どこ吹く風

自分には全く関係・関心がないというように、知らん顔をすること。「何処吹く風と聞き流す」

ルーティンワーク

 先日、髪を切りに行った。そこで美容師さんと仕事の話になった。

 私の頭の形や、髪の生え方、それに似あう髪型、バリカンの歯は何ミリが良いかなど、ひとしきり話した後で、私が

「この仕事(美容師)は創意工夫したり、研究したりする機会がたくさんあっって面白そうですね!」

と言うと美容師さんは、

「そうですね、でも、そうでないルーティンワークもいっぱいありますよ。例えばタオルをたたむとか。自分もタオルたたむのかったりーなーとか思いながらやってますもん笑。」

「あ、そっか。そうですよね。髪切るための下準備や後片付けもありますもんね。」

「そうそう、だからその下準備の期間で仕事辞めちゃう若い子も多いんですよ。」

「そうなんですか?勿体ない。」

「美容師なったらすぐに髪切れると思っている子多くて。最初のうちは出来る事ないですもん。さっき言った下準備とか、お客様の髪を洗うとか。実際に髪切れるようになるにはまずそういうのできないと。」

 その美容師さんの話を聞いていて我が身を振り返った。学童でも同じだ。いわゆるルーティンワークと創意工夫する分野とそれぞれある。前者は登所前の掃除、出欠の確認、連絡事項の徹底、おやつの準備、コップ洗い、トイレの窓の開け閉め、ゴミ集め等々だ。後者はシフトの作成(まだ私は携わった事ないが)や出欠席の確認の仕組みつくり、サッカー、将棋、勉強を教えたり、児童同士のトラブルを解決したり、また、人生について講釈をたれたり笑など様々だ。まずは前者のルーティンワークが出来るようになって、初めて、後者の創意工夫の必要とされる仕事にかかわれる。私は仕事帰りの車の中でその日の反省をするのだが、なかなか100満点で仕事を終えられたという日が無い。今日はトイレの窓を閉め忘れた。今日は児童の対応ばかりしていてコップ洗うのが遅れた・・・。等々、いわゆるルーティンワークを100満点でこなすという事が出来ない。うっかりミスが多いのだ。「あ~クソっ」と独り言を言いながら運転する。こういうルーティンワークができないんじゃ始まらないのにな・・・。何故こうもうっかりが多いのだろう?思い当たる節があった。それもそのはずだ。社会人になって(学校を社会というのか解らないが・・・。)初めて就いた教師という職業。これが就いた初めから「先生」なのだ。つまり見習い期間というものが無い。ルーティンワークを経ないままに、いきなり創意工夫が求められる。その上、立場は「先生」で自分より年上の保護者から敬意を払われる。これではルーティンワークが身につくはずもない。いわゆる一つの「世間知らず」の出来上がりだ。どんな仕事でもそうだが、まずはルーティンワーからなのだ。失敗した事、度忘れした事はメモに取って1日の終わりに振り返ろう。それでうっかりミスや度忘れを無くしていく他ない。と、思いつつ1つ頭に引っかかることがあった。そういえば堀江貴文さんがわずか半年で一人前になれるすし職人の専門学校をプロデュースしたって話しがあった。普通にやれば、一人前のすし職人になるには何年もかかる。修行先にもよるだろうが、初めはそれこそ下準備の下準備から、やっと飯を炊けるようになって・・・。というのがセオリーだった。だが、その専門学校ではたったの半年で一人前のすし職人になれるというのだから凄い。確かにお金を払って食べる側としてはすしが美味しくて、しかも安価ならばこれ以上の事はない。ある意味では飛び級制度みたいなものだ。これはこれで才能のある人にとっては良いのだろう。

 また、ある人が言っていた。現代は情報化のスピードが目まぐるしい。昔は経験知的に年寄りが重宝がられたが、現在では誰もが情報にアクセスできる分、そのすべを持たない年寄りは逆に置いていかれてしまう。その意味で経験という価値の逆転が起きているとか・・・。

 とまあ、何はともあれ、児童たちを相手にするからには、まずはルーティンワークをキッチリとこなせるようでなくては示しがつかない。それにいずれは自分で自分の身の回りの事は出来なくてはならない。(家政婦さんでも雇わない限り・・・。)それは学童でも必要とされる能力だ。

 そんなわけで明日こそは1日を100満点で終えられますように。

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良い職場です!

