どこ吹く風

自分には全く関係・関心がないというように、知らん顔をすること。「何処吹く風と聞き流す」

戯言(たわごと)

「要(※夫の名前)にとって女というものは神であるか玩具であるかのいずれかであって、妻との折り合いがうまく行かないのは、彼から見ると、妻がそれらのいずれにも属していないからであった。」

 

と小説『蓼食う虫』の中で谷崎潤一郎が述べている。私はあまり趣味では無いので谷崎潤一郎は『痴人の愛』くらいしか読んでないが、友人から紹介された事がある。なんかすごいフレーズだなと一瞬引いたのをよく覚えている。ただ、一面の真実を述べているのも確かだ。「要」という固有名詞を「男」という一般名詞にしても十分通用するだろうし、現代ではその逆(男女を変えても)だって然りだ。さて、私は未婚者で「蓼食う虫」に出てくる主人公「要」達の気持ちは知る由もない。だが、一男性として「要」の言う事は解る気はする。ついでに言わせてもらうならば過去はともかく現在(おそらく未来も)私にとって「神」となるような異性は身近にはいない。いるとすれば液晶画面のはるか向こうに映る椎名林檎さんや宇多田ヒカルさんもしくは深田恭子さん(笑)位なものだ。かといって十代二十代の頃のように、もう寂しいからって玩具を欲しがるほどに子供では私はない。と、それを承知で近づいてきてくださる方がいるとすれば、こう言うしかない。「おまっいいけど、やけどすんなよ!(笑)」

  

狂人の戯言(たわごと)と思ってくだされば幸いです(笑)。

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あまり私の趣味ではありません(笑)。

 

呼び名

その昔私がまだ20代の始めの頃、交際?していた女性が、男女としてある一定の段階を経るごとに、「ねえ、何て呼んだらいい?」と聞いてきた。今のわたしなら「俺の事は陛下って呼んで」とか「俺の事は大佐って呼んで、そしたら俺が『どうしたスネーク』って言うから」(メタルギア ソリッドプレイステーションコナミより』)と引き出しがたくさんあるのだが、その当時は「なんでもいいよ」というしかなかった。呼び名とは両者の関係性を表す解りやすい指標だ。両親との関係にしても、子供の頃はパパ、ママと呼んでいたのがいつのまにかお父さん、お母さんと呼ぶようになり、それがまたいつの間(反抗期?)にか母については○○さん、父については名前を呼ばなくなり、そのうちに今度はジョーク的な意味合いを含めておっかさん、親父と呼ぶようになった。人と人との関係性って変わっていくものなのだと思う。そのような観点で見ると恋愛とは両者の関係性の変容過程と捉えることができる。その女性は私との関係性を彼女なりに模索していたのだろう。「なんでもいいよ」というのはある意味失礼な返答だったかもしれない。無論その頃はそんなこと解らなかったが・・・。たいして長続きした関係でもなかったのだが、そういったことは学んだ。何事においてもそうだが人が2人以上集まればそこにドラマ(人間模様)が生まれそのドラマから何かしら学ぶ点があるというのが私の経験則だ。呼び名という観点から考えるなら相手との関係性が変わるから新たな呼び名が生まれるのか?呼び名を変えるから新たな関係性に変容するのか?これまた、卵が先か鶏が先かという話になってしまうが着眼点としては面白いと思う。私自身についていえば比較的最近知り合った方々ではハセちゃん、ハセさんと、読んでくれる人達がいて、学生時代からの友人は相手がどんな社会的立場になろうと相変わらず姓で呼び合う仲だし、身近にはお主とか貴方とかお前と呼び合う友人がいる。さしあたってはこういった人達が私の財産かなと思ったりする。意外と幸せな人生かも知れない。さてこの文章をお読みの皆さんはパートナーや近しい人達の事をなんと呼んでいますか?関係に行き詰っている方は互いの「呼び名」を変えてみるのも一つの解決策かも知れません。例えば「大佐!」「どうしたスネーク?」のように(笑)

