どこ吹く風

自分には全く関係・関心がないというように、知らん顔をすること。「何処吹く風と聞き流す」

卒、倍返し宣言

 「やられたらやり返す、倍返しだ!!!」が決め台詞のTBS系ドラマ『半沢直樹』が面白い。私も欠かさず見ている。いいオッサン同士が、これでもかと罵り合うこのドラマ。ここまでヒットするのは、それだけ世間が「不条理」に満ちているからだろう。このドラマはこのドラマで面白い。それとは別に(『イムリ 26(最終巻)』三宅乱丈先生)をつい先程、読み終えた。こちらは『半沢直樹』程の知名度はないと思う。せっかくだから感想を述べたい。

 14年間にわたってコミックビームにて連載されたこの作品は「許し」が重要なテーマとなっている。「許し」とはつまるところ「自分自身とのとの戦い」であり、「誇りを持って生きる」ことなのだと作者は述べている。

 ストーリーは「イムリ」と「カーマ」そして「カーマ」の支配する奴隷民「イコル」と言う3つの民族がその存続をかけて複雑に絡み合う。イムリの住む豊かな星を奪う為、カーマはイムリに攻撃を仕掛ける。科学力において勝るカーマは始め一方的にイムリを惨殺し、その支配を強める。だが、最終的には星の力を宿したイムリがイコル(カーマの奴隷民)と協力する事でカーマに勝利する。勝利を収めたイムリはどうしたか?「これだけ惨い仕打ちを受けたのだ、やり返して当然だ」と、怒りに身を任せて復讐(「倍返し」)したか?いや違う。「倍返し」すれば、それは気持ちがいい。スカッとする。でもそうはしない。それでは憎しみの連鎖は断ち切れないからだ。怒りに任せて「倍返し」しようと思えばできる。でもそれを断腸の思いでこらえて、融和と共存の道を模索する。それは、ともすれば怒りに身を任せてしまいそうになる「自分自身との戦い」でもある。また、作者はこうも述べている。「これから我々は様々な不条理と立ち向かわなくてはならないでしょう」「それでも怒りに任せ、術や暴力で戦ってはならないのです」「そうしてしまえば、誇りある我々の未来を諦めることになるからです」感情に身を任せるのではなく、理性でもって自らを律することを作者は「誇りを持って生きる」と表現している。当然そんな甘い話が通用するわけはないという批判も作品中に出てくる。だが、こうも作者は述べている。「誰かが理想を掲げ続けなければ、未来への可能性も得られない」

 さて、我が身を振り返って今までどれだけやり返してきたことか。私は口が達者な方ではないので文章でもって相手をやり込めてきた。それこそ「倍返し」だ。不条理な事がある都度「倍返し」してきたように思う。しかし、2020年9月15日、本日、三宅乱丈先生と故マハトマ・ガンジーに対し敬意を払い、ここに「卒、倍返し」を宣言する。正直、まだまだ「倍返し」したい相手はいるのだが、そこは私も大人だ。水に流そう。この「卒、倍返し宣言」、作品中の次のセリフをもって自らの戒めとしたい。

 

 「勝者の我々はよりよい未来をつくっていく責任を負ったんだ。何を奪うか?何を与えるか?何を選ぶか?勝者が何を要求するかでこの星の未来は決まってしまう!感情に任せて考えなしに行動すれば、この先子供達に恥ずかしい歴史を語り継いでいくことになるんだぞ!それでいいのか!?」

 

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ラルド覚者!


「長谷川漣の何処吹く風」その5もあわせてどうぞ!

