どこ吹く風

自分には全く関係・関心がないというように、知らん顔をすること。「何処吹く風と聞き流す」

王様のレストラン

 今日、仕事の帰り道の車中でランダム再生をしていたyoutubeMusicから平井堅さんの楽曲『プレシャス ジャンク』が流れて来た。久しぶりに耳にしたその楽曲に、私はドラマ『王様のレストラン』を思い出していた。(この楽曲はドラマのエンディング曲だった)

 

 とあるフレンチレストラン「ベルエキップ」で何となく働いていた若者たちの前に、揺るがぬ情熱と厳しいプロとしての生きざまを持つ一人の男、千石武が現れる。千石は今でこそ給食センターで働いているものの、頑固で厳格、プライドも高く、一時はその名を響かせたこともある優秀なギャルソンだった。千石に触発された若者たちの奮闘する様子が、シニカルで痛快な人情味いっぱいの人間ドラマとして展開されるのだが・・・。

 

 ドラマ『王様のレストラン』の最終話で千石は言う。「要するにここは一流を気取っているだけの一流とは程遠い、最低の店です。最低の・・・。いや、がしかし、最低ではあるが・・・素晴らしい!!!」

 

 私はこの度ある塾に勤めることとなったわけだが、どうせ働くなら一流の塾で、もっとも何をもって一流とするのか?規模か?それとも知る人ぞ知る隠れ家的な塾か?それはにわかには解らない。でも、少なくとも松本幸四郎さん演じる千石に「素晴らしい!!!」と言ってもらえるような塾で働きたい。それはこのドラマ『王様のレストラン』から鑑みるに、仲間を愛し、お客様を愛し、そして自分を愛す、つまり自分の仕事に誇りを持つという事に他ならないのだろう。

 

 その日私は塾の教務室を1人で掃除した。もしかするとそんな思いを込めて私は自分の職場を掃除してきたのかもしれない。「誰からも何にも言われなかったら少し寂しいな。」と思っていたところある同僚の先生から「有難うございました。」とお礼を言ってもらえた。「見ていてくれる人は見ていてくれるもんだ。」と、嬉しかった。

 

 さて、一流の?塾を目指す私の、我々の冒険は始まったばかりだ。もし、この文章をお読みになった方々の中に北関東在住の十代で、塾選びに困っている方が、もしおられたなら、是非、我々の塾の資料請求してみてはいかがでしょう?この塾を選んでよかった!と言っていただけるよう、精いっぱい頑張る所存です!

(5) 王様のレストラン 最終話 ラストシーン - YouTube

平井 堅 『Precious Junk』MUSIC VIDEO (youtube.com)

三谷幸喜さん面白い!!!

 

毒を吐く

 今日、中田敦彦さんの動画でコールドプレイの『Viva La Vida』について話しておられたので聞いてみた。聞いてみて、私は富野由悠季さんの『ガンダム』を思い出した。小説版を読んだことのある方ならご存じと思うが、1年戦争のあとアムロ・レイは連邦組織によって軟禁状態に置かれる。連邦の意図はよくわかる。あんな化け物?がいたら始末に困る。かといって1年戦争の英雄を殺すわけにもいかない。軟禁され、その監視下に置かれる。そして表現は女性に対して失礼極まりないが、小説に従うなら、定期的に女をあてがわれながら・・・。よくわかる話だ。

 

 私は同時に先日見たゴジラー1.0も思い出した。作中のセリフに「誰かが貧乏くじを引かねば!」「皆のために誰かがゴジラに立ち向かわねば!」という下りがある。私はそのセリフを白々しい気持ちで聞いていた。「皆のためにか。やれやれ。」続編がつくられそうな感じで終わっていたので、ゴジラを打倒した彼らがその後どう描かれるのか?興味深いところではある。国を救った英雄か?はたまた、危険人物か?

