どこ吹く風

自分には全く関係・関心がないというように、知らん顔をすること。「何処吹く風と聞き流す」

背伸び

 私事で恐縮だが、高校サッカーのテレビ中継を見ていると自分がサッカーをやっていた頃の事を思い出す。当時成人用のサッカーシューズは大方23.5㎝からで、まだ足の小さかった私は大人用のシューズを履きたくて、わざと自分の足より若干大きめの23.5㎝のシューズを選んでいた。無論、サッカーシューズは本来少しきつい位のほうが足にフィットしてよい。つま先に空洞ができてしまうようなシューズを履いていたのは、今にして思えば「馬鹿だったなぁ~。」という事になる。また「あの頃は背伸びしたかったんだなぁ~」と自分の事ながら微笑ましくもある。

 

 そういえば、高校生の時も、どちらかと言うと数学が苦手だった私は「背伸び」して『赤チャート』を使っていた。苦手だからこそ基礎基本に戻る必要があるのに、全くあべこべな事をしていた。あの頃の私は、シリーズの中で1番難易度の高い『赤チャート』を使えば数学が得意にでもなるかのように≪錯覚≫していたのだ。今振り返ってみるとなんと効率の悪い学習をしていた事か!今なら客観的に自分を分析して最適解を、つまりどういう学習法が最適かを導き出せる。でもあの頃、私は自分の数学に対する苦手意識を客観視できなかった。その苦手意識こそが私をして『赤チャート』を使わしめていたのだ。自己を客観視するためにはある程度の経験が必要で、それが当時の私には足りなかったのだと思う。結果、問題を解けない。だから解答を見る。でも理解できない。とにかく解答をノートに書き写す。そして解ったつもりになる。でも解っていないからストレスがたまる。ストレスが積もれば嫌いになる。嫌いになれば余計に解けない。この繰り返しだった。今ならもう少し上手に数学と向き合えるのではないか?そんな風に思う時がある。

 

 何を言いたいかと言うと「背伸び」は良くないという事だ。でもって、我々の日常生活で1番身近な「背伸び」とは「知ってるつもり」を演じてしまう事だ。「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」ではないが、解からないことは解らないと正直に言ってしまうのが結構近道だったりする。解らない事を解らないと、知らない事を知らないと、出来ない事を出来ないと、認めるのには若干の勇気が必要だが、その勇気さえあれば首尾、生きやすくなるのは確かだと思う。その意味でもソクラテスが言った「無知の知」(自分は何も知らないという事を知っている。)は我々に重要な示唆を与えてくれるのだ!

 

 結論としては「来年も背伸びせず、等身大の俺で行こう!」と言ったところか?

 

 では皆さん、今年もお付き合いいただき、有難うございました。

 来年もどうぞよろしくお願いします。良いお年を!

数学はロマンだ!

 

 突然だがうちの父はよく酒を飲む。私が350㎖のビールなり発泡酒なりを一日一缶飲む程度なのに対して、彼は日本酒をアルコールの量からいって倍は飲む。それでいて肝臓のほうはいたって健康なのだからうらやましい。

 

 たまに私が日本酒を自費で買って飲んでいると、その父が言う。

 

「なんで俺よりいい酒を飲んでいるんだ?そんな高い酒を飲むのは贅沢だ。分不相応だ!」

 

と。先日も私が「天狗舞」の一升瓶を買って帰ると、ここぞとばかりに文句を言う。確かに「天狗舞」は高い酒だ。私だって買おうかどうしようか20分は迷った。父の意見もそれなりにわかる気はする。若輩者の私が飲むには「いい酒」であることは確かだ。でも、でもやっぱりそれは少し違うと私は思う。何故なら父にとっての酒が必需品であるのに対し、私にとっての酒は嗜好品だからだ。父は酔うために飲んでいる。それに対し、私にとっての酒は違いを楽しむためのものなのだ。したがって大量には飲まない。一日に飲む量はほんのお猪口に一杯か二杯程度だ。私が一升瓶を一本消費する間に、父は私より安価な日本酒を一升瓶2~3本は消費している。トータルで見れば、私のほうがお財布の面でも健康の面でも彼より上手に酒と付き合っていると言える。

