあの場にいたらそう言うしかないよ!

私  そうだね。・・・この中で一番腕っぷしの強いのは誰かな?

生徒 Dちゃんだよ!

生徒 うんうん。

私  では、Dちゃんははっきり言えるかな?「それは鹿だって!」

生徒 言えないよ!

私  はははそうだね。言えないよね。何故一番喧嘩の強いDちゃんに話を振ってみたかと言うと、先生は昔から【本当の強さ】って何だろうなって考えてるんだ。その一つの答えがこれかもしれない。

生徒 こういう場面で「鹿だ!」って言えることが?

私  そうだね。もっと拡大解釈すると≪たとえ世界中を敵に回しても≫「間違っていることは間違っている」って言えることが本当の強さかもしれない。

生徒 で、私たちにも「強くあれ」と?

私  そうは言わない。その場で「鹿」って言ったら多分殺されちゃうものね。それじゃ犬死だし。ただね、こういう話が昔あったんだよってことを知っているのと知っていないのでは大違いだとは思う。だから、「強くあれ」とは言わないけど「勉強をして教養を身に着けろ!」とは言いたい!そうすることで少しずつだけど世の中はベター(よりまし)になっていくとは思うんだ。それでねこの話には続きがある。

生徒 聞きたい

私  この馬と鹿の話から1000年以上たった中国の「宋」と言う王朝の時代、時の皇帝によって「文官はいかなる発言であれ、その発言を理由に死罪にすることを禁ず」と彫られた石碑がみなの見えるところに建てられるんだ。

生徒 すごい

生徒 なるほど

私  偉いねこの皇帝。こういう風に歴史ってのは少しずつ少しずつ世の中をより良くしようと積み重ねていくことなんだ。

生徒 歴史面白い!

私  そう、歴史は面白いんだ!歴史を学ぶためにも、まずは学校の授業をきちんと集中して受けることが必要!読み書きそろばん。それに英語もね。

生徒 英語嫌い

私  そんなこと言ってないでちゃんと英語も勉強する事!何でも聞いたところによると、まあ、何でもかんでも欧米に倣えっていうわけじゃないけど、向こうのエリートって呼ばれる人たちは「こいつ話しても無駄だ」って思うと完全にスルーするらしい。

生徒 スルーって無視ってこと?

私  まあね。みんながみんなじゃないと思うけどね。そういう人もいるってこと。

生徒 先生も?

私  いや、私はとてもじゃないけどエリートなんかじゃないし・・・しいて言うなら、エリートくずれと言うか、落ちこぼれエリートと言うか・・・。いやそんなことはどうでもいい。私は無視なんかしないよ。ただね、内心「この子は何も考えずにしゃべるなぁ~しかも人一倍声がデカい!」とかは思うかもしれないね(笑)。だからね、みんなものを考えよう。考えてから喋ろう!で、考えるためには勉強しよう。何度も言うけれど、考えるための訓練が読み書きそろばんなんだ!

生徒 それは解ったけど・・・。先生、エリート崩れって何ですか?

生徒 いや、だからその辺をもう少し考えてから喋れってことだよ先生が言いたいのは。

生徒 先生はな、言っちまったんだよ!「鹿」は「鹿」だって。ねえ先生?

私  (苦笑)いや、今日はここまで!頭洗えよ!歯磨けよ!ではまた!

 

※ 金岡新先生の世界史講義録を参照させていただきました。

「鹿」は「鹿」だ!

 

なぜ世界史はつまらないのか?

2024年3月29日 春期講習 世界史 1日目   文責:長谷川

 

Q:なぜ世界史はつまらないのか?

A:①“暗記”だから

 

~切り口を変えてみよう~

 

例えば、中国史は歴代王朝の名称を順序通りに暗記する必要がある。

それは、もし、もし、かめよ♪ 等のリズムとメロディーで可能だ。

でもそれではあまりにもツマラナイ!

そこで、今日は切り口を変えてみよう!

 

中国は19世紀まで王朝こそ変われど、ずっと “専制国家”であり続けた。

よって、皇帝個人の人間性により、その国家の命運は左右されてきたといえる。

 

名君がずっと続けば何も言う事はない(専制国家で良ければの話だが・・・)

でも無論そうではなかった。

 

暴君、暗君が出ることで、その王朝が短命に終わった例も多々ある。

どんなボンクラの皇帝が出ようが

国家がその命数を永らえるために、何をどうすれば良いか?

それを歴代の中国王朝は模索してきたともいえる。

 

そこで今日は、

あなたが創始者だとして、千年でも万年でも続く専制国家を自由にデザインしてみよう!

 

国家を運営するわけだから当然“お金”つまり税がいる。どれくらい、どうやって集めるか?

