どこ吹く風

自分には全く関係・関心がないというように、知らん顔をすること。「何処吹く風と聞き流す」

影響力

 「コロナのワクチン接種の手続きが明日の9時からだからよろしくね。」

と母が言うので、てっきり翌日の朝9時からネットの予約受付開始なのだと思っていた。あらかじめ予約の手順を見ておこうと、自治体のホームページを開いたら、なんと既に予約は始まっているではないか!?ネットでの予約は24時間可能だという事実が母には理解できなかったのだ。ネットの向こう?に人がいる?朝9時以降でないとだめだと思っていたらしい。母にはインターネットの仕組みがまるで解っていない。こと情報化と言う意味では“ポケベル”が世に出た90年代半ば頃から母の中では時が止まっている。IT化に全くついていけてないのだ。

 「あの頃は家の仕事に畑にお爺さんとお婆さんの世話に忙しかったからね。ポケベルとかパソコンとか、そんなもの習っている暇なかったんだよ。」

とは本人の後日談である。

 「その後いくらでも時間はあったろうが・・・。」

と思うのだがそれは口には出さない。ただそれとは別に私には1つ母に言いたいことがあった。その頃、ちょうどポケベルが世に普及し始めた頃、兄が「パソコンが欲しい。」と両親にねだった事があった。父は理解を示したものの、母は「学校の勉強で十分!」と言って耳を貸さなかった。当然パソコンは買ってもらえなかった。その頃パソコンに触れていれば、もしかして私たちの人生は今と少し違ったものになっていたかもしれない・・・。可能性の芽を摘んでしまったという意味で「あれは良くなかった」と今でも思う。当時、私たち兄弟は母の強い影響下にあり、その母はやはり、舅と姑の強い影響下にあった。新しいものを理由もなく否定する。そのような思想的影響下にあった。

 人が人に及ぼす影響力は馬鹿にならない。一緒に住んでいればなおさらだ。その意味では私自身もまた同居する両親の影響を受けている。らしい。ただ今回のような事があると、あれれっ大丈夫かな?と思うのも事実だ。でもそれをストレートに伝えることは憚られる。何故なら、「誰かに対して影響力を持つという自負」は、その人の生きる励みになっているからだ。自分たちが息子に対して影響力を持っているのだという自負、それは彼らをシャンとさせている。そう思うと、無下には出来ないのだ。一方で、私自身にも彼らの影響下にあれば何かあってもそれを彼らのせいにできる。そういう甘えがある。それもまた事実だ。ただまあ、今回のような事があると、俺がしっかりしなきゃなと思うのだ。これを極々ありきたりな表現で表すなら「老いては子に従え」という事になる。

 そんなことを考えながら母に「何と言うかまあ、俺の人生は俺の力で切り拓くよ。」と言うと、母は「当たり前だよ、自分の人生なんだから。」との事。「親の心子知らず」ならぬ「子の心親知らず」か?何はともあれ、接種の予約は出来たので良かった。

 さて、我が身を振り返って、この文章は読んでくださっている誰かに影響?を与えているのだろうか?だとしたら襟を正さねばならない。私としては、影響力を持つなどと言うたいそうな事では無くてよいから「この文章を読んでくださった方々が何かを考えるキッカケやヒントになれれば有難いな」と思うのです。忙しい毎日のスキマ時間に読めて、「あっ長谷川はこんな事考えてるんだ。自分はこう考えるけどなあ!」と。そんな風に読んでいただけたら本望なのです!

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ホントにやるの?オリ〇ピック?

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長谷川 漣の何処吹く風 – 表現者の肖像 (gentosha-book.com)

守るべき存在

 いきなりですが皆さんは長いものに巻かれるのはお好きですか?