 

 そんな訳で、今日、近くのスーパーへ行ってみると「大吟醸 越後五十嵐川 750㎖」が値引き後1500円で売っていたので、思わず購入してしまった。値引きのシールが二重に張られていた事から視るに、2度値引きされたらしい。定価がいくらかは知らないが、2度値引きされたものが750㎖で1500円だというのだから、もしかすると今までの人生で一番高い酒かもしれない。

 

 そして、その「人生で一番高い酒」を飲みながら、今キーボードを叩いている。あ~確かに美味い!買ってよかった(喜)

 

 さて、今年も残すところあと1日となりました。皆さんにとって2023年はどのような年でしたか?私のほうは明日(もう今日か!)もう1つ文章をアップできればと考えております。またその文章でお会いできれば幸いです。もう一回お伝えするかもしれませんが、とりあえずよいお年を!

いや~美味い!!1

 

 今日、母が「今日の夕食は海鮮鍋だよ。」というので台所に見に行ってみたら、海鮮などこれっぽっちしかない。あるのは大量の白菜と竹輪だった。憤慨した私が「これじゃ、海鮮鍋じゃなくて竹輪鍋だろ!」と文句を言うと、母は「いやなら自分でスーパー行って(具材を)買っといで!」と言うので、私はそれこそ最寄りのスーパーへ行ってカニでもホタテでも買ってきてやろうか!と勢い込んだ。しかし、そこは私も大人だ。母の意思を尊重し何も言わずに引き下がった。と言うのはウソで「家族みなでつつく鍋だ。そんなことしたら俺が損する!」と、思いとどまったのだ。

 

 そう、うちの鍋にはホタテなんてたまにしか入らない。カニにいたってはついぞ見たことがない。

 

 そういえば、昔々私がまだ幼稚園に通っていた頃、親戚のうちで鍋をご馳走になったことがあった。その時の鍋にはカニが入っていて、私は「あっカニが入ってる!」と大喜びで食べた思い出がある。その後、母に「恥ずかしいことするんじゃないよ!」ときつくたしなめられた。今でも覚えている。

 

 そんなことを思い出していたらふとカニが食いたくなった。最後にカニを食ったのはいつだったか?あれは確かまだ私が神奈川で独り暮らしをしていた頃の事。その年、大晦日を一人気ままに過ごすことにした私は、アパートのすぐ裏にあったスーパーへ食材を買いに出かけた。そこで、ひときわ大きなパックに入った【ロシア産冷凍タラバガニ1980円】が目に飛び込んできた。迷わずそれを購入し、部屋で1人食したのを覚えている。部屋中カニのにおいがした。幸せだった。

 

 今にして思えばあれが私の人生のハイライトだったかもしれない。そんなことを考えながら今日は【竹輪鍋】をつつく。でももしかすると、神奈川で食ったタラバカニを思い出しているように、今、食っているこの【竹輪鍋】を懐かしく思い出す日がいつか来るのかもしれない。そう考えると何だか切なくなった。それは鍋の具が竹輪だから切ないのか?それとも、きっとそのころには父も母もいなくなってしまっていると思うから切ないのか?にわかには解らない。多分その両方だろう。

 

 なんにせよ、鍋とは皆で時を同じくしてつつくものだ。誰と食べたか?何が入っていたか?何味だったか?どんなことを話したか?


 そういった事が記憶に刻み込まれる。FCバルセロナがその全盛期に「バルサはクラブ以上のクラブだ!」と豪語していた。もしかすると鍋とは「単なる食事以上の食事」なのかもしれない。つまり何が言いたいかと言うと・・・カニの入った鍋を食いたい。ただ、ただそれだけの、私は男なのです(笑)。

最高!!!

