どこ吹く風

自分には全く関係・関心がないというように、知らん顔をすること。「何処吹く風と聞き流す」

愛情表現

 愛情表現が下手だ。昔からここぞという場面で、ここぞと言う相手に限って素っ気ない態度をとってしまう。そのせいで取り返しのつかない失敗をしたことが多々ある。どうもこれは父に似たらしい。うちの父もストレートに愛情を表現するのが苦手だ。逆に母の方はこれでもかと言うくらいのストレートな愛情表現をする。これは多分に自意識が関係しているのだと思う。自意識が邪魔してストレートな愛情表現が出来ないのだ。父に似て私にも若干自意識が過多なところがある。困った話だ。それでも昔に比べればましになって来た。もっともこれは年の功と言うべきか?いつの日か包み込むような愛情表現が出来ればよいと思う。年齢を重ねるのは悪い事ばかりではない。

 

 それとは別に学童の子供たちを見ていると面白い。気になる子に意地悪?をする事で相手の気を引こうとしている児童がいる。ストレートな愛情表現をする事で自身の気持ちを悟られるのが怖くて、それでも相手の気を引きたくて、逆に意地悪をしてしまうのだ。これはこれで可愛いものだと見ていたが、そうとばかりも言っていられない。今のうちはそれでいいが、20代30代になってもそういう屈折した愛情表現しかできないのではちょっと困る。相手の気を引く行為、つまり自分に興味を持って欲しいというのは解る。それがストレートな好意ならばよいが、相手の憎しみを買う事で自分に興味を持ってもらおうというのはナンセンス極まりない。専門的な用語を用いるなら恋愛とは共依存の関係を構築する事だ。ちょっと憎まれ口をたたくのなら話は解るが、本気で相手の憎しみを買ってまで共依存の関係を築こうとするのはある意味悲劇だ。相手にも迷惑がかかる。でも“いい大人”になってもストレートな愛情表現が出来ない、それどころか憎しみに基づいた関係しか築けない人がいるのも確かだ。ちょっと不器用すぎると言うべきか?

 

 それが育ってきた環境によるものなのか、遺伝的なものなのかは解らない。ただ、面白いと思うのは愛する事と憎む事はまさに表裏一体だという点だ。その意味で目立つ人と言うのは大変だ。愛されるプレッシャーと憎まれるプレッシャーを一身に浴びねばならない。芸能人と呼ばれる人たちは人気があればあるほど、ひとたび不倫でもすれば徹底的に叩かれる。人は「愛すればこそ憎むし、憎めばこそ愛するのだ。」他人事とはいえ大変だ。

 

 また、これを言っては女性陣から叩かれそうだが、やはりアイドルとか俳優とか目立つ存在に憧れを抱くのは女性の方が圧倒的に多い。先日ある女子児童が一生懸命に塗り絵をしている。見て見るとキラキラピカピカしたアクセサリーをこれでもかという程に付けた女の子のキャラクターが描かれている。私が「やっぱり女の子はキラキラピカピカしたものが好きなんだね。キラキラしてれば遠くからでも目立つもんね!」と言うと「何言ってんの?当り前じゃん。」と言った顔でうなづいた。「私なんかは別だよ。ほら今着ている、こういうのを迷彩柄って言うんだけど、遠くからだと景色に紛れて見えなくなっちゃうの。みんなと逆だね(笑)。」と言って先日購入した軍物のUSEDジャケットを見せた。その児童は解った様な、解らない様な顔でうなづいた。

 

 さて、話はそれたがこの文章をお読みの皆さんはどうだろうか?好きな人に好きと伝えられるだろうか?それとも自分でもいやだって思いつつも憎まれ口をたたいてしまう?大丈夫。今はストレートに好意を伝えられなくても、きっといつか出来るようになるはず。それが年齢を重ねるという事だから。そして好きな人に好きと言えるのも生きているうちだけなのだから。

デジタル迷彩



 

 

 

本物のプライド

 今も昔もそうだが、「先生」などと呼ばれていると、いつの間にか居丈高になってしまう。でもそれは職務上致し方ないと言うか、その方が都合がいいと言うか、そうでなくては業務上差し支えると言うか、そう言うものである。何故なら、子供たちを上からしかりつけなければならない場面が往々にして我々の職場にはあるからだ。子供達は千差万別だ。優しくて従順な子もいれば、ひどくわがままで、こう言っては何だが傲慢な子もいる。それらを十羽一絡げにまとめていくためには、こちらが相手以上に傲慢で居丈高にならなければならない。だから、「先生」と呼ばれる人たちが一般の方々から見て傲慢に映るのは致し方ない事なのかもしれない。ただその居丈高になっている先生方にも弱点はある。それは自分以上の「先生」が現れた時だ。居丈高でプライドが高くて当然。と言うよりプライドを高く保たねば立ち行かない職種である「先生」。その先生が自分より年下でしかも自分以上の「学歴」や「キャリア」を持った「先生」に出会う時、しかもその「先生」が後から入って来た時など、前からいた「先生」はとてもやりづらい。「先生」特に学校や教育機関に勤める「先生」の悲しい所は、己が職業上いやでも「学歴」から自由になれない点だ。すなわち、自分以上の「学歴」の新人が入ってきた時、それはとりもなおさずアイデンティティーの危機なのだ。そこでどう我が身を処せるか?これは傍からすればその「先生」の人物・器を知るうえで絶好のチャンスでもある。