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「大佐!」「どうしたスネーク?」学生時代面白くて仕方ありませんでした(笑)



主導権

主導権を握るという表現があるが、事、人間関係においてはそんなに単純なものではない。私事で恐縮だが、教員になって二度目の担任を任されたのが、当初ひどく荒れたクラスだった。(誰も持ちたがらないから私のところに回ってきたわけだが)担任として、最初の挨拶で明言したのは「多数で個人を攻撃する事、立場の強いものが立場の弱いものを攻撃する事、これは絶対に許さない」という事だった。実際に教員間で私自身が村八分状態だったのでこれには説得力があったようだ。それでも言葉だけでどうにかなるほど容易ではない。クラスという集団が出来ればそこには必然的にボスとなる生徒が生まれる。このボスに当たる生徒が非常に厄介だった。このボスを何とかしないと、下の者からも結局舐められる。それが言い方は悪いが≪群れの論理≫というものだ。このボスに当たる生徒は平気で掃除をさぼっていた。腹が立った私は「みんなが掃除しているのに、君は何様のつもりなんだ。」と怒鳴りつけた。「うるせー。」と怒鳴り返して帰ろうとするそのボスのカバンのをつかむと、カバンが壊れんばかりに引っ張った。ここで手を離したら負けだ。そう思った私はカバンが壊れようが何だろうが死んでも掃除させるという必死の形相で臨んだ。結果、その生徒は折れて掃除をするようになった。そうなるとクラス全体が落ち着いてきて、後の細かいことは生徒が進んでやってくれるようになった。クラスの時間表つくりや、掲示板の整理、席替え等々、ほぼ生徒たちの自主性に任せた。副担任の先生の助力もありクラスは和気あいあいとしてきた。生徒からは「おーいハセガワ~。」という声が聞こえてきて私は「ハセガワじゃないよ、ハセガワ大先生と呼びなさい(笑)」という冗談が通じるまでになった。結果、年度末の保護者会では「この一年いじめの無いクラスにしようというのが当初の目標でした。それは達成できたと思うのですが、あろうことか担任のわたしがいじめられる羽目になってしまいました(笑)。」と笑顔で報告できた。日々の些細な主導権は生徒の側に持たせて、要所、要所(コアとなる部分は)絶対に曲げない。これが私なりのクラス運営術、カッコよくいえばマネジメントだった。これは私という個人の性格、能力に由来するものでもあるのだが、学生時代に学んだ事が土台にはある。グレゴリー・ベイトソンという文化人類学者が述べているのだが、コミュニケーションの形態とは大きく3つに分けられる。

  対立型:これはアメリカと旧ソ連の核開発競争のようなもの。互いに対立し合い究極的には両者の関係は破たんに至る。

  支配・従属型:これは一方が強気に出れば一方が従属するというもので、これが進むと究極的には、両者の関係は破たんに至る。

  無礼講型:一方が支配しているようでいて、無礼講のような形で定期的にその支配が逆転することが一つの慣習として根付いている。このタイプは両者の関係は長期的に保たれる。

私は、無意識のうちに③のタイプを用いていたのだろうと思う。おそらくは性格的なものだろうが・・・。さて私は自分で言うのもなんだが穏やかで、従順な人柄だ。細かいことの主導権は信頼できる人に預けてしまった方が気楽だと常日頃から考えている。ただ、譲れない部分は死んでも譲れない。それもまた事実であり、人間て、そうそう単純なものでもないなと感じた今日この頃だ。この文章をお読みになった皆さんはいかがですか?無礼講していますか?

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夫婦間だろうが、何だろうが、無礼講は必要だと思います(笑)

 

男は背中で・・・

 あと少しで平成も終わりを迎える今日この頃、皆さんいかがお過ごしでしょうか?

