どこ吹く風

自分には全く関係・関心がないというように、知らん顔をすること。「何処吹く風と聞き流す」

「発見」

 「あった!」丸二日間、行方不明だった財布を私はそこに「発見」した。そこと言うのは新しい職場の机の引き出しの中で、最近転職した私は、先日顔合わせと自己紹介が済んだ後、入れておいたのを忘れて帰ってしまったのだ。しょっぱなから大失態だ。これでは不注意な奴と言うレッテルを自ら貼ってしまったようなものだ。まあ、不注意なのは確かで、それは今に始まったことではないので仕方ないと言えば仕方ない。いや、仕方ないで済まされないのが社会人で、私事とはいえ、今後はこの失態を取り返せるよう鋭意努力しなければならない。つまり神経をとがらせねばならない。どうも私は昔からこの手のミスが多い。傘を置き忘れることはしょっちゅうだし、時には自分自身をどこかに置き忘れてしまう。思い出の中とか・・・。冗談は良いとして、いわゆるケアレスミスが多いのは確かだ。確認すること自体を忘れてしまう。こんな調子では先が思いやられる。40を越してダメな自分再「発見」だ。やれやれ・・・。    

 そもそも前職にフィットできなかったのも元はと言えばこの不注意さが原因の一つだ。そうなのだ。社会人である以上、求められたことに忠実に応えられればそれでよい。余計なことはできなくてもよいのだ。私がブログを初めてもうすぐ5年。前職で一緒だった方々の中には「ブログでたいそうなことなど書いている暇があったら、言われたことをミスなくこなせ!」という思いがあったのかもしれない。もっともブログをしていようがいまいが、ミスはしただろうし、「あくまでブログは一市民の自由な表現活動であり、仕事とは関係ない。」と言ってしまえばそれまでなのだが・・・。ただそれが面白くない人もいたのだろう。それもまた確かだ。とにかく新しい職場では「この人がいてよかった。」と思われるようにならなければならない。居場所を創るとはそういう事だ。その為にはまず、ひとつひとつ期待に応える必要がある。期待に応えることがやがて信用になる。信用を積み重ねることがやがて評価につながる。「この人がいてよかった。」という評価につながるまで頑張らねばならない。そこでこれまでとは違った自分を「発見」できるように。

 

PS上記の文章は第三回「徒然草エッセイ大賞」テーマ「発見」に応募したものです。

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目指せ大賞!賞金20万円也。

 

たましいの色

 図書館で借りてきた林真理子さんの直木賞受賞作「最終便に間に合えば」を読んでいたところ、ランダム再生していたスピーカーからoasisのwonder wallが流れてきた。瞬間、私の意識はもっていかれてしまった。楽曲をお聞きになられたことのある方は解ると思うが、この楽曲からイメージされるのは、たった一人で大きな存在に立ち向かっていく、そんな姿だ。林真理子さんの作品にケチをつけるつもりはない。その昔自分を粗略に扱った男性に対して社会的に成功した女性がどのような感情を抱くのか?二人がどのような再会をするのか?それはそれで面白い。この作品が書かれた当時の時代性を切り取っているのは確かだろう。ただノエル・ギャラガーがこの楽曲でテーマにしている事と比べるとあまりにも卑近だ。むしろwonder wallの方が高尚なのか?林さんには悪いが、ぶっちゃけどーでもいいのだ。男女のただれた感情などは。ただ誤解しないでもらいたい。私は林真理子さんの人間性まで否定するのではない。一社会人としてはノエル・ギャラガーなどよりもよっぽど立派な方だろうと思う。ただ、何というか、何というべきか、たましいの色、そう、たましいの色が違うのだ。oasisがシーンを席巻していた90年代当時、彼らは平然とアルコールやドラッグに溺れていた。このwonder wallがつくられた時もノエルはそんな状態だったのかもしれない。しかし聴けば解るようにその楽曲は高尚だ。彼らの魂は崇高な色をしている。その魂が崇高であるがゆえに、いや、崇高であるからこそアルコールやドラッグに溺れざるをえなかったのではないか。そう思うようになって久しい。本物の芸術家と言われる人達が一社会人として「ダメ」であったとして、それはある程度大目に見なければならないのではないだろうか?だからと言ってドラッグを肯定するつもりはないのだが・・・。芸術とドラッグの関係。この文章をお読みの皆さんはどのようにお考えですか?コメントいただければ幸いです。

