どこ吹く風

自分には全く関係・関心がないというように、知らん顔をすること。「何処吹く風と聞き流す」

本当の知

 先日、前から乗っていた自転車が古くなったので、新しいのをネットで購入した。すると万事保守的な母が、「なんでもすぐにネットで買うのはどうかと思うよ。」といつものように小言を言う。対して私は「機会損失と言う言葉を知ってるかい?俺が自転車に乗れないのは俺にとっての機会損失になる。これ以上は言わないけど、言葉とその概念くらいは知っておいた方がいいよ。」体よく母を黙らせたことに気をよくした私は、自分で言った機会損失と言う言葉に思いをはせていた。

 

 「もし、もしお金が潤沢にあればの話だけど、今の若者にとっての最大の機会損失は海外に行かない事だろうな・・・。」最近の若者は海外に積極的に行きたがらないという話をよく聞く。無論、円安という現実的な問題はある。だとしても、十代二十代で海外に行かないのは大いなる機会損失だと心底思う。私だってそれほど海外経験が豊富なわけでは決してない。ただ、海外に行ってみてそこで得たものは自分にとって計り知れないくらい大きかった。

 

 昔ベトナムを旅した時、同行した友人に「俺はヨーロッパに行きたい。」と告げると「つまらないでしょ。」と一蹴されたことがある。その時は「なぜ???」と思ったのだが、今なら解る。少し歴史を学ぶとわかるのだが、合理性と効率をキーワードとする近代のパラダイムは欧米によってもたらされたものだ。友人に言わせれば「今更、欧米的価値観を見に行ってもつまらないでしょ!」という事だったのだ。それよりも、いまだ近代のパラダイム(欧米的思考の枠組み)に染まってない国を見に行った方が面白いよ!そう本能的に悟っていたのだろう。結果ベトナムに行ったのは大正解だった。

 

 日本にいると当たり前のことが向こうでは当たり前でも何でもない。逆に日本にいると何でもない事が向こうでは常識だったりする。誤解を恐れずに言うならば、常識が異なるというのは思考の枠組みや価値観、つまりパラダイムそれ自体が異なるという事だ。その意味で異国の地で生活するのは思考の枠組みを再構築する機会ととらえることができる。友人は「どうせ再構築するなら、全然違うもののほうが面白いよ!」と言いたかったのかもしれない。

 

 もっとも、日本人は近代欧米的パラダイムすら、いまだ会得していない。と言うか福沢諭吉の頃からほとんど進歩していない。欧米には欧米で十分に行く価値があると思うし、近代以降のゲームチェンジャーは常に欧米だ!そのことを肝に銘じておかないと足元をすくわれてしまう。ただ、近代のパラダイムがすべてと考えるのでは、友人に言わせるなら「その知はツマラナイ」という事になる。

 

 今私に時間と金銭的余裕があるなら、ネイティブアメリカンに会いに行ってみるのもいいし、アボリジニの生活にも触れてみたい。アイヌの人たちにも学ぶところは多々あると思う。多様性と言ってしまえばそれまでだが、知のパラダイムは決して一つではない。本当の知とはあらゆるパラダイムを身に着けつつ、あらゆるパラダイムから自由であることなのかもしれない。

 

 もしこの文章をお読みの皆さんの中に10代20代の方がいるなら、お金の許す限り、是非積極的に海外に行くべきだと思う。そしてそこで本当の知を獲得して欲しい!

アサヒサイクルの自社ブランド「クリーム」!

 

学び続けることの意味

 先日、ある生徒から「先生はどんな本を読んできたのですか?」と質問を受けたので、とりあえず田中芳樹先生と村上春樹先生をあげておいた。そこで、どの作品が一番面白かったか?という話なったので、お二方とも若かりし頃に書いたもののほうが面白かったねと答えておいた。以前もこのブログで述べたことだが、どのような表現者であれ、一人の人間の抱くテーマの数とはそれほど多くはない。初期の作品を世に出した後、表現者と言われる人たちの多くは「○○煎じ」。もしくは「出○らし」になってしまう。ビートルズの凄かったのは年を経るごとに新たなテーマを開拓していった点にある。そう私は思っている。

 

 「丸に入る漢字当ててごらん。」と伝えると、ある生徒は見事どちらも答えた。出涸らしの涸の字が書けなかった私としては正直ほっとした。

 

