どこ吹く風

自分には全く関係・関心がないというように、知らん顔をすること。「何処吹く風と聞き流す」

コミュ力とかコミュ障とか

 いつからだろう?コミュ力とかコミュ障とか言う言葉を耳にするようになったのは。少なくとも私が仙台にいた頃、私の学生時代には無かった言葉だ。その頃は「日本人なんだから日本語が使えりゃ十分。」と思っていたし、実際それで困ったことは一度もなかった。男性だろうが女性だろうが「どうよ最近?」と笑顔で聞けば相手は大概「どうもこうもないよ(笑)。」笑顔で返してくれた。無論、目上の方には「どうですか最近?」と敬語にしてはいたが(笑)。笑顔で率直であればコミュニケーションに困る事なんて決してなかった。それが今はどうだ?今の私は立派な“コミュ障”だ。

 

 最近ある方に教わったのだが、声をかけたい人がいたら、まずはその方の視界に入る。その次に、心持ちトーン高めにして柔らかく声かけをする。話し中なら「お話し中、大変失礼します。少しよろしいですか?」と言った感じに。これが仕事上の取引先とかなら話は分かるが、そう言うわけでもない。相手はいつも顔を合わせるご近所さんだ。でもこれが現代の、“令和”の常識らしい。一体いつからこの国はそんなにお高くとまった国になってしまったのだろう?昭和・平成・令和とだんだんに日本は“つんと澄ました”国になってきているようだ。日々それを実感する。

 

 ところで、話はやや飛躍するが、私の経験から言えば、優越感は劣等感と表裏一体だ。自分に自信がないから、相手を見下しがちになる。お高くとまっている人ほど背景には何かしらのコンプレクスがある。無論これは個人レベルでの話だ。しかし、マスレベルでも同様のことが言えるのではないかと最近思う。つまりこの国が“つんと澄ました”国になってきたその裏側には自信を無くしてきた過去、いわゆる“失われた30年”があるのではないか?そう思うようになって久しい。無論、時代の要請(インターネットの普及と、それに伴う情報漏洩のリスク等)もあるのだろうが・・・。

 

 で、私はこの国に「自信を取り戻そう!」とか言いたいわけではない。無論そんなことが言えるような立場にいるわけでもない。ただ、笑顔で率直であればだれとでも気軽に話せた“あの頃”が懐かしくてたまらない(それは私が学生だったからというのもあるのだが・・・。)ああ、あの頃はよかった。こんなセリフが口をついて出てくるのは私も年を取ったということなのだろうか?でも槇原敬之さんも楽曲『どんな時も』の中で歌っておられる。

 

 ♪昔はよかったねと いつも口にしながら 生きてゆくのは本当に嫌だから♪

 

 と。さて私は一介の学童支援員に過ぎないので難しい事は解らない。でも「いつだって次の一歩を踏み出すのは、自分が転んだことを認めてからだ」という事は解る。転んだ状態で手足だけばたつかせていたのでは、いつまでたっても起き上がれない。まずは転んだ事実を認めなければ。歩き出すのはその先なのだ。

槇原敬之 - どんなときも。 - YouTube