「長谷川漣の何処吹く風」もあわせてどうぞ。残り1回です。

長谷川 漣の何処吹く風 – 表現者の肖像 (gentosha-book.com)

流行り廃りの正義

 「正義には流行り廃りがある」

 旧優生保護法のもと強制不妊を強いられた人は日本全国で2万人を下らないという。恐るべきはそれらが国家の名のもとにおいて為されたことだ。それが当時の常識(正義)だったのだろう。昨年4月にようやく国は誤りを認め、被害者への謝罪と一時金320万円の支給を盛り込んだ救済法が成立した。確かに正義には流行り廃りがあるのだ。

「正義なんて所詮、相対的なものだし、流行り廃りもある。絶対的で、流行り廃りのない正義は存在しないのかな?」と私が問うと、友人は

「敢えて、言わせてもらうなら、普遍的な正義とは言わないまでも、普遍的な原則はある。それは弱肉強食だよ。生物界の普遍原則だもの。その意味では旧優生保護法はある意味では間違っていないよ。ある意味ではね。」

「すごいこと言うなぁ。それって障害のある俺にとっては生きる資格無いって言われているのと同じだよ。参ったなぁ・・・。」

「これは反論の為の反論だからそう思って聞いて欲しいけど、その意味では相模原の障がい者殺害の植松被告の言い分もある意味肯けることなんだよ。弱肉強食こそがこの世界の普遍法則だよ。それはシビアなことだけど間違っていない。」

と友人。私はいたたまれなくなって

「でもさ、ネアンデルタール人の遺跡からも彼らが障がい者を社会の一員として助けながら暮らしていたってわかる例があるんだよ。それが出来る事こそが人間の人間たる所以なんじゃないの?それを端的にあらわしているのがマンガ(『寄生獣岩明均)のラストシーンだよ。『心にヒマ(余裕)がある生物、何と素晴らしい』になるわけでさ。」

と反論すると

「まあそりゃそうだ。でもまた敢えてのアンチテーゼだけど、それって人間様を特別扱いしている事に他ならないよね。人間は牛食っても豚食ってもいいんでしょ?それでいて心に余裕があるって、それこそ人間にとって都合の良い正義なのでは?」と畳みかける友人。

「まあねぇ・・・。」と言葉を濁す私。それに対し友人は

「そこまで話がいくと昔のネイティブアメリカンアイヌの人たちは獲った動物や魚を骨まで余すことなく使ったって言いうものね。それに必要以上には殺さなかった。文字通り自然を敬い、自然と共生していたんだろね。彼らの生き方に学ばなくては・・・。」それを聞いた私は

「と言っても現代の高度資本主義社会に生きる我々は知恵もついたし、手足も伸びた。今更揺りかごに戻れって言われてもねぇ・・・。」と答えた。

 と、そこまで話して目的のラーメン屋が見えてきたので会話は中断した。さて我々は物理的にはラーメン屋に向かってきたことに間違いないのだが、精神的には果たして何処へ向かってきたのか?ラーメンを食べ終わった頃にはこの会話も忘れてしまうだろう。そう思ってここに書き留めた。もう一度問います。果たして我々は何処へ向かっているのでしょう?絶対的な正義、普遍的な正義は解らなくても、その都度「よりましな正義」を選択していくしかないのでしょうか?我々は何処から来てどこへ行くのか?もしご存知の方がいらっしゃったら教えてください。それでは!

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心にヒマ(余裕)!必要ですよね!

「長谷川漣の何処吹く風」もあわせてどうぞ。残りあと一回です!

長谷川 漣の何処吹く風 – 表現者の肖像 (gentosha-book.com) 

意識・無意識・夢・シンクロ

 今しがた目が覚めてこの文章を書いている。午後11時を過ぎたところだ。目が覚める時とても良い気分だった。ふと、はてなブログのアクセス数を見て見ると、眠っていた時間帯に確かにアクセス数が1つ増えている。誰が読んでくれたのかは判らないが、その方が私の事を好意的に評価してくれたのかもしれない。それで夢の中で良い気分になっていたのかではないか?最近そんな風に思う事が良くある。眠っていて誰かの声が聞こえてくるのだ。以前にもこんなことがあった。ある推理小説を読み始めたばかりの時、その事を友人にメールで告げると(彼はその小説をすでに読んでいる)夢の中にその友人が出てきて犯人は~だよと教えてくれるのだ。その犯人に関してはまだ小説中でほとんど触れられていなかったにもかかわらずだ。フロイトだかユングだか忘れたが、人の無意識は繋がっているのかもしれない。それが「声」として聞こえてくるのではないか?空耳なんていうのも同じような気がする。