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傲慢で強くて残酷な

 本日Blue Giant(石塚真一先生)の最新号を読んだ。心が震えたフレーズがあったので記したい。

 

これだけの

アウェイの空間で

ブーイングを浴びても

全く動じず、

メロディーに

集中し続け

上がり続ける。

オレとは…

見ているモノが

まるで違う。

傲慢で

なんて

強くて

何て残酷なんだ。

 

 このセリフを吐いた後、エディーは音楽をスッパリ諦める。詳しくはビッグコミック9・25号をご覧ください。ここからは私事で恐縮だが、最近このエッセイを綴るにあたって、こんな風に書いたら一般受けするんじゃないか?とか、これを書いたら余計な誤解を受けるのではないか?とか、ずいぶん私自身が小さくなっていたように思う。でもそれではダメだ。石塚真一先生がエディーのセリフの中で述べているように、表現者とは「傲慢で、強くて、残酷であらねばならない。」表現者日和見をしてどうするのだ?それに表現者としてまで小さく落ち着いてしまっては私の人生などはなから無いも同じだ。今更失うものなど在りはしない。「精一杯表現してやる」と再確認した次第だ。どうせいずれは死ぬのなら、言いたいことを言ってから死にたい。簡単に言うとそういう事になる。日々の生活の糧さえあれば・・・後は表現したいことを表現するまでだ。

 石塚先生、有難うございます。

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石塚先生、いつもありがとうございます!

 

細く長く

 最近私の中で蕎麦が熱い。以前はラーメンだったが近隣の有名どころは、ここ数年で食べ尽くした感がある。そこで最近は蕎麦に興味が移ってきたと言うわけだ。それに年齢のせいかラーメンの脂っこさよりも蕎麦のさっぱり感を体が求めているようだ。以前の自分にとってベストだったもの(ラーメン)が今の自分にはベストでなくなってくる。そして、それに代わる新たなべスト(蕎麦)が生まれてくる。年齢を重ねるというのは、それを素直に受け入れる事なのではないだろうか?たかがラーメンと蕎麦で恐縮だが・・・。

 話は飛躍するが国のカタチだってそうかもしれない。以前(昭和)に目指した理想像をいつまでたっても追いかけているのは、体は年を取っているのに、いつまでも脂っこいラーメンを追い求めている様なものかもしれない。年を取ったなら年を取ったなりに食生活の変化があって当たり前だ。目指すべき理想像も変化して当たり前ではないか?もっとも、いつまでも若くある事が理想だと言われれば、また話は違ってくるのだろうが・・・。

 まあ、なにはともあれ私はもう中年だ。食生活も変わってくるし、運動しなければお腹だって出てくる。もう怖いものなしだった若い頃の様にはいかない。蕎麦ではないが仕事だって、人生だって、このエッセイだって、細く長く続けたいものである。ついでに言うとこの国だって太く短くよりは、細く長く続いた方がよりマシではある。その為には教育にだけは時間と労力とお金を注がないといけない、と思うのだ。あともちろん愛情もね。(笑)

「長谷川漣の何処吹く風」その5もあわせてお読みください!

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今、何時だい?

 

居場所

 誰だって居場所が欲しい。欲張りなことを言ってしまえば、居場所は複数あった方がよい。たくさん居場所のある人もいれば、居場所がなくて困っている人もいる。居場所とはつまり他者との関係を構築できたかという事で、逆に居場所がないというのは他者との関係を構築できなかったという事だ。そこには運も含めて様々な理由があるわけだが・・・。  

 去年、青森にいる学生時代の友人に会いに行った。学生時代散々語り合った友人だ。その友人が「ほら俺ってもう、ホームあんじゃん。」と冗談交じりに言った。私は「ホームか。学生時代の我々には出てこなかった言葉だね」と答えた。学生時代の彼は、どちらかと言うと非社交的な方だったが、社会人になって結婚し、今では小学生の男の子がいて大勢の部下を抱える身になっていた。聞けば自宅を開放して部下を呼んで食事会をしたりもするらしい。学生時代からは想像もできない事だった。彼は彼の居場所を見つけて、そして今度は誰かの居場所をつくる立場になっていたのだ。その友人と話していて気づいたのだが誰かの親になるとか誰かの上司になるというのは、つまり誰かの居場所をつくるって事なのだ。もう少し言ってしまうとマネジメントとはメンバーの居場所をつくる事に他ならない。学校の先生は単に勉強を教えるだけではなく、生徒の居場所をつくってやらねばならないし(無論発達段階に応じてその役割は違ってくるが)会社の上司だって部下の居場所をつくってやる必要がある。スポーツの監督だって選手たちの居場所をつくってなんぼだ。それが出来れば、後は自ずと上手くいくものなのだ。私も4月から新小学一年生が学童に入ってきて、その子たちに居場所ができるよう働きかけてきたつもりだ。初めは私の周りで遊んでいた子供たちだったが、そのうち皆友達になって子供同士で遊ぶようになる。そのきっかけになれたのではないかと思っている。子ども達の居場所をつくってやること。仲間はずれが出ないようにする事。それが何より大事なのだ。最低限の務めは果たせたかなと思っている。

