どこ吹く風

自分には全く関係・関心がないというように、知らん顔をすること。「何処吹く風と聞き流す」

基本、人とは醜いもので

 基本、人とは醜いもので、ただ稀に一瞬の煌めきを灯すことがある。だからこそ人は愛おしい。その瞬間を結晶化させるのが芸術や文学の役割なのだろう。芸術家や文学者がよく言えば高邁で、悪く言えばプライドが高いというのは致し方ない事なのかもしれない。何にせよ生きていくのは困難な事で、その為に人は醜くもなる。これまた致し方ない事なのだ。それが目につかないように、人は互いに適度な距離を保つ。それでも個人レベルで、組織レベルで「膿」は溜まっていく。「膿」が溜まらぬよう、その「膿」を明るみに出さぬよう、人には出会いと別れがある。出会いと別れを繰り返して人は生きる。それは洗練されたスマートな生き方とも言える。わざわざ「膿」を明るみに晒して取り除こうとするのは、ある意味、幼稚な行為なのかもしれない。これをTVドラマと言う架空の世界でやろうとしているのが、それも徹底的にやろうとしているのが「半沢直樹」だ。今まで論じてきた事によれば「半沢直樹」とは精神的に幼稚で洗練されない人間という結論になる。しかしこのドラマがこれほどまでに高い視聴率をたたき出しているのは「半沢直樹」その人に視聴者がある種の「美」を見出しているからではないだろうか?先程、人々の一瞬の煌めき、つまり美しさや優しさを結晶化するのが芸術や文学の役割と述べたが、「半沢直樹」は生き方それ自体がある意味、芸術作品と言えるのかもしれない。「半沢直樹」は架空の人物だが、現実の世界でも生き方そのものが芸術作品と言いうる人物がいる。そう「北野武」さんだ。ここでは詳しく述べることは避ける。(興味のある方、年齢的に北野さんをそこまで知らないという方はウィキペディアを参照してください。)存在そのものが芸術品だからこそ、彼の作品や言動がより一層重きをなすのだろう。さて、北野さんには比すべくもないが、私、長谷川の人生は今後どのような軌跡をたどるのやら。3文ゴシップにすらならないで忘れられてゆくのか、はたまた、芸術とは言わないまでも一つの作品として、まがいなりにも意味ある完結を迎える事が出来るのか?他人事と思えば面白くもあるが、幸か不幸かこれは他の誰でもない私自身の人生だ。何をもってハッピーエンドとするのかはいまだ解らないが、とにかく最後の結末までは仕上げねばならない。その為にも何はともあれ生き抜かなければ。たとえそれが醜くい人生であったとしても・・・。

 

P.S. 宝くじあたらないかな~

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ソナチネ(1993)北野武監督作品

「長谷川漣の何処吹く風」その5もあわせてどうぞ!

https://www.gentosha-book.com/creators/hasegawa-essay05/