 

 人の意識・無意識は氷山のようなもので、水上に突き出た部分、つまり個々の意識はそれぞれ別の個体のように見えても、それらは水面下では繋がっている。眠るという行為を通じて我々はその繋がった水面下へと降りて行く事が出来るのではないか?それが「声」という形で聞こえてくる。もしくはそれを“シンクロ”と私は呼んでいるのだが・・・。 

 また、村上春樹さんが「井戸」に下りてゆくという表現で表そうとしているのもこの事なのではないだろうか?

 村上春樹さんにしろ、ユングだかフロイトだかにしろ、自身もこういう体験をしたことがあるのではないだろうか?そこから導き出された仮説なのではないだろうか・・・?

 

 そんな話を月に一度通院する精神科のドクターにした事がある。ドクターは「ふむふむ成程ね。」と聞いてくださった。その後ドクターは「どこまでが個別の意思で、どこからが共有意思かという問題が出てきますね。」とおっしゃった。「自由意志がどこまで本当に自由かという問題ですか?」と私が問い返すと「そうそう!その問題。」と答えられた。

 

 このテーマはSFなどで昔から論じられてきたものだ。萩尾望都さんの『バルバラ異界』でもそうだし、スタニスワフ・レムの『惑星ソラリス』でも扱っているし、我々の世代に親しみやすい題材としてはアニメ『エヴァンゲリオン』がある。『エヴァンゲリオン』の人類補完計画というのはまさに個々の意思から共有意思へと「人類が補完される」というものだろう。私の使う“シンクロ”という言葉も『エヴァンゲリオン』から拝借した。また、それこそ1000年以上昔の日本でも『源氏物語』に紫式部が「夢の中で相手を呪い殺してしまう女性」(名前は忘れたが・・・)を描いている。これなどは共有する意思なのか?はたまた個別の意思のなせる業なのか?人の意識を侵食するという表現が正しいのか?俄には解りづらい。

 

 色々と述べてきましたが 意識・無意識・夢・シンクロ このテーマについてもっともっと深く掘り下げてみたいと思うのです。こういったテーマについて扱った書籍や論文をご存知でしたら教えてください! よろしくお願いします。

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賛否両論あると思いますが、深いテーマを扱っている作品であることは事実です。

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会話上手になりたい

 「そんな事も知らないの?」と言われることが最近多い。どうも私は世間知らずらしい。先日も「カーツ大佐(地獄の黙示録)知らないの?」と友人に言われた。映画『地獄の黙示録』は見たことがなかったので正直に「知らん。」と答えた。変に知ったかぶりをする必要はない。「所詮、知識とは相対的なものである」というのが私の持論だ。『地獄の黙示録』については熟知しているかもしれないが、例えば私の好きなマンガ『不思議な少年』(山下和美講談社)について友人は全然知らない。若しくは究極的には私の人生について私以上に知っている人間は(物心つく以前は別として)いないわけで(いたら怖いが・・・)その意味で知識とは常に相対的なものだ。鍵となるのは誰の土俵で話をしているかという事。自分の土俵で話をした方が当然知識は多くなるわけで、より重要なのは誰が会話の主導権を握るかという点だろう。何にせよ、知識比べなんてナンセンス極まりない行為だ。むしろ大切なのは会話を「楽しむ」視点であり、「俯瞰」する視点だと思う。

 

 話しは移るが、職場の学童には砂場がある。見ていると面白い。先にいる子が砂山をつくっているとする。あとから来た子が取る行動としては

①一緒に作る

②別の山をつくる

 の2つに大きく分けられる。子供とは尊いもので、相手より大きな山をつくろうとか、相手の山を壊してしまおうなんて発想はまずない。むしろほとんどの子が一緒になって大きな山をつくろうとする。「会話」を楽しむとは、この一緒になって大きな山をつくろうとする行為だと思う。会話の上手な人はこの事をよく解っているのだ。

 

 そう言うわけで、会話の上手な人とは常に会話を「俯瞰」している。自分たちの会話が①のような共同作業になっているかどうか?を気にしながら会話しているのだ。そのような視点を持つことで会話が楽しいものになるし、深みが増す。そうなのだ。そもそも会話とは何か楽しい時間、おもしろい時間を共有する為の共同作業なのだ。その事を踏まえて、私も会話上手になりたい。それがコミュニケーションを、ひいては人生を豊かなものにするからだ。

 

 先に述べた『地獄の黙示録』特別完全版202分バージョンは半分見てどうも面白くなかったのでツタヤに返してしまった。悪く思うなよT君!

