どこ吹く風

自分には全く関係・関心がないというように、知らん顔をすること。「何処吹く風と聞き流す」

コミュ力と引き換えの・・・

「先生はもう少しコミュ力を磨く必要があるね。」

 勤務先の学童での一コマ。どうやら私には“コミュ力”が無いらしい。小学生にも見透かされてしまったようだ。情けない話ではある。では、そもそもコミュ力とは何なのか?何故私にコミュ力が足りないのか?自分なりに考えてみた。

 

 コミュ力とはコミュニケーション能力の略だ。意思疎通する力のことである。意思疎通するだけなら私には何ら問題ない。問題なのはこのコミュニケーション能力、通称“コミュ力”が3人以上の集団内で用いられる際だ。最もシンプルな例を考えてみる。私はAとBと3人で1つのグループだとする。前提条件としてAとBは対立しており、関係修復の見込みはないものとする。その際、私の採るべき行動は至極単純化するならば

 

①Aとの対話場面ではBの噂話をする。

②Bとの対話場面ではAの噂話をする。

 

の2つに絞られる。

 要は私にはこれが出来ないのだ。この年(45歳)になっていまだにこれが上手くできない。社会人として致命的と言うべきか?しかもこの例はもっとも単純化したものであり、我々の属する社会とはもっともっと複雑である。年齢・性別・社会的地位・その場における順位序列・力関係。数え上げればきりがない。そういう社会でみんな上手にステップを踏みつつ生き抜いている。どうやら私はダンスのステップ一つ覚えられないままオッサンになってしまった社会不適合者らしい。

 

 でも・・・。でもそれは違う。私の中で何かがそう訴えかける。でもそれって少しずつ少しずつ誰かをもしくは自分を“裏切ること”によって成り立っているのではないか?そして裏切りとはもっとも恥ずべき行為の1つなのでは?みんな社会に適合するために大切な何かを見失ってしまっているのでは?私の中の根源的な何かがそう訴えかけるのだ。そしてこの根源的な何か?が私が文章を綴る上での初期衝動なのだ。だとすれば、下手にダンスのステップなんか覚えなくてよかったんじゃないかとも思うのだ。

 

 もし、もし仮に、私の文章が誰かの心に響くことがあるとすれば、それは私の中の根源的な何かに共鳴しているのだと思う。そしてそれは私がダンスのステップを覚えない事で、つまりはコミュ力と引き換えに私に残ったもの、備わったものなのだろう。

 

 さて、皆さんはどう思われるだろうか?コミュ力が大事なのは言うまでもない。ただ、それと引き換えに何か大切なものまで失わないようにと、私などは望むのである。

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コミュ力≒図太さ