 

存在理由

 先日、髪を切ったので自撮りして10こ下の友人に送った。すると

「こういうのデータの無駄だからやめてくださいよ(笑)。と言うか、こういう事するの長谷川さんと川西さんくらいですよ。やっぱバブル全盛のころに思春期を過ごした人たちって自分のこと好きなんですかね?今の若い人たちってこういう事しませんよ。」

と言われた。私はこいつなかなか鋭いこと言うな!と驚きつつ、

「そうか。やっぱ今の世代って自分を好きでいにくい世代なのかな?俺らが思春期の頃は経済も右肩上がりだったし、社会は相対的に明るかった。結果、みんな浮かれてた。今の若い人たちってそうはいかないんだろうな。」

「そうですよ。今の若い人達とラインする事があっても自撮りなんか送ったら引かれますよ!」

「なるほど。」

と私はうなった。私としては軽いジョークで送ったつもりだったが、その10歳年下の友人は確かにそういう事はしない。バブル期に思春期を過ごしたというマスレベル見ても、個人レベルで見ても、どうやら私は精神的に幼いのかもしれない。よく幼児が自分のことを~ちゃんと「ちゃん」づけで呼ぶが、あれと似たようなものか?気をつけねばな。と、そう思う一方でふと頭をよぎったことがある。

 

 大人になるという事は、自分に対する興味関心を失っていくことなのだろうか?もしくは自分を嫌いになっていく過程を言うのだろうか?確かに自分のことを「ちゃん」づけで呼ぶ大人は見たことがない。「だとしたら俺も「大人」にならねば・・・・・・。」と思考を進めそうになって何かが引っ掛かった。先の例から言えば私は自分のことが好きなのだろう。興味も自信もあるのだろう。むしろこの年になって何故自分のことを好きでいられるのか?自分に興味を持ち続けられるのか?そこにこそ重要な何かを解くカギがあるように思えたのだ。

 

 私が自分の何に自信を持っているのか?多分それは生き方なのだ。私のことを学生時代から知る友人に聞けばわかると思うのだが、私は友と呼べる人たちに対して常に真心を持って接してきたつもりだ。出来るだけ相手のことを思って接してきたつもりだし、出来るだけ正直でありたいと思って接してきたつもりだ。逆に言えば安っぽい嘘で騙したり、陰口を言ったりするような事はしてこなかった。今でも私は『Aの前ではBのことを口汚く罵り、Bの前ではAのことをこき下ろす』そういう奴が死ぬほど嫌いだ。何故嫌いなのか?と問われるならば、「それが俺と言う人間の本質であり、人格のコアなんだ。」としか答えようがない。おそらくそれは「美」や「恥」という意識と深いところで結びついているのだろう。そして「美」や「恥」の意識は人間にのみ許された最も尊いものなのだ。(ひょっとするとゴリラやクジラにもあるのかもしれないが・・・)その事を理性によらず悟っていたからこそ私は「陰口」や「嘘」を避けきたのだと思う。

 

 そこまで考えた上で、私は「今後も俺は俺を好きでいられるように生きて行こう。」とそう結論づけた。それを幼いと見るか、尊いと見るかは他人に任せておけばいい。ただ、「美」と「恥」の意識だけは失いたくない。それらは私のつづる文章そのものであり、私の存在理由そのものだからだ。

僕が僕であるために勝ち続けなきゃならない♪

 

人は薔薇のみに・・・

 文学部出身の友人はいつもこう言う。

「人間は形而上的なことを学ばねばならない。だから文学部こそが最も尊いのだ。文学部のない大学なんて大学とは言えない。」

 私は「そんなもんかな。」と思いつつうなずく。(私も実は文学部出身)そんな調子で彼とは地元のショッピングモールにある喫茶店で、一番安いコーヒーを飲みながら形而上的なこと、つまり「美」について、「愛」について、そして「神」について何時間も語り合った。確かに彼とは話が合う。私もまた「芸術にその身をささげたもと社会科教師」とか言っているくらいだから同じ穴の狢かもしれない。

 

 そんな彼が最近会った際に珍しく節約しているので驚いた。彼は服が好きでいつも「そんなにあっても着る機会ないだろう?」とこちらが言いたくなるほど服を買う。そして、ほとんど着ていない【お古】を私にくれる。「そりゃ、ただでもらえるのはうれしいけど、サイズが違うだろサイズが?!」と言いたくもなるがそれは黙っておく。そんな彼が服や靴を買うのをためらっている。「どうしたのか?」と聞いてみたところ