 

 私事で恐縮だが私も女子高時代自分より若くてやたらと運動神経の良い若い教師が赴任してきたとき、やっぱり動揺した。アイデンティティーの危機?だったのかもしれないでもまあ、しばらくすると「仕方ないな。俺は俺だし、まあこんなもんだろ。」と割り切った。その辺が私の覇気のない所なのか、それとも器のでかい所なのか自分では解らない。でもまあそんなもんだった。その後の展開は知る人ぞ知るところである。

 ただ、これって難しい人には難しい事なんだろうとは思う。自己のアイデンティティーを揺るがすような相手が現れた時、どう振舞うか?それって「先生」にとっての永遠の課題なのかもしれない。

 私などが思うのは「結局、自分との勝負なんだよな。」と言う事だ。「先生」にはそれまで築き上げてきた実績・地位・プライドがある。それらを手放す事が出来るか?そこが勝負だと思う。実績とか地位とかプライドとか、そう言ったものに縛られて手放す事が出来ずにいると、どうしても新しい「先生」と自身を比べてしまう。比べるからには上に立たねばならない。そうでなくてはプライドが保てないからだ。下手なプライドなんか手放して身軽になっちまえよ!そうすれば・・・。と思うのだが、それが出来ない人もたくさんいる。それはそうだ。先に述べたようにプライドがこの職業を支えている一面が確かにあるからだ。そしてそういう下手なプライドに縛られた人が集まるとどうするか?新人イビリである。自分以上の学歴・キャリアを持つ先生を「排除」にかかるのだ。情けない話ではある。でも「先生」と呼ばれる世界では往々にしてある話だから怖い。クワバラクワバラ(笑)。

 

 「下手なプライド」ほど無駄なものは無いと思う。一方で学校や教育機関に携わる「先生」にとっては「プライド」は職務上必要不可欠なものであるのも確かだ。この二律背反な命題をどう整合させるか?非常に興味深いテーマではある。それとも「下手」でない「上手なプライド」もしくは「本物のプライド」なるものがどこかに存在するのだろうか?いやきっとある。そんな気がする。

 

 さて、私はと言えば、自分で言うのもなんだがこの職業を続けるからには「本物のプライド」を手に入れたい。そう切に願うのだ。

宣せい、我々選手一同は・・・(違いますね笑)

 

ならぬものは・・・

 昔1人で会津の白虎隊記念館へ行った事があった。そこで旧会津藩には「ならぬものはならぬ」という教えがある事を学んだ。その当時は「なるほど、ならぬものはならぬ」カッコいい。と思って帰ったのだが、現在では少し見解が異なる。

 

 今風に言うとダメなものはダメ!子供をしつけるには使い勝手のいい言葉だ。ダメなものはダメ!でもあまり多用しすぎるのはよくない。何故なら、それ以上考えることを放棄させてしまう恐れがあるからだ。戦争はダメ、人を殺してはダメ。それはその通りなのだ。でも何故戦争はダメなのか?人を殺してはダメなのか?そこをしっかり考えないといけないのではないか?

 

 戦場である兵士が上官の命令で一人の民間人を射殺した。兵士は自分に問う。俺は上官の命令とはいえ民間人を殺した。あの民間人を憎んでいたわけではない。殺すだけの理由があったわけでもない。俺と同い年くらいだった。あの男にも家族がいたのだろうか?恋人がいたのだろうか?あの男はoasisのTシャツを着ていた。Oasisが好きだったのだろう。こんなところで出会わなかったら、状況が違ったらoasisの話で盛り上がれたかもしれない。「あの兄弟は口汚く罵り合っているけどどっかでしっかり繋がってんだよ。それでいいのさ。」なんて。打たれた瞬間あいつは驚いた顔していた。「なんで俺が撃たれるの?」って。でも仕方がない。上官の命令だったんだ。従わなければ俺が命令違反で銃殺刑だ。いちいち何でおれがこいつを殺さなきゃいけないんだ?とか考えたり悲しんだりしている暇はない。悪く思うなよ。そうだ。これ以上考えるな。俺は機械みたいになっちまおう。撃てと言われたら撃つ。そこに感情の入る余地はない。そうすれば楽だ。もう考えるのも、感じるのもたくさんだ。俺は機械だ。機械みたいになっちまえ!

