どこ吹く風

自分には全く関係・関心がないというように、知らん顔をすること。「何処吹く風と聞き流す」

自分の翼

 ずいぶん前の話だが、以前勤めていた会社の年下の同僚と二人で飲みに行った。そこで二人の共通の知人の事が話題に上った。

「今度Nとキャンプに行くんですよ。」

と年下の同僚が少しこちらの顔色をうかがいながら言った。と言うのも、私とNは仲が悪い。その事を同僚は承知していた。(私にだって嫌いな奴の一人や二人いる。)私は

「うん、それはいいよ。」と答えた。短いフレーズの中に「俺と君との関係は俺と君との関係だし、君とNとの関係は君とNとの関係だ。だから変に気に病まなくていいよ。」と言外のメッセージを込めた。それが伝わったのか、同僚は安心したようだった。後になってみて思い返した。俺も大人になったもんだと。昔はこういった対応はできなかったに違いない。俺にとっては気に食わないやつでも君にとっては大事な友達なんだ。それはそれでいいんだよ。そんな風に思えるようになったのは20代も終わりになってからだと思う。繰り返すが私も大人になったものだ。

 

 さて、話題は大きく変わりますが、今(『日本の戦後を知るための12人』池上彰著 文藝春秋)を読んでいます。現在、江副浩正さんと村上世彰さん、堀江貴文さんを読んだところです。この3人について著者の池上彰さんは次のように述べています。

 

~江副さんが検察から狙われたのは、様々な規制を突破して秩序を破壊する異端児であったからでしょう。既成秩序の破壊者はどうしても狙われやすい。ホリエモン然り、村上世彰然り、いずれも有罪になっていますけれども、みな稀代の風雲児として様々な規制に風穴を開けたことも事実だと思います。~

 

 このうち、村上世彰さんの言い分をディフォルメするならば

「株式会社は誰のもの?それは株主です。その株主の利益を経営者たちはちっとも考えていないじゃないか?」

という事になります。事件を経て憑き物が落ちた後、彼はこう語っています。

東京証券取引所企業統治についての方針を打ち出し、私の考えていたことが実行される仕組みができた。私の役割は終わったんです。」

 彼が世間に対して投げかけた問いにはそれなりの歴史的意義があったのです。それは他の二人にも言える事でしょう。

 

 さて、私こと長谷川漣も世間に対して1つ投げかけたい問いがあります。それは

「嫉む側と嫉まれる側、悪いのはどっち?」

と言う問いです。突然何を言い出すんだ?と不審に思われた方もいらっしゃるでしょう。でも、私にとってこの問いは、自分が住む日本と言う国を考える上で、避けては通れない重要な問いなのです。と言うのも、頭で考えれば、そりゃ嫉む方が悪いに決まっています。極々当たり前の事です。でもその極々当たり前の事実が、この国では市民権を得ていないような気がするのです。逆に言えば「嫉まれる方が悪い」と言う、へんてこりんな価値観がまかり通っている。少なくとも私の経験上はそう思えるのです。何故なのでしょう?いろいろ考えてみたのですが、1つには個人と共同体のパワーバランスと関係しているのではないでしょうか?この国では個人が個人として確立していない。自分と他人の境界線があいまいだから他人を嫉んでいる自分を恥ずかしいと思わない。それどころか共同体にとって都合が良ければ、「嫉まれる側が悪い」という解釈も十分成り立ちうる。つまり個人と共同体のパワーバランスが共同体の側に偏り過ぎなのです。個人に重きを置き、個人と共同体のパワーバランスをよりましな、より現代的なそれへと変える為にはどうすればよいのでしょう?

 私自身の話をさせていただくと、私も子供の頃は他人を嫉んでばかりいました。でもそれがいつの頃からか、他人は他人、自分は自分と思えるようになってきたのです。先にも述べましたが、おそらくそれが「個の確立」もしくは「大人になる」という事なのでしょう。その為には自分に自信を持つ事が不可欠です。私がOasisを好きなのも、その楽曲に「俺は俺だしお前はお前なんだ」と言う強烈なメッセージがあるからかもしれません。また、10代後半から20代前半にかけて影響を受けたマンガ(『銃夢木城ゆきと 集英社)の主人公ガリィのセリフで、今だに忘れられないものに

「人には誰にでも

見えない翼がある

私がたった一つこの世界に望むことがあるとしたら

全ての人が自分の翼で飛ぶことだ」

があります。

 どちらも、自分自身になれ!と言うシンプルなメッセージを我々に与えてくれます。これらの作品が示しているように、我々日本人も「個人が確立した」とまではいかなくても、「より個人が自立した」時代へとシフトチェンジする必要があるのではないでしょうか?その意味で我々日本人も「大人」になる必要があるのです。私の文章がその一助になれば幸いです。このブログに綴って来た一連の文章に何か歴史的?意義があるとするならば、それではないかと思うのです。

 先にあげた3人は稀代の風雲児として様々な規制に風穴を開けました。私こと長谷川漣は文章の力でもって皆さんの「心の規制」に風穴を開けたいと、おこがましくも考えているのです。どうぞ、生意気をお許しください(笑)。

 さあ、皆さんも自分の翼で飛びませんか?

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池上さん有難うございます!