「ハセガワ君。人は薔薇のみに生きるわけにはいかんのだよ。」

と、のたまう。私は

「そっか。それも一理あるな。」

と応じた。彼の変化に半ば驚きつつ、私は彼のためを思って喜んだ。

 

 そうなのだ。我々は薔薇にのみ生きるわけにはいかないのだ。時にはパンも食べなきゃ腹減らして死んじまう。この資本主義社会をサーヴァイブするためには形而下なことも必要なのだ。

 

 そう、「人は薔薇のみに生きるにあらず」なのだ!

 

 私自身についていえば歴史を学んでいてぶち当たるのがいつも経済の問題だった。経済の事、つまり世の中の仕組みのことをわからないままに歴史を学ぶことはできないな。と言うのが私の経験則だ。

 

 そんなわけで少し時間のできた私は現在、簿記3級の取得に向けて勉強中だ。3級を取ったら次は2級も取るつもりだ。資本主義のしくみを実地から知るための初めの、そのまた初めの一歩が簿記だと思っている。無論、私だって人間だ。食わなきゃ死んじまう。それはパンのためでもあるのだ。

 

 しばらくは簿記3級・2級取得のためにブログのペースが鈍るかもしれない。このブログを楽しみにしてくださる読者の皆様にはご迷惑をおかけして申し訳ない限りだ。ただ、知らなかった世界を学ぶというのは、とても面白い!資格を取得した後、また違った角度からこの社会を見ることができるのではないかと、今から楽しみだ!同時に勉強というのは生涯続けるべきものなんだな。と改めて思う。ついでに今後、彼からのサイズの合わないお古が回ってこなくなると思うと、それもよかったとも思うのだ(笑)。

薔薇のみに生きるにあらず!

 

ふり

 その日の夢の中で、私はある学校で文化祭の準備をしていた。その学校は私の中学・高校・それと私が5年間勤めた女子高の、友達やら生徒やらがごちゃまぜになっていた。校舎内をぶらついていた私はある教室でよびとめられた。

「長谷川君手伝ってってよ。暇なんでしょ!」

「いいよ。」

と軽く受けた私は作業を手伝い始めた。その教室では仮装行列だか何だかの準備をしていた。

 

「長谷川君って確か社会部だったよね?自分のはもう終わったの?」

「うん、あんまやってないけど何かいいみたい。生徒会の仕事優先だよ。先生には悪いけど。」

(私は生徒会の役員をやっていた)

「なんだそりゃ!いいのかよ(笑)。」

 

 ふと気づくとそこには小学校の時仲の良かった女の子がいてその子が唐突に

「ねえ、長谷川君って今流行りのブログやってんでしょ?自分に才能あると思ってんの?」

と聞いてくる。いつの間にかそこには人だかりができていた。

私は

「思っているよ。じゃなきゃやってないよ。日本人ってのは何でもかんでも謙遜すりゃいいと思っているけど、そういう島国根性、俺は嫌いだよ!」

周囲が

「おおーっ!」

っとどよめく。私は続けて

「話変わるけど、さっき先生からグランドのごみ拾いしろって言われたんだ。でも、ごみなんか全然ねーの。それでもやれっていうから、ゴミ拾うふりしてきた。何が悲しいって先生自身そんなこと分かってるのに、それがルールだからってさ。そんなルール変えちまえばいいのに・・・。そうそう“ふり”で思い出したんだけど、どっかのバンドが『プリテンダー』って楽曲歌ってたよね。プリテンダーか・・・偽善者って意味だ。くっだらねータイトル。俺“ふり”って嫌いなんだよ。頑張ってるふり、盛り上がってるふり、楽しいふり、生きてるふり、愛してるふり、そういうものすべてが胡散臭い!一度きりの人生なんだから本気で生きたらいいし、本気で何かを誰かを愛したらいい。俺はそう思う。間違っているかな?俺の言っている事?ああ、何だか無性に文章を書きたくなった。」

 