 ついでに伝えておくと、こうして話している私だって、いずれは皆に伝えることが無くなって出涸らし、若しくは二番煎じになってしまうかもしれない。出来るだけ、そうならないようにとは思っているのだけれど・・・。その為に私がどうしているかわかるかな?と問うと、別の生徒が「学び続けるってことですか?」と答えた。

 

 「そう。そうなんだ。学び続けることの意味はたくさんあるのだけど、少なくとも私にとってはそういう意味がある。それに別段、表現者じゃなくても、学び続けることは新たなテーマを見つける事。つまり、新たな自分を発見することでもある。生涯学び続ける。そんな人であってほしいね。」と締めくくった。

 

 幸い現代はスマホとインターネット環境さえ整っていれば、どこからでも学べる時代だ。その恩恵を十二分に受けるべきなのだと思う。

 

 この文章をお読みの皆さんも、生涯現役!学び続ける人であってほしい。

学生時代に挫折した本です。再読してみようと思いアマゾンで購入しました。

 

王様のレストラン

 今日、仕事の帰り道の車中でランダム再生をしていたyoutubeMusicから平井堅さんの楽曲『プレシャス ジャンク』が流れて来た。久しぶりに耳にしたその楽曲に、私はドラマ『王様のレストラン』を思い出していた。(この楽曲はドラマのエンディング曲だった)

 

 とあるフレンチレストラン「ベルエキップ」で何となく働いていた若者たちの前に、揺るがぬ情熱と厳しいプロとしての生きざまを持つ一人の男、千石武が現れる。千石は今でこそ給食センターで働いているものの、頑固で厳格、プライドも高く、一時はその名を響かせたこともある優秀なギャルソンだった。千石に触発された若者たちの奮闘する様子が、シニカルで痛快な人情味いっぱいの人間ドラマとして展開されるのだが・・・。

 

 ドラマ『王様のレストラン』の最終話で千石は言う。「要するにここは一流を気取っているだけの一流とは程遠い、最低の店です。最低の・・・。いや、がしかし、最低ではあるが・・・素晴らしい!!!」

 

 私はこの度ある塾に勤めることとなったわけだが、どうせ働くなら一流の塾で、もっとも何をもって一流とするのか?規模か?それとも知る人ぞ知る隠れ家的な塾か?それはにわかには解らない。でも、少なくとも松本幸四郎さん演じる千石に「素晴らしい!!!」と言ってもらえるような塾で働きたい。それはこのドラマ『王様のレストラン』から鑑みるに、仲間を愛し、お客様を愛し、そして自分を愛す、つまり自分の仕事に誇りを持つという事に他ならないのだろう。

 

 その日私は塾の教務室を1人で掃除した。もしかするとそんな思いを込めて私は自分の職場を掃除してきたのかもしれない。「誰からも何にも言われなかったら少し寂しいな。」と思っていたところある同僚の先生から「有難うございました。」とお礼を言ってもらえた。「見ていてくれる人は見ていてくれるもんだ。」と、嬉しかった。

 

 さて、一流の?塾を目指す私の、我々の冒険は始まったばかりだ。もし、この文章をお読みになった方々の中に北関東在住の十代で、塾選びに困っている方が、もしおられたなら、是非、我々の塾の資料請求してみてはいかがでしょう?この塾を選んでよかった!と言っていただけるよう、精いっぱい頑張る所存です!

(5) 王様のレストラン 最終話 ラストシーン - YouTube

平井 堅 『Precious Junk』MUSIC VIDEO (youtube.com)

三谷幸喜さん面白い!!!

 

毒を吐く

 今日、中田敦彦さんの動画でコールドプレイの『Viva La Vida』について話しておられたので聞いてみた。聞いてみて、私は富野由悠季さんの『ガンダム』を思い出した。小説版を読んだことのある方ならご存じと思うが、1年戦争のあとアムロ・レイは連邦組織によって軟禁状態に置かれる。連邦の意図はよくわかる。あんな化け物?がいたら始末に困る。かといって1年戦争の英雄を殺すわけにもいかない。軟禁され、その監視下に置かれる。そして表現は女性に対して失礼極まりないが、小説に従うなら、定期的に女をあてがわれながら・・・。よくわかる話だ。

 

 私は同時に先日見たゴジラー1.0も思い出した。作中のセリフに「誰かが貧乏くじを引かねば!」「皆のために誰かがゴジラに立ち向かわねば!」という下りがある。私はそのセリフを白々しい気持ちで聞いていた。「皆のためにか。やれやれ。」続編がつくられそうな感じで終わっていたので、ゴジラを打倒した彼らがその後どう描かれるのか?興味深いところではある。国を救った英雄か?はたまた、危険人物か?