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丁寧な生活

 丁寧に生活するようになった。無職になってそれまでと変わったのは、丁寧に生活するようになった事だ。朝起きて、散歩し、部屋を掃除し、食事をし、後片付けをし、歯を磨く。それら1つ1つの事をていねいに行う。物事を丁寧に行っていると自然と気持ちが落ち着いてくる。満足する。以前、一番忙しかった頃はCDコンポを買うのに、とにかく時間がなくて肝心の音質を確かめもせずに、ただ値段の高いものを選んでいた。結果そのコンポは無駄な機能ばかり付いていて肝心の音質は全然ダメだった。今は実際に店頭で音を聴き比べ、価格コムなども参考にして、自分にとって何が本当に必要なのかをじっくり見極めた上で買う事が出来る。その時間がある。部屋の掃除も同じで、時間をかけ残すべきものと捨てるべきものを選択できる。つまり生活の細部にまでこだわりが持てるのだ。なんだかNHKのベニシアさんの生活の様だ。生活の大半を仕事に奪われ、お金はあっても使う時間がない。その分、たまの休みを豪勢に過ごしたり、高価な買い物をしたりするという生き方を否定はできない。ただ私はどちらかと言うとこだわりを持つ人間で、こだわりを持つという事は、突き詰めて考えるという事で、その為には考える時間が不可欠だ。そういった意味で生活の量よりも質を優先する生き方と言うのも悪くない。以前「デスパレートな妻たち」というアメリカのドラマで、時間はあってもお金のない男子学生が不倫相手でお金持ちの既婚女性に一本のバラをプレゼントするという場面があった。ナレーターが「他のどれよりも綺麗なバラを見極める情熱があるのだから」とか何とか言っていた。初めてこのドラマを見た当時はよく解らなかったが、今なら解る。高価な宝石をプレゼントするのもよいが、何万本もあるバラの花の中からこれぞという一本のバラをプレゼントするのもそれはそれでいい。もっともこれは相手ありきの事なので何とも言えないが・・・。

 そんなことを考えながら、ふと、ああ年金生活も悪くないなと思った。早く年金生活できないかな。そしたらバラでも育てるのもいいかもしれない(笑)。ただ、金融庁の試算によれば65歳でのリタイヤ後2000万円は必要との事。こんな時人は宝くじを買いに走るのだろうか?と思った。さて落ちもついたところで今日はこの辺で終わりに。悪くない文章だと思う。何より丁寧に書けた(笑)。

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面白かったです!

 

それぞれの

 現在、河合 敦先生の『日本史は逆から学べ』を読んでいる。この本は日本史を現代から遡って理解していこうという手法で書かれており、『おかげさまで好評を博している。』とある。また、『昔の先生は、縄文時代弥生時代にやたらと時間を割き、最後は時間が足りなくなって明治時代で授業が終わるパターンが少なくなかった。』ともある。今日友人に「このコンセプトは実は俺が2005年当時に初めて言い出したものなんだ!」と言ったら「また、始まった。」と鼻で笑われてしまった。2005年4月~2006年3月まで私は当時勤務していた高校で「9.11から遡る世界史」という授業を行った。当時の関係者や生徒、また当時から私を知る友人たちはうなずいてくれると思う。そのコンセプトは『尻切れトンボで終わりがちな歴史の授業を現代から遡って行う事で、今につながる歴史を学ぶ』というものだった。退職後そのことを実績として転職サイトに掲載したところ、すこし後で三田紀房先生の漫画『ドラゴン桜』で『世界史は現代から遡れ』と、採り扱っていたのをよく覚えている。それが「歴史を遡って学ぶ」というコンセプトが初めて世に出たものだったと自分では理解している。    

 私のアイデアが何らかのルートで先生に伝わったのか?もしくは友人の言う通り全く関係なく、同時期に同じようなアイデアを両者が抱くに至ったのか定かではない。まあ、誰が言い出しっぺかはさておき、いい傾向だと思う。今現在を生きる我々現代人が縄文時代弥生時代の土器にばかり詳しくなって肝心の明治以降の近現代史がわからないのでは元も子もない。確かに近現代史はまだ時の洗礼を得ていない為、「定説」が定まっていないと言ってしまえばそれまでだが、だとしてもノータッチと言うのはどうかと思う。  