 私は大嫌いです。齢44にもなって長いものに巻かれるのが嫌で嫌で仕方ないのです。そんな私を精神的に未熟だ、幼稚だとおっしゃられる方々もおられるかと思います。確かに私は精神的に未熟で幼稚なのかもしれません。おっしゃる通りです。でも、でも私にも反論させてください。私は相手が後輩だろうが、子供だろうが自分が間違っていたと思えば素直に非を認め謝罪します。それは私をご存知の方々は皆さんお認め下さると思います。  

 私が納得いかないのは相手が権威や権力を背景に非道な手段に訴えた時です。正々堂々と否を鳴らすのなら兎も角、そうでない場合、とことんまで私は歯向かいます。

 尾田栄一郎先生のマンガ『ワンピース』のエースのセリフに

「力に屈したら男に生まれた意味がねーだろ。」

があります。いいセリフです。しびれます。そうなのです、力に屈したら漢に生まれた意味がないのです。カッコいいです。しかし、物語中では、最後の最後まで力に刃向かったエースは処刑されてしまいます。壮絶な最後です。私もこういう形で最期を迎えるのも悪くはないと思っておりました。でも、ある漫画を読んで少し考えが変わりました。板垣恵介先生の『グラップラー刃牙』です。このマンガには対照的な2つの強さがテーマとして描かれていた章があります。ズバリ『守るべきものが在る強さ』と、『いつ死んでもかまわない強さ』です。果たしてどちらの方が強いのか?このマンガでは先述の『守るべきものが在る強さ』の方が勝利します。そうなのです。守るべき存在がいるという事は人を強くするのです。私くらいの年になると友人は皆『守るべきもの』が在ります。自分の家族です。私の友人たちも守るべき家族の為に、不本意ながらも長いものに巻かれて日々暮らしているのだろうと思います。その憂さを晴らす為に酒やタバコが必要なんだとこの頃では感じるのです。

 幸か不幸か、私には守るべき自分の家族はいません。いるとすれば高齢の両親です。彼らの為に、巻かれるのも致し方ないかなとも思うのです。しかも相手は“超”のつく長いものなのです。それこそ北関東を一周してしまうくらいの!私にだって言いたい事のヒマラヤ山脈1,000個分くらいはあります。でもそれをグッと、グッとこらえて少なくとも“超”長いものに巻かれた“ふり”位してやるのが大人としての務めなのかなあとも思うのです。そうタバコの煙に紛らせて・・・。

 さて、皆さんには守るべき人はいますか?もしいらっしゃるのであれば、“超”長いものの1つや2つ巻かれてやろうではありませんか!

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まるっとお見通しだ~!

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優先順位

 スマホを新調した。もっともオンラインで購入したので、まだ手元には届いていない。結論から言うとワイモバイルでOPPOのReno3Aにした。そこに至るにはそれなりの必然性があった。まず未だにガラケーを使っていた両親がスマホに替えるにあたって高齢者用スマホにする必要があった。すると高齢者用スマホを扱っているのは大手キャリア3社とワイモバイルだけ。両親はソフトバンクガラケーを使っていたので2年縛りの解約手数料を払わずに直ぐにスマホにするには同じソフトバンクか若しくはそのグループ会社であるワイモバイルになる。ソフトバンクとワイモバイルではワイモバイルの方が安いし、プラン的にも必要十分だ。そこで両親はワイモバイルを選んだ。家族割等の割引を使う為にも、私は必然的にワイモバイルにする必要があったと言うわけだ。そしてワイモバイルの扱う機種の中で最もコストパフォーマンスの良い機種がOPPOのReno3Aだったのだ。トコトン考えればシムフリーなどさらに割安のスマホがあったかもしれない。だが、まあいろいろな意味で納得のできる買い物だった。はじめはスマホを新調するにあたり、溢れる選択肢の中から一つに決めるのは至難の技だったが、物事の優先順位を考えると自然と答えは出た。

 そう、何事にも優先順位と言うものが在る。優先順位をあきらかにすることで複雑に見えていたことがシンプルになる。選択肢に迷った時はおおもとの優先順位に立ち返ればよい。そうすれば間違いない。

 さて、今おおもとの優先順位と述べたが、おおもとの優先順位って突き詰めれば人生における優先順位って事だ。自分の人生において何を優先順位の一位にするか?これが解っているか?いないか?解っていないと人生がぶれてしまう。例えばマンガ『島耕作』シリーズでは島耕作の人生の優先順位の第一位は無論、仕事だ。さすがにスーパーサラリーマン島耕作らしい。では私長谷川はと言うと『自分らしく生きる事』になる。少し抽象的かもしれないが要は「俺は俺なんだ!」という事になる。これは良い見方をすれば『自分』を把握しているという事になるだろう。悪い見方をすれば『自分が一番』という事になりかねない。そういえば一昔前に『ダンゴ3兄弟』という歌が流行った。曰く