人材の確保は?

国防は?

皇帝の暴走を止める仕組みは?

私(長谷川)は都度ヒントを出します。

 

時間は20~30分

 

その後、中国歴代王朝がどのように国家運営の仕組み整備してきたか?解説します。

では、頑張って考えよう!

 

 以上は、私が勤め先で春期講習の70分×3回の授業で使用するつもりだった第1回目の授業案だ。

 

「なぜ世界史がつまらないのか」

 

を考えることで、逆に世界史の面白さを伝えようというコンセプトのもと作成した。対象は高校三年生。ある程度世界史の授業を受けてきたことが前提だ。

 

この後、エクセルで作ったん歴代王朝とその制度を表にしたものを生徒に提示する。自分では無い知恵を絞って作ったつもりなのだが・・・。

 

ここ数週間、こんなことを考えて来たという事で興味がおありの方はご覧ください。ちなみに著作権は放棄しておりません。

                                            長谷川 漣

なぜ世界史はつまらないのか?



美意識をもて!

 最近あるユーチューバーの動画をよく見る。そのユーチューバーはある企業の経営者でもあるのだが、経営者として独り立ちしたばかりの頃はいわゆる“人を見る目”がなかったそうだ。経営者として経験を積みながら“人を見る目”が次第に備わってきたと言う。

 

 さて我が身を振り返って、私には人を見る目があるだろうか?私は採用する側に立ったことなど一度もない。よって、詳しいことは解りかねる。だが、採用側から見て一番重要視するのは最終的に信頼に足る人物か否かではないだろうか?無論、能力的なことは大事だ。でも、長いスパンで見た際、それ以上に大事なのはその人間性だと思う。それは何て言うか自明の事なのだ。

 

 ではその人間性を見極めるにはどうすれば良いか?それをたかだか30分の面接でなど私には到底できない話だ。ただ、ある一定の期間その人を見ていれば、次第にわかってくる事もある。私に言わせれば、それは交友関係に端的に表れる。人の信頼をたやすく裏切るような人間には、そもそも友達がいない。いたとしても上っ面だけの表面的な付き合いの場合が多い。

 

 そしてその手の人間の常として外見上はともかく、内面的な美意識に圧倒的に欠ける。それはそうだ。人並の美意識があったら「信頼」と言う尊い感情を踏みにじったりできない。では美意識って何なのか?そこまで来ると私はいつもこう思う。「結局、自分自身との戦いなのだ。」と。

 

 私事で恐縮だが、私は平気で人を裏切るような薄汚れた人間にはなりたくない。その意味において、私は誰よりも“自分自身のために”他人を裏切らないのだ。他人を裏切るという行為は、つまるところ自分自身を裏切ることに等しいのだ。どこまで自分自身を貫き通せるか?そういう事なのだと思う。

 

 でも、「そこまでして、そのごたいそうな美意識とやらを守って何かいいことあるの?」と問われれば困ってしまう・・・。ただ、例えば北野武さんが平気で他人を薄汚く裏切るような人間だったとしたら『HANABI』のような作品はとてもじゃないが残せないと思う。また、ノエル・ギャラガーが平気で他人の信頼を踏みにじるような人間だったらあのような楽曲残せないはずだ。

 

 偉そうなことを言うようだが、芸術って、感性ってそういうものなのだ。で、私のつづる文章にも“それ”は現れる。もっとも、もし欠片でもあればの話だが・・・。そして私の文章に興味を抱いてくださる皆さまにも“それ”はあるのだと思う。そこで共鳴する何かがあればこそ、読んでいただけるのだと理解している。

 

 で、最終的に何が言いたいかと言うと、美意識を持とうよ!という事か。私はそういう人間と付き合いたいし、“それ”を失っちまったら人としてお終いだとも思う。そんなわけで、窮屈にならない程度の美意識は必要だ。人として在りたいのであれば。と言うのが私の持論です。偉そうでごめんなさい(笑)

いい顔してる!

Oasis - Whatever (Official Video) (youtube.com)

 

教養としての数学

 数学に興味がある。以前にもこのブログで述べたが、学生時代私は数学が一番苦手だった。点さえ取れれば良いと、公式を丸暗記してテストに臨んでいた。「考える」という最も肝心な部分をおろそかにしていたのだ。結果、思うように点数が伸びず、苦手意識を持つ。その苦手意識から分不相応な難しい参考書に手を出す。結果、余計に苦手意識を持つ。その繰り返しだった。そんなわけで、今再び点数にこだわらない【教養としての数学】を学んでみようと思っているのだ!

