どこ吹く風

自分には全く関係・関心がないというように、知らん顔をすること。「何処吹く風と聞き流す」

タテマエもしくは命名

至極アイロニカルに言えば、現代社会における西欧文明の優勢は彼らが「タテマエ」を創り出したことにあると私はみる。「タテマエ」とはすなわち「人権」「自由」「法の下の平等」等の概念を指す。これらの諸概念をクリアーにしたこと。つまり言語化、定義づけした事こそが現代社会における西欧文明隆盛の原因だ。孔子が「論語」で「己の欲せざるところ人に施すことなかれ」と述べているように「人権」という概念に類する《感覚》は2000年以上昔のアジアにも存在した。ただそれはあくまで《感覚》に過ぎず、言語化・定義づけされなかった。そこがアジアの西欧に対して遅れ(その表現が妥当かどうかはさておき)をとった原因だと私は考える。私の直感が何に基づくのか以下に述べる。

憲法の解釈」という言葉をよく耳にするが、これは日本に限ったことではない。諸外国でも「法の解釈」は頻繁に行われる。ある本によれば、法をつくる際に敢えて解釈の余地を残すのがスタンダードなのだとか。何故か?答えは簡単でその都度、都合のいいように法の解釈を変えられるようにとのこと。では誰にとって都合のいいようになのか?少し話は飛躍する。

盗賊には3つのタイプがある。

  法の網を破るもの

  法の網をくぐるもの

  自らの都合のいいように法を定めるもの

どれが最もたちが悪いか?火を見るよりも明らかだ。つまり何が言いたいかというと、法とは権力者にとって都合のいいように、権力者により定められるのだという事。その意味で言えば「法治国家」などまさに「タテマエ」に過ぎない。いかに「法」というハードウェアが優れていようと、それを定め・運用するのは「人」というソフトウェアだ。である以上、極論すれば「人」次第でどうにでもなる。まさに「法治国家」ならぬ「人治国家」だ。そして40年も生きていれば解ることだが、いわゆる権力者からみれば我々社会的弱者など吹けば飛ぶようなものだ。その意味では「法の下の平等」などチャンチャラおかしい。たがその吹けば飛ぶような存在である我々が最後にすがるのがやはり「法の下の平等」等々の「タテマエ」なのだ。もし「人権」という「タテマエ」すらなかったら我々は言葉通り吹き飛ばされてしまうだろう。何度も言うが、それを阻む最後の砦が「タテマエ」だ。そして当時の人たちが思考に思考を重ね、何万リットルという血が流れた結果、たどり着いたのがこの「タテマエ」なのだ。だからこそ「タテマエ」を馬鹿にしてはいけない。「タテマエ」を馬鹿にする人は人類の血と汗と努力を蔑ろ(ないがしろ)にしている。この「タテマエ」があったからこそ、人(人類)は前に進むことが出来たのではないだろうか?それが社会の発展につながったのではないだろうか?

 我々が当たり前のように持っている《感覚》をクリアーにする事、つまり言語化する事、定義づけする事がいかに重要か、文章を書きながら自分でもひしひしと感じた。まだここに無いもの、在るけどあやふやなものに名を与える事、つまり「命名」はとても難しい。そして大切だ。

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今日からお前は「千」だ!(笑)