 ♪おとうと想いの長男・長男

 ♪にいさん想いの3男・3男

 ♪自分が一番次男・次男

 ♪ダンゴ3兄弟・ダンゴ

と言う歌だ。私は上と下に兄妹がいてズバリ次男坊だ。正直この歌は身につまされる思いだ(笑)。上も下も結婚して自分以上に大切な自分の家族を持っている。家族を持つという事は自分以上に優先すべき存在を持つという事なのだろう。愛ってそういう事かも知れない。私が結婚できないわけだ。ただ、全世界の次男坊の為に補足させてもらうと、自分が一番と言うのは自分の理想なりロマンなりを最優先できるという事でもあり、その意味では社会とか世界とか人類とかそういう規模で物事を考えるのはもしかするとここで言うところの次男なのかもしれない。とも思う。自己弁護(笑)。そんな私としては今回、珍しく未だガラケーの両親を自分よりも優先したわけで、なかなかに感心な行いだったと言える。

 さて、皆さんの人生における優先順位はどうなっていますか?仕事?家族?恋人?はたまた・・・?何にせよブレない優先順位がある事って幸せだと思うのです!

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ブラックを購入しました。

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ブランド

 ブランドと言うものに無頓着だ。全身ブランドで固めている人など見かけると「あれ一体いくら掛かっているんだろう?」と興味本位の視線を向けてしまう。機能とデザインにそうそう変わりがないなら安い方がいいのに。ずっとそう思っていた。でもそういうものでもないらしい。思い当たる節があったので以下に記したい。

 先日、スマホの機種変更を思い立って近くの家電量販店に行ってきた。買ったころはサクサクと小気味よく動いてくれたスマホが最近では調子が悪い。処理速度が追い付かなくてモッサリと重くて仕方ないのだ。そのことを店員さんに告げると、店員さんは早口でまくしたて、あろう事か、通信会社の変更を勧めてきた。現在ガラケーの両親と家族割にするつもりいた私は面食らってしまい、「また来ます。」と言い残して退散した。そういえば、かつてドラッグストアに勤めていた頃、花粉症の季節になると「お客さんに聞かれたら必ずこれを勧めるように。」と言われたある目薬があった。同じような効き目、同じような価格の目薬が多々ある中で何故この目薬?と思っていたら何のことはない。その目薬が一番仕入れ値が安かったのだ。つまりお店にとっては一番儲けがいい。もしかすると家電量販店の店員さんもそれを狙っていたのかもしれない。そんな事を後で友人に伝えると友人は「じゃあ、自分で調べるべきだよ。現代は自己責任の時代。何をするにもね!」との事。私は「そうだな!」と納得はしたものの、これが難しい。処理速度が追い付かないのはおそらくCPUのせいなのだろうが、そう簡単にその違いを見極めることはできない。単純に数字の大きい方が性能も良いと言うなら話は簡単だ。でも実際には数字とアルファベットでCPUの名称が示されており、容易には判断できない。困ったな。と言うと友人は「やっぱ最後は人だよ。どれだけその店員さんが信用に値するか?人を見る目を養う必要があるんじゃない?」とのたまう。確かにそれはそうだが、会って数分でその人が信用に値するかどうか?見極めろというのも無理な話だ。そこで「なるほど、最後に頼るのは“ブランド”なんだな。」という結論に友人と私は落ち着いた。細かい事、詳しい事は解らないが、あのブランドの製品なら間違いは無いだろう!そう信頼させる力をブランド力と言うのだ。ちなみにその友人はパソコン・タブレット・携帯すべてアップル社製を使っている。ブランドに信頼を置いているというのも勿論あるし、端末を全て同じブランドで統一する事で統合のメリットが生じる、つまり使い勝手が良いとの事。ブランドって奴も馬鹿に出来ないんだな。と感心した。これまでブランドなるものに少なからず懐疑的だった私は大いに反省した。

