どこ吹く風

自分には全く関係・関心がないというように、知らん顔をすること。「何処吹く風と聞き流す」

葛藤

 先日、ドライブ中に運転する兄との間で話題がNHKの『鎌倉殿の13人』に及んだ。要点をかいつまんで話すと次のようになる。

 血で血を洗う権力闘争の中で、追い落とす相手が“他人”であれば、話は簡単だ。相手が友であったり、肉親であったりした場合、そこに“葛藤”が生じる。この“葛藤”こそが物語を重厚かつ面白くさせているのではないか?だからこそ骨肉の争いがしばしば文学・芸術のテーマになるのでは?そう述べる私に対する兄の意見はこうだ。

 それは後世の平和な時代の人が、話を面白くさせるために後付けしたものに過ぎない。信長はもとより、秀吉、家康に至っても自分の弟や子供を政略の道具として使い、邪魔になったら捨てて(殺して)いる。血で血を洗う時代に生きた人の感覚はそんなに甘っちょろいもんじゃない。と言うか、そんなにウェットでは自分自身が生き残れない。大事を成さんとする者は非情でなければならない。そしてそのような自己を正当化できるものだけがその後の平和な時代をつくる事が出来る。その平和な時代に生きる人が後付けしたのが“葛藤”に他ならないのでは?

 それを聞いて私はハッとした。つまりは自分もその平和な時代の甘っちょろい人間の一人だと思ったのだ。

 シェイクスピアの作品の一つに、自分の夫をそそのかしてその主君を殺させた女性がでてくる。その女性は後に罪悪感から「どんなに洗ってもこの手から血が拭い去れない。」とついには発狂してしまう。もしかするとこの場面もシェイクスピアの後付けで、モデルとなった当の本人は何とも感じていなかった、もしくは自己を正当化していたのかもしれない。ただ兄はこうも言っていた。そうして歴史に名を残した少数の人物の蔭で“葛藤”した幾人もの敗者がいたんだろうね。その意味で文学・芸術って敗者のロマンなのかもしれない。

 若干話はそれるが、この良心との“葛藤”にまさにピンポイントでフォーカスしたのが『罪と罰』なのだろう。なるほどドストエフスキーが凄い理由が解った気がした。

 

さて、葛藤なくして成長なし・葛藤なくしてドラマなし

これは私の造語だが、皆さんはどう思うだろうか?

いざと言う時に非情になれるだろうか?

それとも葛藤するだろうか?

今現在がまさにその時だと感じている人々もいるだろう。

大事を成すという事が非情に徹する事なのだとしたら

私にはとても大事など為せそうにない。

 

 話しは戻るが、『鎌倉殿の13人』で小栗旬さん演じる主人公は、どちらかと言うと真面目な普通の青年として描かれている。この主人公が今後“葛藤”を通じてどう変わってゆくのか?ゆかないのか?大変興味深い所である。

今後が楽しみです!