昭和を生きた方々にはなじみ深いフレーズに「男は背中で語るもの」があります。さて、昭和生まれの私としては無い知恵しぼって背中で語りたいフレーズを考えてみました。

 

○がんばるゾ!

○いぢめないで!

○愛されるよりも愛したいマジで♪

 

明日、職場で上記のフレーズを自分で背中に張り紙してみようかな?どれがいいと思う?と親に問うたところ「職場ってのはもっと襟を正すものだよ!」と諭されました(笑)。

 

あくまでほんのジョークです。お気を悪くされないでくださいm(__)m

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平和でユーモアにあふれた時代になりますように

 

託す

育ちがいいという表現がある。何のことやらさっぱりわからなかったが、今になって(42歳になって)ようやくその意味が解った。

今日、職場の食堂で私が一人で窓に向かって食べていると、ある同僚が向かいに腰かけてくれた。「最近どうですか?」と聞いてくる。思わずうれしくなった。私は障がい者枠で雇用してもらっている身分で、自分で言うのもなんだが仕事はできない。にもかかわらず偉そうにもこんなブログを綴っているものだから、当然というべきか周囲の評判はよろしくない。自分でも承知している。よって私に近づくことはその同僚にとって損にはなっても得にはならない。にもかかわらず向かいに座ってくれた。社会人になって常々思うのはいかに多くの人が損得で付き合う人を選んでいるかという事。この相手と懇意にすることが自分にとって損か得かで付き合う人を選ぶ。社会人ってそういうものなんだな。と思っていた。ところが、この同僚にはそういうところが全くない。「育ちが良いっていうのはこういう事を言うんだ。」とその時思った。そのような判断基準で言えば私自身もそうそう育ちが悪くはない。むしろいい方だ。飲み会などで暇そうにしている人がいると積極的に話しかけに行く。そりゃ自分がそうしていたらさみしいからだ。では、育ちがいいとは要するに金銭的に余裕がある家庭に育ったという事だろうか?その同僚の家がどうかは知らないが私自身についていえば、そうとは言えない。私のうちは父が地方公務員で母は専業主婦だった。いっつも質素に生活していて、外食などほとんどしたことがない。子供の頃は近所の友達の持っているおもちゃが羨ましくてならなかったし、小・中・高と塾にも行かせてもらえなかった。ただ時間と愛情は十分に注いでもらったと感じている。そのことに気づいて「今にして思うと、俺って育ちいいのかもしれない。」と晩飯時に言うと、母は「普通だよ(笑)」と言うし、父は「育ちがどうとか、ああだこうだいうな!」とにらみを利かす。ありがたみと言うものが解るのに、ずいぶんと時間がかかってしまった。そのような両親のありようを見て私自身も、もし家庭を持つなら共働きよりは奥さんには家庭に入ってもらいたいなと思っていたが、どうも年齢的にも障がい者枠という意味合いにおいてもそれは無理そうだ。よっぽど稼ぎのいい奥さんを見つけて私が専業主夫にでもなるなら話は別だが・・・(笑)

この文章を読んで、「育ちが悪くて悪かったな」と思う方も当然いらっしゃると思う。と言うか、いて当然だ。でも、だからこそ、そう思われた方はご自身のお子様に対してお金ではなく愛情と時間をかけてあげて欲しい。託すとはそういう事だと思うから。

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めずらしく真面目な画像を選びました(笑)

 

初!書籍化

昨日帰宅したら、小包が届いていた。開けてみたらずいぶん前に応募した幻冬舎ルネサンス新社の書籍『拝啓、あの日のわたしへ』に私の原稿の掲載が決まった旨の通知と、実際に文章の掲載された本一冊が入っていた。58人の作者による短編集のうちの一人にすぎないが、とりあえず人生初の書籍化だ。嬉しかった。早速友人数人に写真を撮ってメールで送った。