 

 その他にも理由はある。仕事上、世界史のほかにも文系教科である現代国語を教える機会がある。その際、私は自分でも驚くくらい【楽しんでいる自分】を発見した。理由を考えてみた。

 

 世界史を教える醍醐味は、歴史上の様々な人物を紹介できる点にあると私は思っている。剣に生き、剣に倒れた武将。その命を賭して真理を追究した科学者。「そんなことは聖書に書いてない!」と時の権力者にたてついた宗教改革者。死の間際、いっぱいの紅茶をたしなみ「これでよし!」とのたまった哲学者。どれも面白い。その状況下で、それをやるか?と言いたくなるような行動をとる。人間って面白いのだ。歴史とはその人間たちが織り成す絵巻物だ。また、もう少しうがった見方をするならば、世界史の授業は蓄えた知識をどういう切り口で生徒に見せるか、そこに工夫の余地があり、それこそが面白いともいえる。

 

 それでは現代国語を教えた時私が感じた面白みとは何か?一言で言うとより抽象度が高い。これに尽きる。世界史が主に“知識”を扱うのに対して、現国(現代国語は)より抽象的な事柄を扱う。それは異文化論であったり、科学思想史であったりする。取り扱う内容そのものが抽象的なのだ!つまりより考える余地がある。そこが面白い!

 

 そこで考えた。文系理系の垣根を取り払うならば、もっとも抽象的な事柄を扱う教科は何だろう?それこそが数学なのだ!

 

 そんなわけで、私は今数学に興味がある。もちろん人様に教えようとかそういうレベルにはない。自分自身の趣味として教養として、学びなおしてみたいと思うのだ。そう言えば北野武さんは数学が得意で、東大に合格した友人にも数学を教えていたのだとか・・・。もしかしたら、数学が扱う抽象的な事柄の、その向こうに芸術があるのかもしれない。そんなことを考えた。

 

そんなわけで、今再びの数学が私の中で来ているのです!

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理性と感情と

 先日、公共の温泉施設に両親を連れて行った。その際、ふろ上がりに親父が施設に備え付けの図書コーナーで『マンガで読むギリシャ神話』を若干恥ずかしそうに読んでいた。≪若干恥ずかしそうに≫と言うのは、うちの父は常々私に対して「マンガなんて読んでないで本を読め!」と繰り返し叱責してきたためだと思う。戦中生まれの親父は、【マンガ=くだらないもの・幼稚なもの】という図式が頭の中で出来上がっていたのだろう。いつも難しそうな本を、難しそうな顔をして読んでいた。

 

 それに対し、私は「マンガがくだらないかどうかは読んでから判断すればいい。そもそも、難しいことを難しく書くのはナンセンスだよ。本当にきちんと理解している人は、難しいことを解りやすくかみ砕いて伝えることができる。言い換えると抽象的な概念を具体的に表現できてこそ、本物だよ!マンガにはそれができる。」と、理でもって説いてきた。でも父は一向にそれを受け入れなかった。結果父と子の溝はなかなか埋まらなかったのだが・・・。

 

 その父がマンガを読んでいる。私は半ば嬉しく、また半ば尊敬の念をもって父を眺めた。80を超えた人間が自分の誤りを認め、その方針を転換するというのは、なかなかにできることではない。その率直さが私にはまぶしかった。何故、今になって翻意することになったのかはわからない。何かしらの変化が彼の中にあったのだろうか?なんにせよ、親父にとって、長谷川家の本棚にとって大きな一歩だ。

 

 親父は田舎で物理の教師をしていた。だからと言うわけではないが、私は理(ことわり)でもって説いてきたつもりだった。それがこのように時間がかかってしまったのは物の理(物理)など所詮、人間の感情にはかなわないという事か?

 

 人がほかの何よりも理によって動く生き物なら、どれだけ時間と労力が省かれるだろう?なぜもっと人間は理性的になれないのか?そういう、ひょっとすると驕り高ぶった?思いが私にはある。同時に父がマンガを読んだことに対して「嬉しさ」だとか「尊敬の念」だとか、そういった感情を抱く自分がいるのも事実だ。

 

 理性か?感情か?

 

 なかなかに人間と言うのは難しい。でも、だからこそ理解する面白みがあるというものだ。そんなわけで、今後も人間をテーマに文章を書いていこうと思う。

神話って面白い!