 今は学童の話をしたが、これがもっと大きな組織なり国なりだったりした場合、その頂点に立つ者、もしくはマネジメントをする者は、下にいるもの全員の居場所が出来るように働きかけねばならないのだから大変だ。すべての社員なり、すべての国民なりがそれぞれの居場所を見つけられるように心を配る。そういう大きな優しさが上に立つものには求められるのだろう。話は飛躍するが、もしかするとジョン・レノンが『イマジン』で歌ったのは「世界中の人がそれぞれに自分の居場所を見つけられるように」というメッセージだったのかもしれない。その意味でジョン・レノンは世界中の人の上に立つ器だったのだろう。夢想家と言ってしまえばそれまでだが。

 さてジョン・レノンに比すべくもないが私もこの仕事を続けていく限り、子ども達の居場所をつくっていかねばと思う。それは誰かをスケープゴートにして他の団結を図る、そういう類いの場所であってはならない。誰もがそれぞれに愛着を持てる、そういう場所であるべきなのだ。

 

松本顧問へ

前職では大変お世話になりました。

本当にありがとうございました。

この場を借りてお礼を申し上げます。

 

Imagine there's no Heaven
It's easy if you try
No Hell below us
Above us only sky
Imagine all the people
Living for today...

Imagine there's no countries
It isn't hard to do
Nothing to kill or die for
And no religion too
Imagine all the people
Living life in peace

You may say I'm a dreamer
But I'm not the only one
I hope someday you'll join us
And the world will be as one

Imagine no possessions
I wonder if you can
No need for greed or hunger
A brotherhood of man
Imagine all the people
Sharing all the world

You may say I'm a dreamer
But I'm not the only one
I hope someday you'll join us
And the world will live as one

 

想像してごらん 天国なんて無いんだと
ほら、簡単でしょう?
地面の下に地獄なんて無いし
僕たちの上には ただ空があるだけ
さあ想像してごらん みんなが
ただ今を生きているって...

想像してごらん 国なんて無いんだと
そんなに難しくないでしょう?
殺す理由も死ぬ理由も無く
そして宗教も無い
さあ想像してごらん みんなが
ただ平和に生きているって...

僕のことを夢想家だと言うかもしれないね
でも僕一人じゃないはず
いつかあなたもみんな仲間になって
きっと世界はひとつになるんだ

想像してごらん 何も所有しないって
あなたなら出来ると思うよ
欲張ったり飢えることも無い
人はみんな兄弟なんだって
想像してごらん みんなが
世界を分かち合うんだって...

僕のことを夢想家だと言うかもしれないね
でも僕一人じゃないはず
いつかあなたもみんな仲間になって
そして世界はきっとひとつになるんだ

 

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若かりし日のジョン。

「長谷川漣の何処吹く風」もあわせてどうぞ!その5が8月末日に公開予定です!

