どこ吹く風

自分には全く関係・関心がないというように、知らん顔をすること。「何処吹く風と聞き流す」

たましいの色

 図書館で借りてきた林真理子さんの直木賞受賞作「最終便に間に合えば」を読んでいたところ、ランダム再生していたスピーカーからoasisのwonder wallが流れてきた。瞬間、私の意識はもっていかれてしまった。楽曲をお聞きになられたことのある方は解ると思うが、この楽曲からイメージされるのは、たった一人で大きな存在に立ち向かっていく、そんな姿だ。林真理子さんの作品にケチをつけるつもりはない。その昔自分を粗略に扱った男性に対して社会的に成功した女性がどのような感情を抱くのか?二人がどのような再会をするのか?それはそれで面白い。この作品が書かれた当時の時代性を切り取っているのは確かだろう。ただノエル・ギャラガーがこの楽曲でテーマにしている事と比べるとあまりにも卑近だ。むしろwonder wallの方が高尚なのか?林さんには悪いが、ぶっちゃけどーでもいいのだ。男女のただれた感情などは。ただ誤解しないでもらいたい。私は林真理子さんの人間性まで否定するのではない。一社会人としてはノエル・ギャラガーなどよりもよっぽど立派な方だろうと思う。ただ、何というか、何というべきか、たましいの色、そう、たましいの色が違うのだ。oasisがシーンを席巻していた90年代当時、彼らは平然とアルコールやドラッグに溺れていた。このwonder wallがつくられた時もノエルはそんな状態だったのかもしれない。しかし聴けば解るようにその楽曲は高尚だ。彼らの魂は崇高な色をしている。その魂が崇高であるがゆえに、いや、崇高であるからこそアルコールやドラッグに溺れざるをえなかったのではないか。そう思うようになって久しい。本物の芸術家と言われる人達が一社会人として「ダメ」であったとして、それはある程度大目に見なければならないのではないだろうか?だからと言ってドラッグを肯定するつもりはないのだが・・・。芸術とドラッグの関係。この文章をお読みの皆さんはどのようにお考えですか?コメントいただければ幸いです。

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