 

 そんなわけで、岡田斗司夫さんが絶賛されていたこの作品を私は正直楽しめなかった。(楽しんで見られた方々には申し訳ないのだが・・・。)庵野秀明さんのシン・ゴジラ山崎貴さんのゴジラー1.0ともに面白いと言えば面白かったのであろうが、(エンタメの王道だと言えばその通り!)何だか薄っぺらいな。と思ったのも事実だ。だからと言って「じゃあ、自分で作ってみろ!」と言われたら一言もないのだが・・・。

 

 田中芳樹先生の作品に「西風の戦記」がある。この作品では、王族同士権力争いの中、叔父に父と兄を殺され、復讐の意思を疑われるのを恐れて、その幼少から徹底的に暗愚を装い、自己をひた隠しに隠して成長した暗い主人公が描かれている。その主人公は長じて父と兄の復讐を果たさんと決起するのだが・・・。この主人公のセリフで印象に残っているものがある。「俺は自己の復讐を果たさんがために民衆を巻き込んだ厄介者にすぎんよ。」細部は確かではないが、文意はこのようなものだったと思う。

 

 さて、何が言いたいかと言うと、これと言って言いたいことがあるわけではないのだが・・・。敢えて言うなら「人間社会はそんなに甘くはない。」と言ったところか。も一つ付け加えるなら「大衆は最強だ!」と。なんせ大衆は考えないから。

 

 こんなことを書いていると「こいつはテロリストの予備軍だ!」などと論理の飛躍した詮索をする輩もいるので断っておくが、私はテロリスト予備軍などでは決してない。ただの大衆の一人だ。しかも頭の悪い・・・。

 久しぶりに公の場?で毒を吐きました。だいぶシニカルな気分になっていたようです。もっともこの国には表現の自由なるものがあるそうなので(ほんとか嘘か知らないけど・・・。)悪しからず。

 

所詮俺は自己の復讐のために民衆を巻き込んだ厄介者のに過ぎんよ。

 

ものがたりの力

 今日、堀江貴文さんの東京大学での講演の動画を見た。堀江さんが仰っていたのだけれど、起業するにしてもなんにしても、若いころのほうが有利だと。何故なら年を取るとその情熱はあっても体力が続かないからだと。体力ばっかりは若いころのほうが間違いなくあると。そして、気力は体力がないと保てないと・・・。おっしゃる通りだ。私もつい先日、岩本ナオ先生のマンガ『金の国 水の国』と『マロニエ王国の七人の騎士①~⑧』を借りて来た。一気に読んでしまおうと思っていたのだが、『金の国 水の国』を読んだ時点で疲れてしまった。これが若いころだったら一息に読めたのだけれど、さすがに、コミックを9巻一気に読むのには情熱はあっても気力・集中力が続かない。昔だったら一気に読破していたのに・・・。

 

 この論を突き詰めれば、インプットをするのは人生の前半でアウトプットするのが人生の後半だと言えなくもない。私自身、もう新しい何かをインプットするのはむつかしい。なかなか昔のようにはいかない。これはもしかすると表現者とかクリエイターとか言われる人たちにとっても共通の悩みなのかもしれない。少し品のない表現だが、食べたものを自分なりに咀嚼して、内部で発酵させて吐き出す。自分はもう、おなか一杯食べただろうか?時期的には発酵させ吐き出す段階にきているのだが・・・。

 

 それらのことを考慮に入れてみると、やはりピカソは偉大だ。彼の残した作品は1万6千点ほど。対して普通の画家が生涯に残す作品数はせいぜい数百点だ。同業者の画風を剽窃しておいて、いつの間にかそれがピカソの作風であるかのように我々が錯覚している作品。それらを含めたとしても、彼が如何に創作に対して貪欲だったかがわかる。ありとあらゆる作風を自分のものとして取り込んでしまおうという意欲が感じられる。しかもそれが生涯を通してだ。ちょっと舌を巻かざるを得ない。ただ私人としての彼は、私の知る限りではちょっと友達にはなりたくない、そんな存在だ。天才とは押しなべてそういうものかもしれない。

 

 話は戻るが、堀江さんのお話を聞いていると、起業して失敗しても、やり直せる社会的な枠組みは、彼が起業したころに比べて格段に整ってきているそうだ。その割にはやはり起業する人は少ない・・・。若さと、つまり気力と体力とが充実していて、あと足りないのは情熱なのでは?と私などは思う。では、情熱ってどっから来るのか?そう考えた時、答えは、やはり“感動”なのではないか?感動は物事を進める原動力だ。では、感動ってどこに転がってんの?と言う話になるのだが、それはやはり“ものがたり”なのではないか?と私は思う。今、必要なのは“ものがたり”の力なのかもしれないな。と思った。そんなわけで私は今日も“ものがたり”を求めて近所のTSUTAYAへと足を向ける。私にもいつか読んだ人に“感動”を与える“ものがたり”が書けたらいいなと思うのだが、どうも私の文章は“感動”と言うより“扇動”に近いらしい。やれやれ(笑)