掲載された他の文章をいくつか読んでみて思ったのだが、私の書く文章は良くも悪くも非常にロジカルだなあと。逆に言うと情緒的でない。私は群馬県の山間の小さな町で幼少期を過ごしたのだが、自然豊かな風景に自分の心象を投影するなどという事が全くなかった。と言うより、あまりにも自然豊かだったために、そう言った風景描写や、心理描写に無頓着だったのかもしれない。人の書いたものと自分の書いたものを比べるというのも勉強になるなと思った次第だ。で、影響を受けるかと言うと、そうでもない。このままの自分で行く。と言うのが私の基本的なスタンスだ(笑)落ちもついたところで、とりあえずご報告までに。

スマホ(アンドロイド)で撮った写真を載せたいのですがロックがどうとかこうとか出てきて上手くいきません。興味のある方は「拝啓、あの日のわたしへ」でAmazonにて検索してみてください。こちらの書籍ではペンネームは「長谷川 了」です。文章の題名は『5歳のモネ』です。

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この本でのペンネームは「長谷川 了」になります。最終的には「長谷川 漣」に落ち着きました。

 

どうよ?

SNSが普及するはるか以前から「いーね」を多用してきた人物がいる。クレイジーケンバンド横山剣さんだ。いわば「いいね」の先駆者だ。ただし横山さんの場合は、「いーね」に先行して「どうよ?」という前振りがある。横山さんがバンドのメンバーに「最近どうよ?」と聞くとメンバーは「いや、最近頭痛がひどくて・・・」と答える。それに対して剣さんは神妙そうに「いーね」と返したとの事(笑)。(NHK・カヴァーズより)私の学生時代をご存知の方はうなずいていただけると思うが、私もこの「どうよ?」を会話に多用してきた。「最近どうよ?」この「どうよ?」にはいろんなニュアンスが詰まっている。「最近見かけなかったけど元気か?」とか「進級ダイジョブなのか?」とか「彼女とは順調なの?」とか「暇してないか(寂しくないか)?」とか様々なニュアンスをこめて「どうよ?」と会話の頭に持ってきた。私は今も昔も天気の話とか、時事ネタとか、趣味の話とかいわゆる話題が豊富な方ではない。むしろ趣味や話題に乏しい人間だ。でもまあ、それはそれで仕方ないと思う。少し話は飛ぶが椎名林檎さんの楽曲に「sweet spot」がある。サビの部分でyou always know my sweet spot ♪(あなたは私の打たれ弱い部分、つまり芯になる部分、核になる部分を知っているの)と歌っている。私もこの歌詞に共感する。つまり相手の本質を知りたいのだ。天気の話とか、趣味の話とかパチンコとかそれはそれで当たり障りのない重要なコミュニケーションツールだ。ただそれとは別に、相手の本質、コアとなる部分を知りたいという気持ちが常にある。それは今も昔も変わらない。社会人となった今では、少し親しくなった人に「アバウトな質問で恐縮なんですが(笑)、最近どうですか?」と投げかけてみる。すると相手から「まあ、ボチボチですね(笑)」という答えが返ってくる。実に洗練された答えだ。「思うところを素直に言ってみたいけど、そうするといろいろ軋轢も生じるし、とりあえず危なげない答えを」という意図が伝わってくる。それはそれでとてもいいと思う。大切なのは「あなたに興味がありますよ。」とそれに対する「ありがとう」という意図が伝わる事だ。少しずつ、少しずつ本質に近づければそれでよい。

さてこの文章をお読みいただいている貴方は最近どうですか?私?私はまあ、ボチボチです(笑)。

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「いーね」って「いいね」!!!

この坂道もそろそろピークで 馬鹿らしい嘘も消え去りそうです

やがて来る 大好きな季節を思い描いてたら  

ちょうどいい頃に素敵なコードで 物凄い高さに届きそうです

言葉より 触れ合い求めて 突き進む君へ ♪

(スピカ、歌:椎名林檎、作詞作曲:草野マサムネ)より