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愛のカタチ

 「一心同体」と言う言葉がある。「二人以上の人が心を一つにしてあたかも一人の人のように固く結びつくこと」と言う意味だ。母が息子に寄せる愛情などはその解りやすい例かも知れない。私が十代の頃、仙台で一人暮らしを始めるまで、うちの母がまさにそうだった。食事の際に私に「これ、うんと美味しいよ。」と声をかけてくる。そのたびに私が「美味いかどうかは俺が俺で判断するからいいよ。」と答える。そんな会話を何度交わしたか知れない。その頃の母には「自分にとって美味しいものは私にとっても美味しい」と勘違い?思い込み?確信?つまり自分と私とが「同じ」であると信じて疑わない?信じるというよりも、まさに書いて字の如く「一心同体」なのだ。それが十代の私には嫌で嫌で仕方なかった。その状態は結局、私が神奈川で就職するまで続いた。私の就職が決まってしばらくして上京した両親は、私に無断で私の職場を訪問した。宿でその話題になって私はさすがに腹を立てた。母に対して「俺とあなたとは別々なんだよ。」と啖呵を切った。すると母はあろうことか泣き出してしまった。ここで折れては駄目だと思った私は頑として態度を変えなかった。それ以来、母は、私と言う別個の人格がある事を悟ったようだった。若干遅かったというべきか。これに対し父の方は昔から「こいつにはこいつの考えがあって感じ方がある。」と言うスタンスをとってくれた。つまり私という人格を尊重してくれた。私は父と共有する性質がほとんどないと思っていたが、この点に関してだけは、どうも父に似たようだ。つまり「異心別体」的発想である。どんなに愛し合っていようが、親子だろうが、兄弟だろうが、つまりは別々の人間だ、という考え方だ。言い換えれば愛がない、わけではないのだが、どこか覚めている。良くも悪くも理性が先立っている。これに対し兄はと言うと、少なくともこの点に関しては母に似ていると私は感じている。先日もDAZN(スポーツ専門の動画配信サービス)をこちら(実家)でも見られるようにしてやるからと受話器の向こうで色々と指示して私のパソコンでも見られるように手配してくれた。しかしどうにも実際にパソコンの画面に映る映像を見ていると、ネット環境の問題か、パソコンのスペックの問題か、カクカクして見づらい。結果、延長コードを買ったりパソコンを移動したりと、この猛暑の中いろいろと面倒な作業をした。私の方は確かにザスパの試合は見たいものの、そこまで苦労して見られなくてもいい。正直、テレビ中継する以外のアウェイの試合は結果だけ解ればいい。という思いもあるのだが・・・。その辺が兄には伝わらない。つまり母と一緒で私や父もザスパの試合を観たがっているのだと「一心同体」的発想で信じて疑わないのだ。私としては理屈でもって兄を説き伏せることはしようと思えばできないでもない、と思うが、でもやっぱりそれは出来ない。何故なら、そこに愛があるからだ。そして、それこそが私が兄に頭が上がらない理由でもある。私にないものを兄は持っていて、いくぶん独善的であったとしても、紛れもなくそれは愛なのだ。一心同体的であれ、何であれ、そこに愛がある限り無下には出来ないのだ。そしてそのたびに想う「良くも悪くも、俺にはこの人のような愛情は無いな」と。どうやら私は愛に乏しい男らしい。

 一方で兄の愛情を重んじる私自身の想いもまた愛情と言えるのではないだろうか?とも思う。少し自画自賛かもしれないが・・・。相手を一個の人格として、つまり「別物」として接すること、尊重する事、それもまた一つの愛のカタチと言えるのでは・・・。でも、どうもこちらの方が伝わりづらいようです。何が正しいかは解りませんが、とにかく愛って難しいですね。皆さんはどうですか?「愛」ありますか?

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こちら、はるな愛さんです。

 

これは、また違った意味になるかと。

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「長谷川漣の何処吹く風」もあわせてどうぞ!その5が8月末日に公開です。