 そのかいあってか2022年からは近現代の日本史と世界史を融合した『歴史総合』と言う必修科目が新設されるらしい。高校勤務当時、私は「どう考えてもこれはおかしい」と思い、先に述べたような授業を行ったわけだが、あれから10数年、私の行ったことも無駄ではなかったと思うと少しホッとする。当時、歴史の授業を行う上でもう一つ問題意識を持ったことがある。歴史を学ぶ上で「経済・金融の勉強が必要不可欠」という事だ。戦前の日本史で言えば、日本がアメリカとの無謀な戦争を始めるに至った理由として「なぜ国民の多くが軍部を支持するようになったのか?」を考える必要がある。その際には、当時の国民の置かれた経済状況を理解することが不可欠である。その為には、「戦後恐慌」、「取り付け騒ぎ」、「金融恐慌」、「金解禁」、「世界恐慌」、「昭和恐慌」、等々の用語を正しく理解する必要がある。でないとうわべだけの理解になってしまうからだ。物事は詳しく理解した方が記憶に定着する。言葉だけ暗記して理解したつもりになるのは甚だ無益だ。経済・金融の知識・具体的には「株式会社の仕組み」や「バブルの仕組み」もっと言うと「資本主義社会の何たるか」は中学生から学ぶ必要があるのではないだろうか?でないと歴史の授業が深い理解に至らない。と思った次第だ。こういった事も徐々に文部科学省に届くといいと思う。「お前なんかが何言っても無駄だよ。」と言う方もおられると思うが、私はそんなことはないと思う。ネット環境が整ったおかげで現代では誰もが発信者になりうる。それぞれの現場、持ち場で「こうしたらもっと良くなるんじゃないか?」とか、「こっちの方がずっと効果的だぞ!」とか、そういった小さな工夫の総体が社会をよりましなものに変えていくのではないだろうか?皆さんはどうですか?工夫していますか?そしてそれを発信していますか?一緒によりbeteerな社会を目指しませんか?

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解りやすいです!

 

無頓着あるいはFree

 先日から、オリエンタルラジオ中田敦彦You tube大学を見ている。面白い!非常に面白い!毎日見ていて一向に飽きない。現在、文学編を全部見終わり日本史編を見始めたところだ。文学編の中島敦・「山月記」の授業を見ていて1つ思うところがあったので以下に記す。「山月記」については高校の国語の教科書に採りあげられることが多く、今更解説の必要はないと思うが、一応ウィキペディアよりあらすじを転記しておく。

 

唐の時代、隴西の李徴は若くして科挙試験に合格する秀才であったが、非常な自信家で、俗悪な大官の前で膝を屈する一介の官吏の身分に満足できず詩人として名声を得ようとした。しかし官職を退いたために経済的に困窮し挫折する。妻子を養う金のため再び東へ赴いた李徴は、地方の下級官吏の職に就くが、自尊心の高さゆえ屈辱的な思いをしたすえ、河南地方へ出張した際に発狂し、そのまま山へ消えて行方知れずとなる。

翌年、李徴の旧友で監察御史となっていた袁傪(えんさん)は、旅の途上で人食い虎に襲われかける。虎は袁傪を見るとはっとして茂みに隠れ、人の声で「あぶないところだった」と何度も呟く。その声が友の李徴のものと気づいた袁傪が茂みの方に声をかけると、虎はすすり泣くばかりだったが、やがて低い声で自分は李徴だと答える。そして人食い虎の姿の李徴は、茂みに身を隠したまま、そうなってしまった経緯を語り始め、今では虎としての意識の方が次第に長くなっているという。李徴は袁傪に自分の詩を記録してくれるよう依頼し、袁傪は求めに応じ、一行の者らに書きとらせる。自分が虎になったのは自身の臆病な自尊心尊大な羞恥心、またそれゆえに切磋琢磨をしなかった怠惰のせいであると李徴は慟哭し、袁傪も涙を流す。

夜が白み始めると、李徴は袁傪に別れを告げる。袁傪一行が離れた丘から振り返ると、草むらから一匹の虎が現れ、月に咆哮した後に姿を消す。(ウィキペディアより)

 

