どこ吹く風

自分には全く関係・関心がないというように、知らん顔をすること。「何処吹く風と聞き流す」

平手打ち

 私は小学校の1年か2年の時、初めて父に平手打ちを食らった。その時のことは鮮明に覚えている。確か母の実家に帰る途中だったと思う。母の実家のあるT市は私の住んでいた山間の小さな町からすれば大都会で、そこにある大きな本屋に連れて行ってもらい、恐竜の本を買ってもらう約束になっていた。駅から妹の手を引いて歩く父の後を歩きながら、私は「いつになったら本屋につくの?」とそればっかり何度も何度もしつこく父に聞いた。すると黙って歩いていた父が突然振り返って私の頬に平手打ちを食らわせた。父は何も言わなかったが言外に「我がままばかり言っているんじゃない!」という意思がそのころの私にも伝わってきた。それ以来、私は黙って後をついて歩いた。父の行為がベストだったかどうかはわからない。でも少なくとも飴玉を与えて黙らせるとか、適当におだててあしらうとかよりもはるかにベターな選択だったと今ではわかる。

 

 さて、それから40年、いま私は学童につとめている。学童に勤務していれば当時の私のように何を言っても許される、何をやっても許されると勘違いしている児童がまれにいるのも事実だ。そんな時どうするか?うまくおだててその場をやり過ごすか?それとも見て見ぬふりをするか?それとも父の如く鉄拳を食らわせるか?もっとも鉄拳を食らわせるわけにはいかないので、怒鳴りつける以外にはないのだが・・・。

 

 我々指導員として最も楽なやり方は飴玉でも与えて、おだててやり過ごすことだ。逆に最も難儀なのはピシャリと𠮟りつけることだ。そしてどちらがその子のためになるかと言えば、それは明らかに後者なのだ。叱ることは気力も体力もいる。叱りつける側だって完璧な人間ではない。間違いも失敗もある。そして子供はそういう間違いや失敗を往々にしてついてくる。それでもしかるべき時はきつく𠮟らねばならない。でないと何度やってはいけないことをやっても「自分は許される」とその子が勘違いしてしまうからだ。

 

 だから父の平手打ちのように駄目なものは駄目だと記憶に叩き込んでおかないといけない。でないと「自分は許されるんだ」と勘違いしたままの大人になってしまう。そうなった時、今度はだれも𠮟ってくれない。残念ながら社会はいい大人を叱ってくれるほど愛情に満ち満ちてはいないのだ。

 

 逆に言えば、きちんと叱ってくれるのは愛情があればこそだ。その場しのぎの飴玉とか愛想笑いとかは愛情でも何でもない。甘やかすだけ甘やかして卒業したらはいそれまでよ。では絶対にいけない。甘やかすのは愛情と最も遠いところにあるのかもしれない。子供を持たない私はこの年になってそれを痛感している。人を育てるって難しい。

 

 そんなことを考えながら今日も職場の学童への道を急ぐ。子供たちが言うには、私は怒るとそれなりに怖いらしい。幸か不幸か?どうやら父に似たのかもしれない。

それでよし!