 

 戦争の何がいけないかって、(私も実際に戦争を体験した世代ではないから想像するしかないが)想像する力、考える力、感じる力が失われてしまうからいけないのではないか?考える事、感じることを自ら放棄せねばならぬ状況、それが戦争なのではないか?そしてそれは他ならぬ人間性の放棄だ。だから戦争は悪なのだ。我々の人間性を放棄してまで一体何を得ようというのだろうか?人間性を犠牲にして得た何かで我々の人間性は豊かになるのだろうか?

 

 「ならぬものはならぬ」は使い方によってはそれ以上考えることを放棄させかねない一面を持っている。「それ以上考えるな!」と言うのは人間性の放棄につながりかねない。その意味で「ならぬものはならぬ」に対して現在の私はいぶかしく思うのだ。旧会津藩の方々には悪いが・・・。

 

 もう一度確認するが、なんで・なんで・なんで?どうして・どうして・どうしてと問う事が人間の本質だ。考えること感じることを放棄するのは、人間性の放棄に他ならない。人間は機械ではない。よって、「思考停止」を促すような言葉は本来用いるべきではない。「ならぬものはならぬのは何故か?考え続けよ!」これが私の基本姿勢だ。もっとも考え続けていたら何もなし得ないという事もあるが・・・それはそれでいいと思う。

 

 この文章をお読みの皆さんはどう思うだろうか・戦争がなぜいけないのか?なぜ人を殺してはいけないのか?もう一度腰を据えて考えてみてはいかがだろうか?

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美化するのはどうかと・・・。

 

のっぺらぼうの

 先日、学童の勤務中、学習の時間に児童たちが学校で配られた自分の似顔絵シートに思い思いの自分を描いていた。皆、何かしら自分の特徴を自分なりに描いている。それぞれ自分の好きな恰好の服を着て、いつもつけているお気に入りのマスクをつけていたり、マンガチックだったりと様々だ。だが、ある児童(6年生)だけは自分の似顔絵を描けずにいた。のっぺらぼうだ。「どうしたの?」と聞いてみると「わかんない。」との事。実は前からその児童の事が気にかかっていた。気のいい児童ではあるのだけれど、いわゆるこわい先生の前ではおとなしく何でも言う事を聞くのに、私の前では小馬鹿にしたような態度をとる。単に私が舐められているわけだが、そう単純な問題でもない。

「強いものには巻かれて、弱いものには小馬鹿にしたような態度をとるのはカッコ悪いよ。」と諭すと、いたいところを突かれたという表情をしていた。その子が自分の似顔絵を描けずにいる。

「ああ、そうか。この子はまだ自分が見つからないんだな。」

とその瞬間感じた。同時に自分にもこんな時期があったな。そう思うと何だか目頭が熱くなった。それを悟られないようにするのに必死だった。

 

 自分を見つける(アイデンティティーを確立する)と言うのは簡単なようで難しい事だ。当然それが出来なくてもがく児童もいる。私なども自分を見つけるのに時間がかかった方だ。

 

 私には1つ違いの兄がいて、この兄が運動も勉強もよくできた。頭の回転が速くいわゆる優等生だった。頼りになる兄だったが、反面、私からすれば威張っていると思われる面もあった。一度テレビで歌番組を観ていて、ある楽曲が流れると私が「この曲スキー場で流れていたね。」と言うと兄は「そんなはずがない、この曲は今日発売したばかりだ。」と言う。「そんなはずない。確かに流れていた。」と私は思ったのだが、頭の回転が速くて口が達者な兄にそれ以上反論するのは気が引けた。今にして思えば、発売前に宣伝として楽曲を流すのはごく当たり前の事それだ。でもそれを当時は説明できなかった。ただ、その時悟ったのは「兄にとっては真実を確かめることよりも、目の前の俺を言い負かすことの方が大切なのだ」という事だった。そんな風に思うようになってから私は徐々に自分を確立していった。

 

 人が自己を確立するのはいろいろな環境や関係に作用される。一筋縄にはいかない事もある。でも日々の生活の中で、児童が自分を見つける手助け(支援)が出来るなら、それは学校の先生や塾の先生とはまた違った意味で尊い仕事だと思った。

 

 今はのっぺらぼうでもいい。いつか自分にしか描けない自分がきっと見つかる。その手伝いが出来ればいい。がんばれK君!