 

 『金の国 水の国』とても面白かったです。主人公の女性はとても心の清らかな人でした。岩本先生のお人柄でしょうか?有難うございました。

【世界史を面白くする会】

 以前、私が世界史の教師をしていたと言うと、大概の人は「え~そうなんですか?世界史・・・。」と返答する。そこにはあまり肯定的なニュアンスはない。「世界史」の後の微妙な間がそれを物語っている。

 

 実際に聞いてみると、ほとんど全ての人から「世界史はつまらなかった。」という答えが返ってくる。まあ、それはそうだ。時系列に沿った年号、出来事、人名の暗記。それも力ずくの暗記。これでは私だってやる気が出ない。

 

 結果、社会人になってから学びなおす人が多いのもうなずける。「高校までは暗記でいいのだ。」と言う人もいるが、それでは手遅れ、もしくは二度手間ではないか?そう思うのは私だけだろうか?

 

 さて、この度、縁あって私は再び世界史を教える立場となった。せっかくだから今度は世界史の面白さを伝えたい。そんなわけで私はここに【世界史を面白くする会】を立ち上げる。

 

 会員は今のところ私一人だが、それだけに小回りが利く。まず、初めに改善したいのは「時系列に沿った」という点だ。ただ単にだらだらと前回の続きをするのではメリハリがない。一回一回のテーマを設けて、そのテーマに沿った授業をしてはどうか?例えば、古代ギリシアだったら、「理想の民主主義とは?」とか、古代ローマだったら「権力は集中すべきか?分散すべきか?」などがパッと浮かぶ。まず授業の冒頭にテーマを提示して生徒に考える機会を与える。そのうえで、そのテーマに肉薄する授業を展開する。

 

 そして、全体で一つの大テーマ「歴史を学ぶ意義とは?」を最初の授業の冒頭に掲げる。年度の終わりには、各自に400字以内でまとめてもらう。そんなことを漠然と考えている。

 

 もちろん

「でもそれでは、受験に対応できないのでは?」

という声もおありだろう。そのような不安に対しては次の言葉を持って答えに代えたい。

「人は面白ければ覚える!」

 私の知人が言っていたのだが「自分はポケモン150種すべて覚えていた。」と。それは意図的に覚えたのではなく、気づいたら覚えていたと。それは取りも直さずポケモンが好きだったからだと。ポケモンが面白かったからだと。そうなのだ。面白ければ人は自ずと覚えるものなのだ。無論ポケモン150種と世界史の暗記すべき総量では比べ物にならない。ただ、興味を持たなければ何も始まらない!まずは世界史面白い!という感動こそが必要なのではないか?そこに感動があれば後は自ずとついてくる。それが私の基本コンセプトだ。

 

 そのようなわけで、繰り返しになるが【世界史を面白くする会】をここに立ち上げる。興味がおありの方は是非、コメントください。お待ちしております。

 あと、ついでにヨーロッパ編の授業のコンセプトを以下に張り付けておきます。もしよろしければ参考にしてください。

 

⓪歴史を学ぶ意義とは?

 

★古代中世ヨーロッパ×5・・・現時点における世界史の主役

①神話と宗教 一神教多神教とは?

②理想の民主主義とは?

③権力は集中すべきか?分散すべきか?

④世俗と宗教どっちがえらい?

憲法とは?

 

大航海時代×6・・・・・・・・一体化する世界

①誰がための世界史?

②3つの革命と広域的分業とは?

ルネサンスとは?

④宗教のupdateとは?

カトリックVSプロテスタントとは?

覇権国家とは?~イギリス最強時代の幕開け~

ドドーン!

