どこ吹く風

自分には全く関係・関心がないというように、知らん顔をすること。「何処吹く風と聞き流す」

いじめの構造

仕事上パソコンでの単純な処理作業を繰り返すことがあります。これを30分~1時間とやっていると非常にイライラしてくるものです。文章を綴ったりするのとは頭の使い方が異なるのでしょう。文章を綴っている分には何時間経とうが一向に苦ではないから。でここからが本題ですがイライラが募ってくると未熟者の私はそのイライラの矛先を誰かしらに向けてしまいます。そんなときに矛先が向くのは不思議なことに、優しい人やおとなしい人。もしくは後ろ盾のない人や周囲から浮いている人です。今「そんなのあたりまえじゃん」と思った方、その当たり前こそが問題なのです。何故、我の強い人や、うるさい人、周りとのつながりが強い人や、一目置かれている人に矛先が向かないのでしょうか?そこにこそいじめの本質が潜んでいると思うのです。これは矢島正雄 作・弘兼憲史 画の人間交差点(ヒューマン・スクランブル)から学んだ事なのですが、力は弱い方に向くのです。決して強い方ではないのです。これが人間の悲しい性(根本原理?)なのでしょう。

もしくは力とは己のアイデンティティーを脅かす存在に対して向けられます。これは自己防衛本能というべきもので解りやすいものです。これらが絡み合ったのがいじめの本質的構造かと思われます。なるほど私がいじめられる道理です(笑)。ただ、忘れてならないのは自身を相対化する事です。いじめられる側がいじめる側に回ることだってままあるのです。それは先に記したとおりです。いじめられてばかりの私にだって人をいじめる可能性があります。で、理性と自意識の人をもって任じる私としては、この事態を己の理性で何とかできないかと。イライラの矛先を誰かに向けてしまいそうな時、もしくは向けてしまった時は自分の頭をげんこつで叩いてみようかと。理性でいじめを克服できるかという個人レベルでの実験です。これは。ただ、はるか昔に孫子が示した通り、「戦わずに済むならそれに越したことはない。」つまりイライラが募らないような環境を作れるならば、それに越したことはありません。それこそがマネジメント(組織運営)の胆(きも)なのでしょう。私も教員時代には何よりもこの点に留意したクラス運営を行いました。こちらは組織レベルでのいじめ抑止策というべきでしょう。

さて、いじめについて個人レベルと組織レベルの両面から論じてきましたが、厄介なことが一つあります。これに色恋沙汰が絡んでくる場合です。こうなってくると事態は愛憎劇の様相を呈してきて、ただでさえめんどくさい問題がより一層厄介なものとなります。そこまでは今のところ私の守備範囲外です。いずれは文章化してみたいと思いますがまだまだ先の話でしょう。

そんなわけで今回はいじめについて考えてみました。皆さんの学校や職場にいじめはありますか?いじめは多かれ少なかれあって当然です。一番恐ろしいのはそれを閉じた組織の中で隠蔽してしまう事、見て見ぬふりをしてしまう事です。どちらも「外」に対して開かれていれば大丈夫と私は考えます。なんでもそうですが閉じて流れが澱んではいけないと常々思うのです。

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学生時代、仙台の漫画喫茶で読みました。