どっかの

 先日から読み返している村上春樹さんの『海辺のカフカ』のクライマックスで重要な役割を果たす星野青年が「さっさとけりをつけちまおうぜ、それから俺っちは名古屋のアパートに帰って、どっかの女の子に電話でもかけるんだ。」というくだりがある。「どっかの」という部分にいたく共感した。この場面においてトラック運転手の星野青年は『世界の入り口』を閉めるべく孤軍奮闘しており、それらがすべて終わった後には名古屋に帰って「どっかの女の子」に電話でもかけたいと言っているのだ。そうなのだ、星野青年は気になるあの子に電話しようとか、彼女とか、フィアンセとかは言ってない。あくまで、「どっかの」女の子なのだ。それは往々にしてその女の子にしてみれば星野青年がどっかの男(の子)に過ぎないという事を暗示している。(必ずしもそうとも言い切れないが)そうなのだ、「どっかの女の子」と向こうからしてみれば「どっかの男の子」と気楽に飯でも食いたいというのはよく解る心情だ。職場の人とか、サークルの同僚とかではなく、何のしがらみも上下関係もないどっかの女の子(男の子)と気軽に飯を食いたいな、という願望はごくありふれたものだと思う。組織のパワーバランスや、めんどうくさい人間関係から離れて、のびのびと本音をぶつけられる相手がいたらどんなに幸せだろうと思うのはきっと私だけではないはずだ。私だって、というべきか20代の頃にはそういう相手がいた。相手の社会的地位とか経済力とか全く抜きでざっくばらんに話せる相手がいた。今にして思うとあの頃は幸せだった。いろいろあって今となっては、そんな気軽にざっくばらんに話せる異性はとてもじゃないが皆無だ。若さって本当に貴重なものだったのだと今にして思う。もっともそれがリアルタイムでは解らないのが世の常というべきか?失ってみて初めて分かる事なのだ。
 人が人である限り、何らかの、しかも複数の役割を担っている。それらの複合体が自分という個人なのだろう。しかしそれらを脱ぎ捨てて本来の自分自身に戻って思うところを思うように述べてみたいと感じるのは現代社会の誰もが感じる一種の「自己解放願望」なのだろう。年齢を重ね、組織に属し、良くも悪くもお世話になる(組み込まれる)というのは、その分自由を一つ失うという事を意味しているのかもしれない。その分組織に守ってもらえるというメリットもあるわけだが・・・
 と、いろいろと述べてきたが要するに何が言いたいかというと、「どっかの」女の子とざっくばらんな話をしたいな~というしょうもない結論にいたった次第だ。我ながらしょうもない(笑)。でも、たまにはこういう毒にも薬にもならない文章もありかと・・・もう一つ言わせていただくなら私はこの「星野青年」というキャラクターが結構気に入っているのだ。村上春樹さんのファンの方もそうでない方も是非『海辺のカフカ』をご一読することをお勧めします。

f:id:kirutokira:20180812060133j:plain