 

 そんなわけで、岡田斗司夫さんが絶賛されていたこの作品を私は正直楽しめなかった。(楽しんで見られた方々には申し訳ないのだが・・・。)庵野秀明さんのシン・ゴジラ山崎貴さんのゴジラー1.0ともに面白いと言えば面白かったのであろうが、(エンタメの王道だと言えばその通り!)何だか薄っぺらいな。と思ったのも事実だ。だからと言って「じゃあ、自分で作ってみろ!」と言われたら一言もないのだが・・・。

 

 田中芳樹先生の作品に「西風の戦記」がある。この作品では、王族同士権力争いの中、叔父に父と兄を殺され、復讐の意思を疑われるのを恐れて、その幼少から徹底的に暗愚を装い、自己をひた隠しに隠して成長した暗い主人公が描かれている。その主人公は長じて父と兄の復讐を果たさんと決起するのだが・・・。この主人公のセリフで印象に残っているものがある。「俺は自己の復讐を果たさんがために民衆を巻き込んだ厄介者にすぎんよ。」細部は確かではないが、文意はこのようなものだったと思う。

 

 さて、何が言いたいかと言うと、これと言って言いたいことがあるわけではないのだが・・・。敢えて言うなら「人間社会はそんなに甘くはない。」と言ったところか。も一つ付け加えるなら「大衆は最強だ!」と。なんせ大衆は考えないから。

 

 こんなことを書いていると「こいつはテロリストの予備軍だ!」などと論理の飛躍した詮索をする輩もいるので断っておくが、私はテロリスト予備軍などでは決してない。ただの大衆の一人だ。しかも頭の悪い・・・。

 久しぶりに公の場?で毒を吐きました。だいぶシニカルな気分になっていたようです。もっともこの国には表現の自由なるものがあるそうなので(ほんとか嘘か知らないけど・・・。)悪しからず。

 

所詮俺は自己の復讐のために民衆を巻き込んだ厄介者のに過ぎんよ。

 

ものがたりの力

 今日、堀江貴文さんの東京大学での講演の動画を見た。堀江さんが仰っていたのだけれど、起業するにしてもなんにしても、若いころのほうが有利だと。何故なら年を取るとその情熱はあっても体力が続かないからだと。体力ばっかりは若いころのほうが間違いなくあると。そして、気力は体力がないと保てないと・・・。おっしゃる通りだ。私もつい先日、岩本ナオ先生のマンガ『金の国 水の国』と『マロニエ王国の七人の騎士①~⑧』を借りて来た。一気に読んでしまおうと思っていたのだが、『金の国 水の国』を読んだ時点で疲れてしまった。これが若いころだったら一息に読めたのだけれど、さすがに、コミックを9巻一気に読むのには情熱はあっても気力・集中力が続かない。昔だったら一気に読破していたのに・・・。

 

 この論を突き詰めれば、インプットをするのは人生の前半でアウトプットするのが人生の後半だと言えなくもない。私自身、もう新しい何かをインプットするのはむつかしい。なかなか昔のようにはいかない。これはもしかすると表現者とかクリエイターとか言われる人たちにとっても共通の悩みなのかもしれない。少し品のない表現だが、食べたものを自分なりに咀嚼して、内部で発酵させて吐き出す。自分はもう、おなか一杯食べただろうか?時期的には発酵させ吐き出す段階にきているのだが・・・。

 

 それらのことを考慮に入れてみると、やはりピカソは偉大だ。彼の残した作品は1万6千点ほど。対して普通の画家が生涯に残す作品数はせいぜい数百点だ。同業者の画風を剽窃しておいて、いつの間にかそれがピカソの作風であるかのように我々が錯覚している作品。それらを含めたとしても、彼が如何に創作に対して貪欲だったかがわかる。ありとあらゆる作風を自分のものとして取り込んでしまおうという意欲が感じられる。しかもそれが生涯を通してだ。ちょっと舌を巻かざるを得ない。ただ私人としての彼は、私の知る限りではちょっと友達にはなりたくない、そんな存在だ。天才とは押しなべてそういうものかもしれない。