 

褒められて・・・

 だいぶ遅くなりましたが新年あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

 

 さて、先ほど堀江貴文さんの動画を見ていてい思うところがあったので感想を述べたい。今回の番組の議題は教育関係で、堀江さんの意見を要約すると「せっかく東大出て頭いいのだから世間のつくった枠組みの中でまた一番を狙うのではなくて、自分でその枠組みを作り出す側になればよいのに?」という事だった。

 

 それに対する、共演者で一浪して東大の経済学部に入った女子学生の意見はこうだ。

「だって、ほめられるんですもん。親に!枠組みで一番取ったら。周りにも!」

 

 これは聞き捨てならないな。と思った次第だ。そりゃ誰だって褒められるのはうれしい。親に褒められるのだって嬉しいだろう。でもそれっていくつまでの話かってことだ。私自身は現在47歳だ。正直もう親に褒められてうれしい年ではない。そりゃそうだ。何故そりゃそうかって、正直、親より私のほうが断然勉強しているからだ。両親は何にも考えずにNHKを朝から垂れ流しているだけだし、そりゃ本は読んでいるようだが、それだって自分の趣味に走ったものや、自分が若いころに買っておいたものを読むくらいだ。時代が昭和で止まっている。学ぼうという姿勢がかけらもない。それでいて私が堀江さんの動画や、中田敦彦さんのYouTube大学や、岡田斗司夫さんの動画を居間で見ようとすると母などはあの人はキンキンした声でうるさいなどと文句を言う。(中田さんごめんなさい)要は自分のわからないもの、ついていけないものに対する嫌悪以上の何物でもない。父のほうはそんなことはないが、それでもインターネットを用いて最新の情報を得ようという努力は感じられない。

 

 だからと言って両親を責めるわけではもちろんない。70代80代の両親に学べというのも酷な話だ。むしろ私のほうこそ、父と母を褒めるべきなのだ。と思う節がこの頃では多々ある。父はこれと言って才走ったところのない人間だが、私と兄を毎週日曜の早朝スポ少のサッカーに連れて行ってくれた。仕事上の人間関係がもとで円形脱毛症ができた時も家族のために変わらず働き続けた。才能はともかく、この人の責任感は立派だったなと、今にして頭が下がる。母は母で、育児と家事、父の両親の世話と懸命に働いてくれた。私のほうが二人を褒めねば、ねぎらわねばと思うのだ。

 

 そういったこちらの考えや想いを父のほうは理解しているようだ。だが母のほうは・・・。と言うのも父は自分より手足の伸びた息子が自分の理解の範疇を超えるようなことがあっても、それを自分にはもうわからない事があるのだ。というスタンスで受け入れる。それは令和のレジームが昭和のそれとは異なるという事を理性によって悟っているからだ。でも母のほうは・・・。自分の価値観とそぐわないことがあったりすると、そのしわ寄せが、あろうことか晩御飯のおかずに現れる。おいおい勘弁してくれよ。と私は言いたい。彼女は自分と一緒の価値観を息子がいつまでも持っているはずだと勘違いしているのだ。それこそ勘弁してくれよだ。

 

 何でもかんでもアメリカの例を持ってくるのはどうかと思うが、アメリカでは赤子が嫌々をしたとき両親は喜ぶそうだ。曰く「はじめて自分の意思を示した!」と。母に聞かせてやりたい。でもまあ、女性ってこういうものかなあ、仕方ないのかもな・・・。とも感じる今日この頃でもある。無論、そうでない女性もいらっしゃるのは重々承知なのですが…。

 

 さて、新年早々人口の約半分を敵に回すような結論になってしまいましたが、今回はこの辺で。日本の女性が変わったから、その社会進出が促進されるのか?それとも女性の社会進出が促進されたから日本の女性も変わるのか?卵が先か鶏が先か?という議論になってしまいますが、皆さんはどう思いますか?良くも悪くも根本は変わらない気もするなあ~と言うのが私の私見です。ただし晩御飯のおかずだけは減らさないでください。私が言いたのはただそれだけです(笑)

いいなぁ~

 

背伸び

 私事で恐縮だが、高校サッカーのテレビ中継を見ていると自分がサッカーをやっていた頃の事を思い出す。当時成人用のサッカーシューズは大方23.5㎝からで、まだ足の小さかった私は大人用のシューズを履きたくて、わざと自分の足より若干大きめの23.5㎝のシューズを選んでいた。無論、サッカーシューズは本来少しきつい位のほうが足にフィットしてよい。つま先に空洞ができてしまうようなシューズを履いていたのは、今にして思えば「馬鹿だったなぁ~。」という事になる。また「あの頃は背伸びしたかったんだなぁ~」と自分の事ながら微笑ましくもある。