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本当に面白い!

「長谷川漣の何処吹く風」もあわせてどうぞ。本日2/26、その11が公開です!

長谷川 漣の何処吹く風 – 表現者の肖像 (gentosha-book.com)

タバコ

 『ここは今から倫理です。』(雨瀬シオリ①~⑤)で主人公の高柳先生がタバコをおいしそうに吸うのを読んでいて、何だか無性にタバコを吸いたくなった。折しも兄が来ていたので一本もらって家の玄関を出たところで吸った。数年ぶりのタバコだった。職業柄タバコは控えていたのだが、久しぶりのそれは美味かった。翌日、お隣のご主人がいつもは会っても会釈するだけなのに、その日車で出勤しようとするとにっこりと笑顔で挨拶してくれた。また、帰宅すると今度はお向かいのご主人が、こちらもいつもは会釈するだけなのに「お帰りなさい!」と声をかけてくれた。どうやら玄関先でタバコを吸っていたのを見られたらしい。どちらの方も言外に「それでいい!」と言ってくださっているような気がした。何だかいい気分になった。それでこちらも気持ちよく「こんにちは」と挨拶を返した。

 人生には様々な局面がある。思うようにいかない事、理不尽な事、やるせない事。言葉にならない、もしくはできないそれらの想いをタバコが浄化してくれる。一筋の煙と共に。そう思うとタバコも捨てたものじゃない。ご近所のお二人もその事をご理解されておられたのだろう。むしろ「タバコの味が解るようになって、やっと一人前だ!おめでとう!」と思ってらっしゃったのかもしれない。

 そんなこともあって今日ローソンで、低温加熱式タバコ『プルームテック・プラス』を迷った末に購入した。今だけ1000円引きというのも購入を決意した大きな理由だ。マスカットミント・フレーバーを吸ってみると、何とも言えないいい気分になった。同時にこんなことを考えた。「人生には必要毒というものが在るのかもしれない。濁りすぎた水では魚が死んでしまう。でも、あまりに清すぎる、それこそ無菌状態の水でもやっぱり魚は死んでしまうのではないだろうか?」

 昔読んだマンガに『銃夢』(木城ゆきと)がある。このマンガでは究極のユートピアが描かれている。そこには一切の穢れのない世界。それこそ無菌状態の理想郷が存在する。そのユートピアの誇る究極の公衆衛生装置が「エンド・ジョイ」だ。この「エンド・ジョイ」とは一言で言うと「幸福感に包まれたまま自殺できる機械」だ。主人公のガリィはこの機械を四の五の言わずにぶっ壊す。うなずける場面だ。

 そんなわけで、今低温加熱式タバコを吸いながら、この文章を書いている。タバコが健康に良くないのは百も承知です。周りの方の迷惑になるのも良くない事です。でも、タバコ的な必要毒を極限まで減らして、その先に待ち受けるのが「エンド・ジョイ」的無菌状態な理想郷なのだとしたら・・・。そんな未来クソ食らえなのです!

 

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面白いです!

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中学の時読みました!

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『男はつらいよ』的文脈

 「馬鹿」という言葉一つをとってもその“文脈”次第で意味合いは大きく異なってくる。憎しみ合っている二人の間で交わされた言葉なのか?それとも恋人同士の甘いささやきなのか?言葉はその前後の流れやその状況、つまり“文脈”次第で解釈が変わってくる。だから言葉の真意を知りたいなら、そこに至る“文脈”を知る必要がある。

 私の知人が、中学1年の自分の息子の事を「あいつは馬鹿だ、どうしようもない馬鹿だ」とそれこそ口を酸っぱくして言う。字面だけ見ていると「ひどいこと言うなあ」という事になるのだが、やはりそこは親子、前後の文脈(それこそこれまでの親子としての絆を含めて)やその声色を聞いていると「やはり息子さんが可愛いんだな」と伝わってくる。

