「いいか?強さに従うんじゃねえぞ!正しさに従うんだぞ!」
階下から私が言うと
「うん解った!」
そう言って子供たちは階段を昇って行った。
我ながら偉そうなことを言っていると思う。でもたとえ偉そうでも間違ったことは言ってない。偉そうでも正しい事を伝えるのが指導者と言うモノだろう。
そもそも、何故強さに従ってはいけないのか?
力で人を従わせるような事がまかり通る世の中だったら嫌だ。居心地悪い。それは良く解る。でもそれだけではない。
強さに従う事と正しさに従う事、どちらが楽な道かと聞かれれば“強さ”に従う方がはるかに楽だ。では何故楽なのか?そう考えた時にピンときた。
強さに従うのが楽なのは、自分で考えずに済むからだ。自分で考えたのではないから、いざとなったら人のせいにできる。だから楽なのだ。
強さに従う事が間違っている理由はまさにこの1点に尽きる。自分で考えることを放棄させるからだ。自分の頭で考えることを放棄してしまったらそれは奴隷か機械に他ならない。そしてそんな風にはなってはいけない。絶対に。
もしも、よくよく考えた上で「ここは波風立てるべきでないから、たとえ間違っているとしても一時的に強いものに従っておこう。」と言うなら話はわかる。
でもそういうケースはまれだ。
何が正しいか?誰が正しいか?我々はいつも考えなければならない。でないと正しさってすぐに失われてしまうものなのだ。それは我々一人一人の責任なのだ。
一人一人が何が正しいか誰が正しいか自分の頭で考える。そうすれば自然と正しい人の周りに人が集まり、それは“力”になってゆく。そこまで考えていたら、ああこれは民主主義の基本なんだなと思った。民主主義の基本は一人一人が自分の頭で考えることにある。そして、考えるという事の基礎の基礎をつくるのはやっぱり学校の勉強なのだ。
そんな事を考えながら今日も夏休みの宿題をやる子供たちを見ている。
さて、そう言うわけだから学校の勉強もしっかりやらねばダメだぞMくん(微笑み)。