 さて少し話は飛躍するが

「四・五十年も生きていれば自分の顔に責任を持たねばならない。」

と言う話をよく聞く。生き様が顔に現われるというのだ。今までの話で言えばそれが自分と言う”ブランド”なのだろう。別の友人が私の教員時代の写真を見て「長谷川さんて昔はカッコよかったんすね!」とよく言う。「今だって悪くないだろ。」と言い返すのだがその友人は笑って応じない。ふと鏡を見て見る。この20年で何がどう変わったのか?定かではない。ただ、人間味に深みが増した。と自分では思っている(笑)

 まあ、顔はいいとして、少なくともこの文章が長谷川漣と言うブランドイメージを形作っているのは確かだ。下手なことは書けないな。と思う。それを踏まえた上で最後に再確認しておきたい。前にも述べたが毒にも薬にもならないような文章なら、はなから書く必要はない。私こと長谷川漣の書く文章はいわば劇薬だ。ブランドイメージは「劇薬」。そういうのも悪くない(笑)

 

『劇薬』が掲載されています!「長谷川漣の何処吹く風」もあわせてどうぞ。

長谷川 漣の何処吹く風 – 表現者の肖像 (gentosha-book.com)

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こちらブランド米です(笑)

 

でっかい声で

 先日、NHKの「あさイチ」に林真理子さんがゲスト出演された。はじめて知ったのだが、林さんは何と40年以上にわたってエッセイを連載しており、「エッセイの神様」との異名を持つ方だった。エッセイを書いていると公言している私としては赤面の至りだ。無神論者ならぬ不信論者を気取る私としても、読まないわけにはいかない。と思って観ていたら番組内で林さんの最近のエッセイから一部を抜粋して解説がなされた。

 落とし物をした林さんの後ろから

「お姉さん、落とされましたよ。」

と、若い女性から声をかけられた。そこで「おばさん」でなく、「お姉さん」と声をかけてくれた事に、林さんはとても相手の優しさを感じたとの事。年齢的な事を考えたなら「おばさん」が適当なのかもしれない。でもそこを「お姉さん」とした相手のやさしさに触れたという事だった。

 この解説を聞いて「お姉さん」と呼んでくれたことに相手の優しさを感じ取った林さんもまた優しい方なのだなと思った。こういう日常の些細な事に優しさや美を感じとるその心の動きも女性的だと思う。枕草子以来の日本的情緒と言えるのかもしれない。一方で私がこの後ろにいた女性だったらどうしたろう?と考えた。私だったら「お姉さん。」と呼び止める事は出来なかったと思う。自意識過剰なところが私にはあって、如何にも相手に気遣いをしているこちらの心中を読まれるのが嫌で、口をつぐんでしまったのではないか?と思うのだ。若しくは「すいません、落としましたよ。」と言うのが席の山だろう。

 まあ、それは良いとして、エッセイの神様に対してこんなことを書くと将来?が危ぶまれるのではないか?と心配にもなるのだが、私はやっぱりoasisの方が好きだ。(林さんごめんなさい)

 

 たましいの色 - どこ吹く風 (hatenablog.com)

 

 先程、清少納言枕草子以来の日本的情緒と述べたが、そう言う些細な事に目を向けた美意識も悪くはない。悪くは無いのだが、私自身はもっとでっかい事に目を向けたい。でっかい事が好きだ。でっかい所で、でっかい事を、でっかい声で言いたいのだ!そのために売れたいのであって、売れたいが為に、言いたいことも言えないのでは本末転倒も甚だしい。

 今まででっかい事を言うとほとんどの場合、否定の嵐だった。だからいつの間にか「お姉さん」も言えないような人間になってしまったのだ。でっかい所で、でっかい事を言いたい。その為に売れる必要がある。

 枕草子好きです。でもこの国の人ももっと大きなところで大きなことを言っていいのではないかと・・・そう思うのです。

皆さんはどうですか?

でっかい事考えていますか?

でっかい事言う奴きらいですか?

私は好きです!