 高校生のとき初めてこの文章を読んだ私は正直何だかよく解らなかった。「何なんだ?この李徴と言う男は?詩を書くのが好きならとことん詩を書けばいいじゃないか?そりゃ、家庭を持ってしまった以上、妻子を養っていく責任はあるが、それが許す範囲で好きなだけ詩を書けばいいだろ?臆病な自尊心・尊大な羞恥心?なんだそりゃ?ちゃんちゃら可笑しい。それともこの男は名声が欲しくて、詩を書こうと思ったのか?だとしたら本末転倒も甚だしい!」と思ったのだ。それから20年。今では私もこの李徴の気持ちがわかる・・・かと言うとそーでもない。いまだに共感できない。ただ、私にはこの「山月記」に非常に思い入れのある一人の友人がいる。この友人は私より1年遅れて私学の高校教員になり、その後、初志貫徹して公立高校の教員になった。公立の教員に受かった際、はがきに「虎になる」と書いて送ってきた。とにかくそれくらい「山月記」が好きなのだ。この友人には一つ借りがある。大学4年の春、学校と目と鼻の先にあるそこそこ品のいい女子高で世界史の教員募集をしていて、それを教務課で見つけたこの友人が研究室で応募の手続きをしていた。それを見た私は「いいな、それおれも応募していい?」と軽い気持ちで聞いてみた。友人は「いいよ。」と快く返してきた。てっきりその友人も応募するものと思っていたら、その友人は自分の応募を取り下げて私に譲ってくれた。「なんだよ、応募しないの?」と聞くと「いいよ」との事。それなら、と軽い気持ちで応募したが、ろくに準備もしないで受けた採用試験は無論不合格だった。あとになってこの友人からなじられた。「めったにないチャンスだったのに」「だったらお前も受ければよかっただろ」と思ったがさすがに口にはできなかった。今にして思えばこの友人にも当時、李徴的葛藤(臆病な自尊心・尊大な羞恥心)があったのだろう。そこに行くと私は当時からそういったことに無頓着、言い方を変えればFreeだ。妙なプライドとか権威とか常識とか・・・そういったものから割に自由な方だ。プライドフリー、権威フリー、常識フリー、ひょっとすると、これが私の強みかもしれない。おまけに現在はストレスフリーだ。ある意味怖いものなしだ。将来に対する不安をのぞけばだが・・・(笑)。冗談はともかく、いろいろなことからFreeであるのは好ましいことのように私には思える。囚われてはいけないのだ。

 話しは戻るが、李徴にある種の《無頓着さ》があったらまた、彼の人生は別のものになっていたのではないだろうか?とも思う。私自身の話で言えばこのブログを始めるにあたって一応一緒に住んでいる両親に許可は取ったが、後は自分の書きたいことを書きたいように書いてきた。とにかく書きたいことは溢れてくるのだ。幸か不幸か、臆病な自尊心も尊大な羞恥心も私にはない。だからこのようなブログを綴っていられるのだと思う。いろんなことを飲み込んだうえで、最後に友人にこの言葉を贈って締めくくりたい。

「お前もなれよFreeに!」

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格調高い文章です!



エビスビール

 いきなり(仙台弁)ですがエビスビールって旨いですか?人の好みはそれぞれだけど私にはどうしてもこのビールが旨いようには思えないのです。350㎖一缶88円のイオントップバリュー銘柄のバーリアルの方がよっぽど旨い。普段発泡酒しか飲まない私がどうしてエビスビールなんか飲んでいるかと言うと、元職場のお中元の抽選会で当たったのです。表向きのポーズとは言え、やはりこういうところはいい会社だったと言わざるをえません。ポーズすら取らない会社もあるのですから。何はともあれ、エビスビールってホントにうまいのかって話です。皆さんはいかがですか?

 前職では職業柄、近場にあるラーメン屋ではどこが一番旨いか?がよく話題に上ったものですが、少なくない人が「翔鶴」と答えていました。(この文章は営利目的でなく単なる一市民の自由な表現活動ですので正直に書いてしまいます。)成る程、食べログ等でもすこぶる高い評価を得ています。そこで仕事に関係のない友人と実際に食べに行ってみました。さて実食してみると・・・はっきり言ってこれが、たいしたことないのです。スープは薄くてパンチがないし。麺もどうってことないし。どう考えてもこんな高評価とは思えないと友人と二人で結論付けました。果たしてここのラーメンが旨いと言っていた方々は本当に食べた事あるのでしょうか?それともラーメンの好みなんて十人十色、それを踏まえた上で食べログで高評価を得ているラーメンが最大公約数的にうまいのだ、という結論に落ち着いていたのでしょうか?それとも専門家として、ラーメン通の好むラーメンとでも言ったところだったのでしょうか?でもそれは何か違う気がします。ラーメンを食べるのは我々大衆ですし、その大衆が食べるラーメンに変なうんちく傾けるのもいかがなものかと・・・。Mr. Children桜井和寿さんも楽曲『名もなき詩』の中で歌っています。「妙なプライドは捨ててしまえばいい」と。(文脈はだいぶ異なりますが・・・。)

