どこ吹く風

自分には全く関係・関心がないというように、知らん顔をすること。「何処吹く風と聞き流す」

いくつもの顔をもて

私のペンネームの下の名前「漣」は先日亡くなられた、その役柄の幅の広さから300の顔をもつ男と評された故 大杉 漣さんから頂いた。300の顔をもつ男、かっこいい!イカシテル!我々も300とはいかないまでもせめて1ダースくらいは顔をもちたいものだ。というかもつべきだ。というかもて!300の顔をもつとはどういうことか?それは300の役割を担う、もしくは嘗て担ったという事だ。役割を担うとは言い換えればそれだけ居場所があったという事。難しくいうとそれだけの共同体に属したという事だ。(ここでは共同体の厳密な定義を論じることは避けます。)

 さて、話は移りますが、友人によれば「hikikomori」とは西欧にない日本特有の概念だそうです。ひきこもりとは共同体から排除された結果、もしくは排除されることを恐れて身動きが取れなくなってしまった状態を指すものと私は理解しています。西欧でひきこもりの概念がないのは、共同体の意識が日本に比して希薄だからでしょう。裏を返せば日本人は共同体あっての自分という意識が強く、共同体から排除されることを極端に恐れます。西欧人の様な個人の確立とまではいかなくても、我々日本人が共同体フリーになる方法はないのでしょうか?あります。それは一人が複数の共同体に属する事です。やさしくいうと複数の居場所を作る事です。AがだめでもBがある。BがだめでもCがある。Cがだめでも・・・という具合に。学校がだめでもクラブチームがある。フリースクールがある。その意味で部活動は今後地域のクラブチームに移換されてゆくべきでしょう。また、学校以外の学びの場(インターネットスクール等々)も増やしていくべきでしょう。複数の共同体に属する、複数の居場所を持つことでいわゆる共同体からフリーになることができ、結果として、ひきこもりになる確率は減少するのではないでしょうか?つまり何が言いたいかというと「いくつもの顔をもて!」という事。その意味で300の顔をもつ男、大杉 漣さんかっこいい!と言うわけです。そんなこんなで下の名前を「漣」にしました。ご理解いただけると幸いです。仕事とは時間は多くとられてもあくまで one of them に過ぎないというのが私の考え方です。またこの考え方を現代の日本社会に対して提案します。働き方改革と対になるものだと思います。あなたもなりませんか?共同体フリーに!

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大杉 漣さん、ありがとうございました。