 このように口では「馬鹿」だの、何だのと悪態をつきながらも、その根底には深い愛情がある。「これって『男はつらいよ』的文脈だなあ。」と微笑ましく思った。無論『男はつらいよ』シリーズを全部見たわけではないが、そこには品のない表現や悪態をつく場面が結構頻繁に出てくる。それこそ『男はつらいよ』というタイトル自体がある意味で男尊女卑的だ。でもこれらの表現や、悪態が少しも差別的ではない。むしろそこには温かみがある。何故ならそこには映画全編を通じて、この『男はつらいよ』的文脈とでもいうべきものが在るからだ。

 さて、某世界的スポーツの祭典の組織委員会のトップが“失言”をした。私はその失言の字面だけはニュースで知ったが、そこに至る文脈は知らない。彼の発言はどのような文脈の上でなされたものだったのか?先にあげた『男はつらいよ』的な文脈の上でのものだったのか?それこそ文字通り『男はつらいよ』つまり男女の性差や向き不向きを認めた上での発言だったのか?それとも単に女性蔑視的な文脈の上で語られたものだったのか?それを確かめないうちは一方的な判断はできない。と思うと、何だか彼ばかりを一斉に糾弾するメディアの在り様もどうなのかな?と思えてくる。でも、例え『男はつらいよ』的文脈で言ったのだとしても、ダメなものはダメなのだろう。とも思える。なんせ女性の社会進出、男女の平等は“グローバルスタンダード”だから・・・。日本が誇る『男はつらいよ』的価値観。世界には通用しないのだろうか?例え、出る杭打つのが日常化していても、例え、年功序列の弊害がまかり通っていても、『男はつらいよ』的文脈が根底にあるのなら、やっぱりこの国は「いい国」だと思うんだけど・・・。もはやそれは昭和の遺物になってしまったのだろうか?悲しいなぁ~・・・。もしこの『男はつらいよ』的文脈・価値観すら存在しなくなってしまったら・・・それこそ中田敦彦さんじゃないけどシンガポールにでも行くしかないのかなぁ・・・(涙)。もっともどんなにシンガポールが魅力的でも独裁国家なんて嫌だけどなぁ・・・。

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『女もつらいよ』と言ったところでしょうか?

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IQより愛嬌を

 雑談が苦手だ。

 現在勤務している学童では、掃除をしてから子供たちが帰ってくるまで、どうしても時間に空きができてしまう。その時間を職員同士で仕事上の情報交換に当てている。つまり雑談だ。

 この時間がどうも私は苦手だ。話すネタがない。私はどうも雑談の為の雑談、もしくはどうでもいい話というのが根本的に苦手らしい。

 話をしていれば、その人の事をより深く知りたいと思うし、もっと本質的な話をしたいと思ってしまう。でもそういうのは雑談には求められていない。雑談に求められるのは当たり障りのない話だ。

 本質的な話となると、そこには上下関係がもちろんあるし、背負っているものや、バックグラウンドの違いもある。そういう“他人同士”が誰も傷つけることなしに、しかも愚痴にならない話題。となると本質的な話というのやはり向かない。その意味で、どうでもいい話、当たり障りのない話が求められるわけだが・・・。こいつが難しい。

 昔(学生時代)はそんな事なかった。同じ研究室の人のなら同学年は

 「どうよ?最近どうよ?」で通じたし、

 もしくは先輩でも

 「どうですか~さん?最近どうですか?」

で通じた。

 相手は多くの場合笑いながら

 「どうって別に普通だよ(笑)。」

とか

 「どうもこうも、そもそも昨日会ったばっかじゃん(笑)。」

と返してくれた。

 それがいつの間にか、何をしゃべればよいか考えているうちに何もしゃべれなくなってしまった。困った話だ。

 そこでと言うわけではないが、以前から見ようと思っていた「中田敦彦さんのYouTube大学」で『一流の雑談力』の回を見た。それによると何でも「話かけられるのを待っているのは3流なのだそうだ。「あっ俺って3流の雑談力か、我ながら情けない。」と思った次第だ。

 動画を観てわかったのだが、中田さん御自身も雑談が苦手だとの事。反対に相方の藤森さんはそれこそ「雑談の天才」だそうだ。どうも雑談に必要なのはIQよりも愛嬌(あいきょう)らしい(笑)。

 さて、そんな私でも子供たちと話すのは得意だ。そこに下手な気遣いや、遠慮が要らないからだろう。と、思っていたが、実は気遣いしてもらっているのは私の方かもしれない。みんなありがとね(感謝)

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IQより愛嬌(あいきょう)!

「長谷川漣の何処吹く風」もあわせてどうぞ。残りあと2回です!

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