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「託す」その2

 「一度贅沢を覚えると元に戻れない。」と言うのがうちの母のモットーで、このモットーにそって私たち兄弟は物質的には極々質素に育てられた。「物質的には」と断ったのは精神的にはそうでもなかったと思う節があるからだ。幼い頃はよく絵本の読み聞かせをしてもらったし、小学生のころ習っていたサッカーでは、毎週日曜の朝には父が早起きして練習に連れてってくれた。基本的にいつも家には母がいて寂しい思いをする事もなかった。物質的には乏しくとも精神的には贅沢させてもらったという思いが強い。長じて本やマンガを読み漁るようになった私は、物質的には今もユニクロの服で満足している。ただ精神的にはそれなりに贅沢な、つまり文化的に洗練された(ナイフとフォークの使い方とは違った意味で洗練された)人間になったのではないかと自負している。もっとも上には上がいる。文学部のしかも哲学科にいった私の友人などは、その最たる例だ。言葉に対して私よりはるかにシャープなセンスを持つこの友人は、我々北関東の人間を一言で切り捨てる。曰く「ダサい」と。例えば車社会に生きる我々北関東の人間はガソリンの価格に一喜一憂する。「どこそこのスタンドはここより10円安いよ」という会話が日常生活に溶け込んでいる。それをこの友人は「ダサい」の一言で片づける。対して彼の話題は高尚だ。ショッピングモールの喫茶店で人の生き死にについて、神について、愛について、宗教について、幸福について、コーヒー一杯で語り合ったのを思い出す。哲学科出身だけあって彼の興味関心は確かに高尚だ。我々のそれとは一線を画している。ただ1北関東人として私にも言いたいことがある。「でもさっ、(ここで「さっ」と言ってしまうあたりが北関東人)誰もがあなたのように東京の山の手で大学生活を送れるわけではないんだよ。北関東から出たくても出られなかった人もいるわけでさ。そういう事を抜きに語るわけにはいかないんじゃない?」

「うん・・・そうだね。」

 彼は素直に認めた。その素直さが私には眩しい。ふと、先日登った山の事を思い出した。山は高く登れば上るほど遠くまで見渡せる。いい景色を見られる。多分この友人は私より高いところまで登って、私より遠くまで見渡して、私の見たことのない景色を見たのだろう。羨ましかった。ただ同時にこうも思った。確かに先日登った山ではすごくいい景色を見る事が出来た。でも実際には2000mまで車で連れて行ってもらった。自分の足で登ったのはせいぜい300~400mだ。自分の力じゃない。俺はスタート地点が2000mからだったけど、標高0mから自力で登る人もいる。それこそマイナスからのスタートの人だっている。無論その友人にはその友人なりの苦労や苦悩があって今日に至っているわけで、そこまでは私には解らない。ただ我々は恵まれているかもしれない。そういう視点は忘れない方がいい。そう伝えると友人は

「うん。でも、やっぱり子供たちは東京に行かせてやりたい。自分が見たのかそれ以上のものを見せてやりたいもの。」

と言って缶コーヒーを飲んだ。その時、「託す」と言う言葉の意味が解った気がした。

「なるほど。託すってこういう事かもね。自分には見られなかった景色を自分の子供なり、教え子なりには見せてやりたい。そういう想いの事を託すっていうのかも。」そう思うとふと父の事が頭に浮かんだ。父は北関東から出たことのない人間で、だからと言ってさほど北関東を愛しているわけでもないのだが・・・。その父は私が大学に余計に2年間通っていたことに対して嫌味一つ言わなかった。この人はこの人なりに想いを託していたのかもしれない。そう思うと頭が下がった。今度いい酒でも買ってやろう。そう思った。

 さて、私には子供がいない。想いを託すとすれば甥っ子や姪っ子、それと・・・勤務先の学童の子供たちがいる。今度は何を読んでやろう。そう思うと、休日に図書館の絵本コーナーに行くのが楽しみなのである。

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北関東はクルマ社会なのです!

「長谷川漣の何処吹く風」もあわせてどうぞ!

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山はいい

下界はうだるような暑さの37度

山では20度前後

冷涼な風が心地いい

はるか遠くを眺められる

山はいい

 

先日山に登ってきた。

以前勤めていた会社の方々と

標高2000mまで車で

そこからは徒歩

一歩一歩

確かめながら歩く

何だか自分自身を再確認しているようだ

 

約1時間半

トーミの頭(かしら)と呼ばれる場所に着く

そこからの眺めは筆舌に尽くしがたい

そうなんだ

目先の事ばかり見てないで

こうやって遠くを見つめなきゃ

 

そして空気がうまい

さわやかに冷たい風が頬をなでる

下界では、エアコンでは

味わえない風だ

 

ふもとで食べたソフトクリーム美味かった

ごちそうさまでした!

 

ああ、山はいい

 

また来よう!

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トーミの頭。風が気持ち良かった!

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