 有休消化の身となり、久しぶりに平日の昼に暇のできた私は、私が群馬県で一番旨いと思うラーメン屋さん(無論、群馬県全てのラーメン屋を食べ歩いたわけではありません。特に太田・舘林方面は未開拓です。)である「いまるや」をほぼ3年ぶりに訪れました。前回来た時、研修中?だったらしい若い2代目(店主のご子息?)がつくってくださいました。店主がつくるのと違うところはスープの表面に油が少し多めな点(ほんとに少しですが)とゆずの切れ端を麺の上に乗せて見栄えをよくした点です。店主はこのゆずの切れ端を麺の底に忍ばせてスープを飲み干すときに残り香のように用いていました。油を少し多めにしたのは、替え玉をした際に理由がわかりました。替え玉をする際、スープの表面にほんのりと油が残っていた方がスープが覚めにくくなり、替え玉をする際具合がいいのです。券売機にも替え玉(小玉60円)が加わり、2代目の工夫がうかがえました。満足して店を出ようとすると店主が出てきて笑顔で「有り難うございました。」と挨拶してくれました。久しぶりに訪れた私の事を解ってくれたのだと思います。ちょくちょく通っていた頃は必要以上の愛想はお互いに求めない関係だったのですが。何だか少し照れ臭いような、有難いような気持ちになりました。さてつらつらと綴ってきた文章ですが、何が言いたいかと言うと「旨いものは旨い、そうでないものはそうでない」とはっきり言える自分でありたい、例え、どんなに権威のある人が言おうと、どんなに大勢の人が言おうと、と思った次第です。そうです、「妙なプライドは捨ててしまえばいい」のです。そして「いまるや」さん、どうも有難うございました。

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頂いといてなんですが、エビスビールってホントに旨いですか?

 

目に入れてもいたくない存在

 《目に入れてもいたくないほど可愛い》という表現がある。可愛いから目に入れてもいたくないという意味だが、この意味を《目に入れてもいたくないほど小さいから可愛い》と解釈するようになって久しい。どういうことか?自分にとって目に入れてもいたくないほど小さな存在(自分の意志でどうにでもなる存在)だから可愛い、という事だ。これは「可愛い」という言葉の語源にさかのぼる話だが、自分より圧倒的に弱い立場にある存在を指して、それを「可愛い」と表現しているのだ。実は私はあまりこの言葉が好きではない。理由を解りりやすい例で示す。ジブリの作品で「借りぐらしのアリエッティー」という作品がある。この作品で主人公の少年が小さいアリエッティーを自分の掌の上に乗せようとするシーンがあるのだが、それを見た宮崎駿氏が厳しくダメ出しをした。宮崎氏曰く「そんなことをしたら単なる愛玩動物になってしまう!」との事。この制作裏話を聴いた私は「さすが宮崎駿」と思ったのをよく覚えている。私がいわゆるペットという存在を好まないのもその辺と関係している。できる限り他者と対等でありたいと思うのだ。その意味で「可愛い」という表現を私はあまり好きでない。また、親子関係、師弟関係などでも、これについて面白いことが言える。親にしろ師にしろ、子が弟子が自分にとってとるに足らない存在でいる限りにおいては非常に可愛がる。しかし、その子が弟子が大きくなって、自分を超えていくときどうするのか?そういう時人としての真価が問われる。生涯現役という方もいるだろうが、やはり親方になったら弟子と同じ土俵で相撲を取るべきではないのだ。器と言ってしまえばそれまでだが・・・。

 さて、ここまで読んでいただければ解るかもしれないが、私はディズニーランドというものが好きになれない。と言うか馴染めない。いい大人がディズニーランドで馬鹿になれないなんて、それこそ大人げないとおっしゃる方もいるかもしれないが、それが私なりの他者に対するスタンスなのだと思う。良くも悪くも。

 この文章をお読みいただいている皆さんはペット好きですか?ティズニーランド馴染めますか?「自分ダメだ。あーいうの馴染めない」という方、私と気が合うかもしれません。良くも悪くも(笑)。

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kawaii」の是非は平安時代までさかのぼる事かもしれません。