 

本当の知

 先日、前から乗っていた自転車が古くなったので、新しいのをネットで購入した。すると万事保守的な母が、「なんでもすぐにネットで買うのはどうかと思うよ。」といつものように小言を言う。対して私は「機会損失と言う言葉を知ってるかい?俺が自転車に乗れないのは俺にとっての機会損失になる。これ以上は言わないけど、言葉とその概念くらいは知っておいた方がいいよ。」体よく母を黙らせたことに気をよくした私は、自分で言った機会損失と言う言葉に思いをはせていた。

 

 「もし、もしお金が潤沢にあればの話だけど、今の若者にとっての最大の機会損失は海外に行かない事だろうな・・・。」最近の若者は海外に積極的に行きたがらないという話をよく聞く。無論、円安という現実的な問題はある。だとしても、十代二十代で海外に行かないのは大いなる機会損失だと心底思う。私だってそれほど海外経験が豊富なわけでは決してない。ただ、海外に行ってみてそこで得たものは自分にとって計り知れないくらい大きかった。

 

 昔ベトナムを旅した時、同行した友人に「俺はヨーロッパに行きたい。」と告げると「つまらないでしょ。」と一蹴されたことがある。その時は「なぜ???」と思ったのだが、今なら解る。少し歴史を学ぶとわかるのだが、合理性と効率をキーワードとする近代のパラダイムは欧米によってもたらされたものだ。友人に言わせれば「今更、欧米的価値観を見に行ってもつまらないでしょ!」という事だったのだ。それよりも、いまだ近代のパラダイム(欧米的思考の枠組み)に染まってない国を見に行った方が面白いよ!そう本能的に悟っていたのだろう。結果ベトナムに行ったのは大正解だった。

 

 日本にいると当たり前のことが向こうでは当たり前でも何でもない。逆に日本にいると何でもない事が向こうでは常識だったりする。誤解を恐れずに言うならば、常識が異なるというのは思考の枠組みや価値観、つまりパラダイムそれ自体が異なるという事だ。その意味で異国の地で生活するのは思考の枠組みを再構築する機会ととらえることができる。友人は「どうせ再構築するなら、全然違うもののほうが面白いよ!」と言いたかったのかもしれない。

 

 もっとも、日本人は近代欧米的パラダイムすら、いまだ会得していない。と言うか福沢諭吉の頃からほとんど進歩していない。欧米には欧米で十分に行く価値があると思うし、近代以降のゲームチェンジャーは常に欧米だ!そのことを肝に銘じておかないと足元をすくわれてしまう。ただ、近代のパラダイムがすべてと考えるのでは、友人に言わせるなら「その知はツマラナイ」という事になる。

 

 今私に時間と金銭的余裕があるなら、ネイティブアメリカンに会いに行ってみるのもいいし、アボリジニの生活にも触れてみたい。アイヌの人たちにも学ぶところは多々あると思う。多様性と言ってしまえばそれまでだが、知のパラダイムは決して一つではない。本当の知とはあらゆるパラダイムを身に着けつつ、あらゆるパラダイムから自由であることなのかもしれない。

 

 もしこの文章をお読みの皆さんの中に10代20代の方がいるなら、お金の許す限り、是非積極的に海外に行くべきだと思う。そしてそこで本当の知を獲得して欲しい!

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学び続けることの意味

 先日、ある生徒から「先生はどんな本を読んできたのですか?」と質問を受けたので、とりあえず田中芳樹先生と村上春樹先生をあげておいた。そこで、どの作品が一番面白かったか?という話なったので、お二方とも若かりし頃に書いたもののほうが面白かったねと答えておいた。以前もこのブログで述べたことだが、どのような表現者であれ、一人の人間の抱くテーマの数とはそれほど多くはない。初期の作品を世に出した後、表現者と言われる人たちの多くは「○○煎じ」。もしくは「出○らし」になってしまう。ビートルズの凄かったのは年を経るごとに新たなテーマを開拓していった点にある。そう私は思っている。

 

 「丸に入る漢字当ててごらん。」と伝えると、ある生徒は見事どちらも答えた。出涸らしの涸の字が書けなかった私としては正直ほっとした。

 

 ついでに伝えておくと、こうして話している私だって、いずれは皆に伝えることが無くなって出涸らし、若しくは二番煎じになってしまうかもしれない。出来るだけ、そうならないようにとは思っているのだけれど・・・。その為に私がどうしているかわかるかな?と問うと、別の生徒が「学び続けるってことですか?」と答えた。

 

 「そう。そうなんだ。学び続けることの意味はたくさんあるのだけど、少なくとも私にとってはそういう意味がある。それに別段、表現者じゃなくても、学び続けることは新たなテーマを見つける事。つまり、新たな自分を発見することでもある。生涯学び続ける。そんな人であってほしいね。」と締めくくった。

 

 幸い現代はスマホとインターネット環境さえ整っていれば、どこからでも学べる時代だ。その恩恵を十二分に受けるべきなのだと思う。

 

 この文章をお読みの皆さんも、生涯現役!学び続ける人であってほしい。

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