「要するに、良心の呵責でしょ。」
「ドストエフスキーの『罪と罰』読んだことある?」と尋ねた私に友人はさらりと答えた。「カッコイイなあ。」私は思わずうなった。『罪と罰』やら『カラマーゾフの兄弟』やらを読んだことがあると聞くと、それだけで何かすごい人のように思えてしまうから不思議だ。私も2度3度試みたがあまりの難解さに挫折して、結局は簡略化されたマンガ版を読んだきりだ。友人はそのドストエフスキー(19世紀ロシアの誇る文豪)を一刀両断した。まるで往年の波田陽区のように。
だがちょっとまて、いったいドストエフスキーの小説の何がそんなにすごいのか?ドストエフスキー自身が非常に破天荒な人生を送った人だという話は聞いたことがある。だが作家と作品は別のものだし、そもそも小説とはエンターテインメントだ。であるならば読むことが楽しくなくては意味がない。読んでいてはっとさせられるような箇所があったり、登場人物に自身を重ね合わせたり、とにかく読むという行為が楽しくなければ意味がない。ところが私にとってドストエフスキーの小説はそうではなかった。楽しくないのだ。時代背景、社会背景に対する理解不足、読解力の不足。何よりも忍耐力の不足等々、私に問題があると言われればそれまでだ。訳者による違いもあるだろう。ロシア語の原典を読めたらまた違ったのかもしれないが、それは致し方ない。ただ、誤解を恐れずに言わせてもらうならば、勉強しないと読めない小説なんてどうかと思うのも確かだ。読んでいて勉強したいと思うのなら話は別だが。
そもそも文章を書くのは、日記やメモを別とすれば、「伝える」という行為に他ならない。自分の思いを誰かに伝えたいというのが根底にあると思う。卑近な例ながら私だってそうだ。「届けこの想い」。これは作家に限らず表現者であるならば当然の事だと思う。特定の相手にのみ解ればいいのならそれは暗号でも恋文でも好きにしてほしい。ただ表現者であるのならば、できるだけ多くの人に伝えてなんぼのはずだ。であるならば難しい表現で難しいことを書くよりも、より優しい表現で難しいことを伝えるほうが、はるかに冴えているのではないだろうか。テーマの重い軽いは表現の難解さとはまた別の問題だ。友人の一言は私の中でドストエフスキーを相対化してくれた。
と、さんざん講釈を垂れたうえで、読んでくださっている方々どうもありがとうございます。私のブログも今回で8回目になります。8回目にもなるといろいろな形で反響があります。
中略
また、多くの方々にお読みいただいておりますが、やはり一番の読者は両親のようです。最近面白い発見がありました。父親というのはいずれは超えてくものだけど、母親というのは生涯超えられない存在だということです。父親というのは私の文章を褒めもすれば、けなしもしますし、嫉妬もします。ところが母親というのはこうです。
「まあ、落語家なんかも、ちょっとした文章は書けちゃうもんだしね。」(彼女は今落語とそこにまつわる人間模様にはまっています。)
一刀両断です。まるで波田陽区のように。まあ、この人の腹から出てきたと思えばそれも仕方ないかと妙に納得してしまいます。女性の持つこういった母性というか本能のようなものはすごいなと感じた次第です。もう少し早く気づいていたら(気づいていても認めたくないということもありますが)また別の人生もあったかもしれないとも思います。
まあそんなわけで今回何を言いたいかというと私は波田陽区が好きだということです。先日『しくじり先生』というTV番組に出演しているのを久しぶりに見ました。今度は芸能人なんかきってないで、権威とかつまらない常識とかそういうものをきりまくってほしいです。頑張れ!波田陽区。
波田陽区に切ってほしいものを3つ考えよう!
例:「たけちゃん、あなたのへその緒、波田陽区に切ってもらったのよ!」
例:「けい子、あの人への未練、波田陽区に切ってもらっちゃいなよ!」