どこ吹く風

自分には全く関係・関心がないというように、知らん顔をすること。「何処吹く風と聞き流す」

忖度

You wanna be who you'd be
If you're comin' with me
I think I've got a feeling I've lost inside

 

Oasisの代表曲『Roll With It』の一節だ。意訳すると

 

自分らしく生きたいんだろ!

俺に気なんか使うなよ!

そんなことされたら

なんだかさみしくなっちまうじゃないか。

 

私はこのフレーズが好きだ。理由は単純に正直で温かみがあるからだ。

 

今年の流行語に「忖度」が選ばれた。意味は「相手の気持ちを推し量ること」。この忖度が私は苦手だ。正確には忖度している自分自身が嫌いだ。これは社会人としては致命的な欠点だと思う。何故なら互いに忖度しあうことで物事が円滑に進み、社会が滞りなく運営されるからだ。確かに社会が円滑に運営されるのは良いことだ。ただそこに、よそよそしさと、誤解を恐れずに言うならある種の不誠実さを感じるのは私だけだろうか?学生時代、特にお金があったわけではないが、私は友人にだけは本当に恵まれていた。今思うにあれは下手な忖度をしなかったからだ。忖度せずに思いのたけを正直に述べたからこそ築けた人間関係だったのだ。社会人になってからはそうはいかない。互いに忖度し合い、程よい距離を保つ。それが大人の付き合いというものだ。もしくは私の学生時代が幼かったというべきなのだろうか?ひょっとしてOasisの曲想は幼いのだろうか?そうかもしれない。ただ幼稚であろうが、自分勝手であろうが、そこには時を経て人の心を打つ何かがある。でなければこれほど多くの人に支持されないはずだ。もしくは忖度し合う世の中だからこそ訴えるものがあるのかもしれない。それを人は美意識というのだろうか?昔、「幽遊白書」という漫画の中でけんかに一番強いものが好きな願いを叶えられる、つまり魔界のルールを決められるという魔界統一トーナメントなるものが開催された。我こそはとひしめく猛者たちの中で、圧倒的な強さで優勝したのはこれと言った野心のない主人公の亡父の友人だった。一番強いものがも他者に対して一番優しくなれるという単純明快な、しかし社会のある一面の真実を表していたのをよく覚えている。富樫義博先生は忖度がお嫌いなんだろうなとその時思った。

しかしまあ、なんにせよ忖度は必要だ。ただそれは何処かしら温かみと誠実さに欠ける。もしかするとそれがさみしくて嫌で、忖度など必要としない関係を求めて人は家庭を持つのだろうか?私は今まで家庭を持ちたいと考えたことがなかったが、なんとなくその理屈がわかったような気がする。忖度ばかりの世の中で多少の摩擦があってもホンモノが欲しいのではないだろうか?私には小学4年の甥っ子がいるのだが、彼の「おれウナギ食いたい。」という、忖度のまるでない表情がまぶしいのだ。

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