 そう言い切ると周囲の歓声とともに高揚感が全身を駆け巡入り、目が覚めた。もしかすると地元の友達や女子高時代の生徒たちとこの時私は共鳴したのかもしれない。夢の中だから全部筒抜けだ。悪いことはできない(笑)。

 

 そんなわけで私は今こうしてキーボードを叩いている。私が何が好きで、何が嫌いで、なぜ文章を書くのか?少しわかっていただけたかと思う。面白い奴だなと思っていただけた方々には、ぜひこれからもお付き合いいただきたい。損にはならないよう、これからも、面白い?文章を書いていこうと思う。よろしくお願いします。

 

 最近忙しくてクラウドファンディングの計画はまだ下調べ段階です。動き出したら順次お知らせしていこうと思っています。

 

 ではまた!

Official髭男dism さんごめんなさいm(__)m

 

転んでも

 つい先日、学生時代の友人と久しぶりに会って飲んだ。その友人とつながれて本当に良かったと思う。ほかにも私には20歳前後の頃に友達になった連中と今でも頻繁に連絡を取ったり、私の文章を読んでもらったりしている。こうして古くからの友人とつながれるのは、ひとえにインターネットとSNSのおかげだ。そしてそれらはどちらもアメリカで生み出されたサービスだ。(インターネットは元々軍事技術の応用だと聞いているが・・・)

 

 何にしろ、こう言った新しい技術やサービスを生み出すその創造性には舌を巻かざるを得ない。かの国に留学した友人が言っていたが、向こうの学生で自転車の仕組みをフレーム自体から手作りで作り出しているものがいて驚いたとか。こういった原理原則を自ら作り出そうとするバイタリティーには敬意を表さざるを得ない。ひるがえって我が日本が昨今生み出したものと言って、ぱっと思い浮かぶのが、あまり品の良い話ではないがシャワー式トイレだ。でもこのシャワー式トイレにしたってその原型の水洗式トイレは他国で生み出されたものだ。日本はそれに改良を加えたに過ぎない。

 

 新しい何かに挑戦するという行為、次いでそれに伴うリスクをとるという行為、そしてそれに失敗してもやり直しがきく社会的な仕組み、そういった諸々に対して敬意を表する文化がかの国にはあるのだろう。日本も、大企業が挑戦するうえでハードルを低くするために、つまりお金を借り安くするために、この10年来金利を極限にまで低くしてきた。(ゼロ金利政策)だが結果はだれもが知るとおりだ。

 

 フェイスブックだって、今日では我々の生活の一部になっているAmazonだって、もとはアイディアだけの小さな、小さな企業だった。それが世界を席巻するまでになったのだ。日本もそれに倣って、いわゆるスタートアップ企業をもっと応援しなければならないと、最近になってやっと舵を切ったそうだ。でもまだまだ足りない。と堀江貴文さんが一番新しい著書で述べている。

 

 アメリカという国のすべてが押しなべて素晴らしいとは到底思えない。格差、それに伴う分断、銃の問題、等々。でもこういったパイオニア精神と合理性にはやっぱり感服してしまうのだ。

 

 そしてそのアメリカの社会的・文化的中心であるところのニューヨークの、場末のバーで宮本大の挑戦が始まった。(マンガ『ブルージャイアント・エクスプローラー』石塚真一)今週号のビックコミックで宮本大たちのバンドはニューヨークで初めてのギグを行うに至る。未読の方は是非読んでいただきたいのだが、私は読んでいて震えが止まらなかった。このような文化があるのだから日本という国も捨てたものじゃないな!と感じ入ったほどだ。

 

 さて、少子化高齢化やそれに伴う制度疲労等々、様々な問題が山積のこの国だが、次世代を担う子供たちが生き生きと生活できるような時間と空間を提供するべく私たち学童支援員も頑張らねばと思う。と同時に今の子供たちが大人になるころには、挑戦して、転んでも、再び立ち上がって次の一歩を踏み出せるような法的・社会的枠組み作りを、国としては急いでほしい。なんせ子供たちはよく転ぶのである(笑)。

熱い!面白い!