どこ吹く風

自分には全く関係・関心がないというように、知らん顔をすること。「何処吹く風と聞き流す」

よりましな社会

 高校生の頃、英語の授業で以下のように習った。

「ヨーロッパでは『あなたはどういう生まれなの?』と問われるが、アメリカでは『あなたは何ができるの?』と問われる。」

その当時、直感的にアメリカっていい国だなと思った。ヨーロッパはいわゆる貴族社会の名残で身分制度が色濃く残っている。それに対し、アメリカでは生まれや血筋なんか関係ない。その人自身が何をできるかがモノをいう。能力至上主義ともいえる。映画『タイタニック』をご覧になった方はよく解る話だと思う。私のように感じる人が多数派だろうと当たり前のように思っていたが、そうとも言えないらしい。この国(日本)では意外と、と言うべきか否か、ここで言うところのアメリカ的価値観を否定的にとらえる方々もいる。生まれや血筋を重んじるというのは突き詰めて考えれば、身分制度を肯定することになる。貴族とか平民とかおかしな話だ。我々人類は必死の想いで「身分」なんて概念を否定してきたのではなかったか?と思ってきたが・・・。

 話しは移るが、私には障がいがある。発症から14年。当時に比べだいぶ安定してきてはいるものの、完全な寛解(よくなる事)と言うものがあり得るのかどうなのか解らない。そういう障害だ。もし私がナチス統制下のドイツに生まれていたら「劣勢遺伝子を排除する」との名目のもと処理(殺す事)されていただろう。現代日本に生まれてよかった。と喜びたいところだが、それでもまだ心配はある。私の甥っ子や姪っ子が将来結婚する際、「あの人のうちは親族に障がい者がいるから・・・。」という理由で破談にでもなったらどうしよう。そういう心配だ。そんなに心配ならわざわざブログなどで公にしなければいいだろうという方もいらっしゃるだろうが、でも、だからこそ、私は私の障がいをオープンにしたいし、するべきだと思う。つまり障がいを恥ずべきものとして捉え、隠して生きる事、そういう風潮それ自体が結局のところ「劣勢遺伝子」とか「血筋の尊さ」と言った考え方を助長することにつながると思うからだ。それではいけない。障害には程度の差もあるだろうし、家族にしかわからない様々な苦労もあるだろう。でも、身内に障がい者がいる事を伏せて、恥ずべき事として生きてゆくのは間違っている。と言うか、そうせねばならない社会の在り様は絶対に間違っているし、そんな社会変えていかねばならない。その意味で私はまず自分自身の障がいをオープンにする事から始めたい。

 話は戻る。アメリカの在り様が何でもよいとは限らない、それは百も承知だ。でも、少なくとも『あなたはどういう生まれなの?』と問う社会より『あなたは何ができるの?』と問う社会の方が、今まで論じてきた意味において「よりまし」だと思うのだ。ついでに言うなら『何もできなくたっていいじゃない』と答えられれば理想的だ。みなさんはどう思いますか?ご意見をお待ちしています。

 

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私も劇場で観ました!レオ様カッコイイ!!

「長谷川漣の何処吹く風」もどうぞ!29日にその3が掲載予定です。

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