 

 そういえば、高校生の時も、どちらかと言うと数学が苦手だった私は「背伸び」して『赤チャート』を使っていた。苦手だからこそ基礎基本に戻る必要があるのに、全くあべこべな事をしていた。あの頃の私は、シリーズの中で1番難易度の高い『赤チャート』を使えば数学が得意にでもなるかのように≪錯覚≫していたのだ。今振り返ってみるとなんと効率の悪い学習をしていた事か!今なら客観的に自分を分析して最適解を、つまりどういう学習法が最適かを導き出せる。でもあの頃、私は自分の数学に対する苦手意識を客観視できなかった。その苦手意識こそが私をして『赤チャート』を使わしめていたのだ。自己を客観視するためにはある程度の経験が必要で、それが当時の私には足りなかったのだと思う。結果、問題を解けない。だから解答を見る。でも理解できない。とにかく解答をノートに書き写す。そして解ったつもりになる。でも解っていないからストレスがたまる。ストレスが積もれば嫌いになる。嫌いになれば余計に解けない。この繰り返しだった。今ならもう少し上手に数学と向き合えるのではないか?そんな風に思う時がある。

 

 何を言いたいかと言うと「背伸び」は良くないという事だ。でもって、我々の日常生活で1番身近な「背伸び」とは「知ってるつもり」を演じてしまう事だ。「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」ではないが、解からないことは解らないと正直に言ってしまうのが結構近道だったりする。解らない事を解らないと、知らない事を知らないと、出来ない事を出来ないと、認めるのには若干の勇気が必要だが、その勇気さえあれば首尾、生きやすくなるのは確かだと思う。その意味でもソクラテスが言った「無知の知」(自分は何も知らないという事を知っている。)は我々に重要な示唆を与えてくれるのだ!

 

 結論としては「来年も背伸びせず、等身大の俺で行こう!」と言ったところか?

 

 では皆さん、今年もお付き合いいただき、有難うございました。

 来年もどうぞよろしくお願いします。良いお年を!

数学はロマンだ!

 

 突然だがうちの父はよく酒を飲む。私が350㎖のビールなり発泡酒なりを一日一缶飲む程度なのに対して、彼は日本酒をアルコールの量からいって倍は飲む。それでいて肝臓のほうはいたって健康なのだからうらやましい。

 

 たまに私が日本酒を自費で買って飲んでいると、その父が言う。

 

「なんで俺よりいい酒を飲んでいるんだ?そんな高い酒を飲むのは贅沢だ。分不相応だ!」

 

と。先日も私が「天狗舞」の一升瓶を買って帰ると、ここぞとばかりに文句を言う。確かに「天狗舞」は高い酒だ。私だって買おうかどうしようか20分は迷った。父の意見もそれなりにわかる気はする。若輩者の私が飲むには「いい酒」であることは確かだ。でも、でもやっぱりそれは少し違うと私は思う。何故なら父にとっての酒が必需品であるのに対し、私にとっての酒は嗜好品だからだ。父は酔うために飲んでいる。それに対し、私にとっての酒は違いを楽しむためのものなのだ。したがって大量には飲まない。一日に飲む量はほんのお猪口に一杯か二杯程度だ。私が一升瓶を一本消費する間に、父は私より安価な日本酒を一升瓶2~3本は消費している。トータルで見れば、私のほうがお財布の面でも健康の面でも彼より上手に酒と付き合っていると言える。

 

 そんな訳で、今日、近くのスーパーへ行ってみると「大吟醸 越後五十嵐川 750㎖」が値引き後1500円で売っていたので、思わず購入してしまった。値引きのシールが二重に張られていた事から視るに、2度値引きされたらしい。定価がいくらかは知らないが、2度値引きされたものが750㎖で1500円だというのだから、もしかすると今までの人生で一番高い酒かもしれない。

 

 そして、その「人生で一番高い酒」を飲みながら、今キーボードを叩いている。あ~確かに美味い!買ってよかった(喜)

 

 さて、今年も残すところあと1日となりました。皆さんにとって2023年はどのような年でしたか?私のほうは明日(もう今日か!)もう1つ文章をアップできればと考えております。またその文章でお会いできれば幸いです。もう一回お伝えするかもしれませんが、とりあえずよいお年を!

いや~美味い!!1