 

 話は戻るが、堀江さんのお話を聞いていると、起業して失敗しても、やり直せる社会的な枠組みは、彼が起業したころに比べて格段に整ってきているそうだ。その割にはやはり起業する人は少ない・・・。若さと、つまり気力と体力とが充実していて、あと足りないのは情熱なのでは?と私などは思う。では、情熱ってどっから来るのか?そう考えた時、答えは、やはり“感動”なのではないか?感動は物事を進める原動力だ。では、感動ってどこに転がってんの?と言う話になるのだが、それはやはり“ものがたり”なのではないか?と私は思う。今、必要なのは“ものがたり”の力なのかもしれないな。と思った。そんなわけで私は今日も“ものがたり”を求めて近所のTSUTAYAへと足を向ける。私にもいつか読んだ人に“感動”を与える“ものがたり”が書けたらいいなと思うのだが、どうも私の文章は“感動”と言うより“扇動”に近いらしい。やれやれ(笑)

 

 『金の国 水の国』とても面白かったです。主人公の女性はとても心の清らかな人でした。岩本先生のお人柄でしょうか?有難うございました。

【世界史を面白くする会】

 以前、私が世界史の教師をしていたと言うと、大概の人は「え~そうなんですか?世界史・・・。」と返答する。そこにはあまり肯定的なニュアンスはない。「世界史」の後の微妙な間がそれを物語っている。

 

 実際に聞いてみると、ほとんど全ての人から「世界史はつまらなかった。」という答えが返ってくる。まあ、それはそうだ。時系列に沿った年号、出来事、人名の暗記。それも力ずくの暗記。これでは私だってやる気が出ない。

 

 結果、社会人になってから学びなおす人が多いのもうなずける。「高校までは暗記でいいのだ。」と言う人もいるが、それでは手遅れ、もしくは二度手間ではないか?そう思うのは私だけだろうか?

 

 さて、この度、縁あって私は再び世界史を教える立場となった。せっかくだから今度は世界史の面白さを伝えたい。そんなわけで私はここに【世界史を面白くする会】を立ち上げる。

 

 会員は今のところ私一人だが、それだけに小回りが利く。まず、初めに改善したいのは「時系列に沿った」という点だ。ただ単にだらだらと前回の続きをするのではメリハリがない。一回一回のテーマを設けて、そのテーマに沿った授業をしてはどうか?例えば、古代ギリシアだったら、「理想の民主主義とは?」とか、古代ローマだったら「権力は集中すべきか?分散すべきか?」などがパッと浮かぶ。まず授業の冒頭にテーマを提示して生徒に考える機会を与える。そのうえで、そのテーマに肉薄する授業を展開する。

 

 そして、全体で一つの大テーマ「歴史を学ぶ意義とは?」を最初の授業の冒頭に掲げる。年度の終わりには、各自に400字以内でまとめてもらう。そんなことを漠然と考えている。

 

 もちろん

「でもそれでは、受験に対応できないのでは?」

という声もおありだろう。そのような不安に対しては次の言葉を持って答えに代えたい。

「人は面白ければ覚える!」

 私の知人が言っていたのだが「自分はポケモン150種すべて覚えていた。」と。それは意図的に覚えたのではなく、気づいたら覚えていたと。それは取りも直さずポケモンが好きだったからだと。ポケモンが面白かったからだと。そうなのだ。面白ければ人は自ずと覚えるものなのだ。無論ポケモン150種と世界史の暗記すべき総量では比べ物にならない。ただ、興味を持たなければ何も始まらない!まずは世界史面白い!という感動こそが必要なのではないか?そこに感動があれば後は自ずとついてくる。それが私の基本コンセプトだ。

 

 そのようなわけで、繰り返しになるが【世界史を面白くする会】をここに立ち上げる。興味がおありの方は是非、コメントください。お待ちしております。

 あと、ついでにヨーロッパ編の授業のコンセプトを以下に張り付けておきます。もしよろしければ参考にしてください。

 

⓪歴史を学ぶ意義とは?

 

★古代中世ヨーロッパ×5・・・現時点における世界史の主役

①神話と宗教 一神教多神教とは?

②理想の民主主義とは?

③権力は集中すべきか?分散すべきか?

④世俗と宗教どっちがえらい?

憲法とは?