 

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春はあけぼの・・・

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士は己を知る者のために・・・

 私は決して器用な方ではない。手先はともかく、立ち回りとか、生き方とかむしろ不器用すぎるくらいだ。特に3~4種類の物事を同時進行で進めるというのが非常に苦手だ。学童の仕事でも、皿を洗いつつ、子供の話に耳を傾けつつ、何時には習い事のお迎えが来るので用意をするように伝え、等々という事が多々ある。そんな時は文字通り天手古舞だ。逆に何か一つの事に集中して深く思考するのは得意だ。これが私という人間の特性なのかもしれない。うちの母などに言わせるとそれが障害の後遺症(高次脳機能障害)だというのだが・・・。私としては障害を「できない」理由にはしたくない。そういう風に自分を甘やかしたら、きりがないからだ。もし万が一そのような症状があるのだとしたら、それとうまく付き合っていく必要がある。と、そんなことを考えていたら、ある同僚の方が

「長谷川先生はあれでしょ?一つの事に集中しちゃうタイプでしょ?」

と聞いてきた。私は

「そうなんです、1つの事に集中してしまって、いくつものことを同時進行で頭に留めて置くって事が苦手で・・・。そのせいでご迷惑かけちゃっているかもしれないんですが・・・。」

「うん、見てりゃ解るよ。私なんかは子育てしてきたから・・・。子育てってそういうのだもん。学童も子育てだからね・・・。そういう意味じゃ、もしかしたら向いてないかもね(笑)」

嬉しかった。まず自分という人間を正しく理解してくれたことが。次に「もしかしたら向いてないかもね」と正直に伝えてくれたことが。代表の先生にもこの事を伝えてみた。すると

「私もそうだよ。私も何時もそういうのを10個くらい抱えている。何か一つに集中出来たらよいけど、そうもいかない。だから人に任せることにしている。あとは信用する。何かの職人だったら、自分一人で自分の仕事だけに集中して納得のできるものをつくれればそれでよいのだろうけど・・・。でも自分一人じゃできることに限りがあるしね。あとは慣れて自分を変えていくしかないね(笑)。」との事。私は

「まだ少し慣れるのに時間がかかるかもしれませんが頑張ります。よろしくお願いします。」とお伝えした。

 中国の故事に「士は己を知る者のために死す」というのがある。男とは自分を正しく理解してくれた者の為ならその命すら惜しまない。という意味だ。逆に言えば自分を正しく知ってもらう事がいかに難しいか?を説いたものでもある。現代の社会でも十分に通用する言葉だ。自分の事を解ってもらえるという事は本当に有難い事なのだ。

 理解して貰ったからには、俺も頑張らねば!そう思った。

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侠って奴です!!!



I trust myself.

I trust myself.  I decide so.(自分を信じるって、そう決めたんです。)

今週号の(『ブルージャイアント』石塚真一先生)の一コマだ。インタビュアーからの「あなたの自信は何を根拠としているの?」という質問に対する主人公大の答えだ。今日仕事の帰りに寄り道したコンビニで立ち読みした。体が震えた。(いずれはコミックスで全巻揃えます。小学館さんご勘弁下さい!)

 買い物を済ませて車に戻ると直ぐにCDを入れ替えてoasisの『live forever』を選曲した。何故かわからないが、無性にこの曲を聞きたくなったのだ。イントロのかすかな口笛の後に腹の底から魂を揺さぶるようなドラムの音が響いてくる。

 「正直な話、お前の事なんてどうだっていいんだよ。知りたくもない。俺はただ飛んで行っちまいたいだけ。」

 先の『ブルージャイアント』とはずいぶん曲想が異なる。でも何か通じるところがある。Oasisは愛だの恋だのという事は歌わない。もっと人間としての根源的な何かをテーマにしているのだ。そこが私の好きなところで、それは『ブルージャイアント』にも共通して言える。あえて言うならそれは「人間としてどうあるべきか?」を表現しているのかもしれない。

 車の中で歌いながら帰途に就いた。言葉が、画像が、音楽が人の精神に与える影響は決して小さくはない。身近な言葉で言えば、私は今日も『ブルージャイアント』やoasisに勇気をもらったという事になる。出来る事ならば私も読んだ人を奮い立たせるような、そんな文章を書いてみたい。そう思った。

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石塚先生ありがとうございます!

Oasis - Live Forever (Official Video) - YouTube

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長谷川 漣の何処吹く風 – 表現者の肖像 (gentosha-book.com)