 

大航海時代×6・・・・・・・・一体化する世界

①誰がための世界史?

②3つの革命と広域的分業とは?

ルネサンスとは?

④宗教のupdateとは?

カトリックVSプロテスタントとは?

覇権国家とは?~イギリス最強時代の幕開け~

ドドーン!

 

褒められて・・・

 だいぶ遅くなりましたが新年あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

 

 さて、先ほど堀江貴文さんの動画を見ていてい思うところがあったので感想を述べたい。今回の番組の議題は教育関係で、堀江さんの意見を要約すると「せっかく東大出て頭いいのだから世間のつくった枠組みの中でまた一番を狙うのではなくて、自分でその枠組みを作り出す側になればよいのに?」という事だった。

 

 それに対する、共演者で一浪して東大の経済学部に入った女子学生の意見はこうだ。

「だって、ほめられるんですもん。親に!枠組みで一番取ったら。周りにも!」

 

 これは聞き捨てならないな。と思った次第だ。そりゃ誰だって褒められるのはうれしい。親に褒められるのだって嬉しいだろう。でもそれっていくつまでの話かってことだ。私自身は現在47歳だ。正直もう親に褒められてうれしい年ではない。そりゃそうだ。何故そりゃそうかって、正直、親より私のほうが断然勉強しているからだ。両親は何にも考えずにNHKを朝から垂れ流しているだけだし、そりゃ本は読んでいるようだが、それだって自分の趣味に走ったものや、自分が若いころに買っておいたものを読むくらいだ。時代が昭和で止まっている。学ぼうという姿勢がかけらもない。それでいて私が堀江さんの動画や、中田敦彦さんのYouTube大学や、岡田斗司夫さんの動画を居間で見ようとすると母などはあの人はキンキンした声でうるさいなどと文句を言う。(中田さんごめんなさい)要は自分のわからないもの、ついていけないものに対する嫌悪以上の何物でもない。父のほうはそんなことはないが、それでもインターネットを用いて最新の情報を得ようという努力は感じられない。

 

 だからと言って両親を責めるわけではもちろんない。70代80代の両親に学べというのも酷な話だ。むしろ私のほうこそ、父と母を褒めるべきなのだ。と思う節がこの頃では多々ある。父はこれと言って才走ったところのない人間だが、私と兄を毎週日曜の早朝スポ少のサッカーに連れて行ってくれた。仕事上の人間関係がもとで円形脱毛症ができた時も家族のために変わらず働き続けた。才能はともかく、この人の責任感は立派だったなと、今にして頭が下がる。母は母で、育児と家事、父の両親の世話と懸命に働いてくれた。私のほうが二人を褒めねば、ねぎらわねばと思うのだ。

 

 そういったこちらの考えや想いを父のほうは理解しているようだ。だが母のほうは・・・。と言うのも父は自分より手足の伸びた息子が自分の理解の範疇を超えるようなことがあっても、それを自分にはもうわからない事があるのだ。というスタンスで受け入れる。それは令和のレジームが昭和のそれとは異なるという事を理性によって悟っているからだ。でも母のほうは・・・。自分の価値観とそぐわないことがあったりすると、そのしわ寄せが、あろうことか晩御飯のおかずに現れる。おいおい勘弁してくれよ。と私は言いたい。彼女は自分と一緒の価値観を息子がいつまでも持っているはずだと勘違いしているのだ。それこそ勘弁してくれよだ。

 

 何でもかんでもアメリカの例を持ってくるのはどうかと思うが、アメリカでは赤子が嫌々をしたとき両親は喜ぶそうだ。曰く「はじめて自分の意思を示した!」と。母に聞かせてやりたい。でもまあ、女性ってこういうものかなあ、仕方ないのかもな・・・。とも感じる今日この頃でもある。無論、そうでない女性もいらっしゃるのは重々承知なのですが…。

 

 さて、新年早々人口の約半分を敵に回すような結論になってしまいましたが、今回はこの辺で。日本の女性が変わったから、その社会進出が促進されるのか?それとも女性の社会進出が促進されたから日本の女性も変わるのか?卵が先か鶏が先か?という議論になってしまいますが、皆さんはどう思いますか?良くも悪くも根本は変わらない気もするなあ~と言うのが私の私見です。ただし晩御飯のおかずだけは減らさないでください。私が言いたのはただそれだけです(笑)

いいなぁ~