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今はまだのっぺらぼうの

 

尊敬と崇拝と

 うちの母は皇室の方々、特に上皇后さま(美智子さま)を崇拝している。それこそ美智子さまの歩いた地面さえありがたがるほどだ。私も皇室の皆様を自然に尊敬している。こんなこと書くと怒られてしまうかもしれないが、皇室の方々だって人間だもの、我々と同じく、時には飲んだくれて愚痴をこぼしたい夜があるかもしれない。でもちょっくらそんなことできない。皇室の皆様はご自身のプライベートを犠牲にして我々国民の象徴として、寄る辺として国民の為に尽くして下さる。その姿には自然と頭が下がる。それに、いち早く被災地に駆けつけ、被災した方々に寄り添うお姿には心を打たれる。私が皇室の皆様に敬意を抱くゆえんだ。ただ私と母のそれには決定的な違いがある。それは私が尊敬と崇拝の間にキッチリと一線を引いている点だ。逆に言えば母は尊敬と崇拝との境界があやふやになっている。それが悪いと言うわけではないが、やはり、尊敬と崇拝とは異なるものだし、この場合、尊敬の方がより良い。何故か?

 

 以下は私の個人的見解だ。尊敬は自己完結的なのに対し、崇拝の方がより相互補完的な感情である。つまり尊敬するという感情は自立しているが、崇拝と言う感情は崇拝する側とされる側が補完し合って成り立つものなのだ。言い換えると崇拝する側、される側が、依存しあっている。無論、美智子さまは北関東在住の一女性の感情などに頓着はなさらないと思われる。でも、それでも美智子さまにある種のご負担をおかけしかねない。

 

 私は基本的に『人は自分の足がある限り(もしかするとそれが義足と言う場合もあるかもしれないが)自分の足で立って歩くもの』だと考えている。怪我をして歩けない場合は別として・・・。まず自分の足で歩いて、支えたり支えられたりするのは、それが出来た後の話だ。その方がフットワークが軽いし、小回りが利く。支え合い、もたれ合っていたのでは容易に身動きが取れない。そうするといやでも“固着化”してしまう。ここで言うところの“固着化”とは広い意味で“保守化”の事だ。我々は常にアップデートしなければならない。それは人と人との関係性も、ひいては皇室と国民との関係性も同様だと思う。“崇拝”してしまうとそれが出来にくくなるのではないかと危惧するのだ。それにきっと美智子さまだって“崇拝”なんかされるより“尊敬”される方が喜ばれるのではないだろうか?美智子さまのそう言うお人柄をこそ、うちの母はお慕いしているのだと思う。

 

 尊敬と崇拝。この文章をお読みの皆さまはどう思われるだろうか?誰よりも相手の為に尊敬こそすれ、崇拝などしない方が良いというのが私、長谷川のスタンスである。

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ありがとうございます。

 

夢を通じて

 夢を見ていた。夢の中で私は中学生で、ゲームの時間をめぐって母と口論していた。どう言うわけか、そこに中学時代のいじめっ子のBが現れた。Bが言う事には「いいじゃない。ゲームくらい。そんな事より、他人からの支持や好意を粗末にしちゃ勿体ないでしょ!」私はハッとして「ありがとうBちゃん。」と言うとBは少し照れ臭そうに「も一度言って。」とせがんだ。私はもう一度「ありがとうB君!」と今度は改まって礼を述べた。次の瞬間目が覚めた。そんなわけで、今ここに文章として綴っている。確かに私には、他人からの好意、特に異性からの好意を、それが私にとって価値あるものであればあるほど、わざと粗略に扱ってしまう傾向がある。後になって自分でも「なぜあんなにそっけない態度をとってしまったんだろう。」と反省するのだが一向に直らない。中学時代Bと知り合った頃にも同じようなことがあった。自分にとって大切な誰かから好意を抱いてもらえる事ってとてもとても貴重なことなのに、それをないがしろにする私をBは内心苦々しく思っていたのかもしれない。やっとBが私をターゲットにした理由がわかった気がした。

 それにしても、夢って不思議だ。喉元まで出かかっているものの、自分ではいまだ気づかない言葉やイメージをクリアーに伝えてくれる。ただ疑問なのは今回なぜ母とBと言う人物が夢に出てきたのかだ。母はともかく、Bとはもう20年以上会っていない。私にとってもう過去の人だ。それとも人と人が夢の中で交流できるというのは本当の事なのだろうか?もしかするとBは今でも私のことを何らかの理由で意識していたのだろうか?それで夢に出てきたのだろうか?だとしたらBの想いは確かに私に届いたと思う。「人の好意を粗末に扱ってはいけない。」それがBの私に対する率直な思いだったのだろう。それは痛いほどに伝わった。

 何にせよ、このように夢を通じて我々はイメージを共有する。夢を通じて我々は時間と空間を飛び越えてシンクロする。夢を見る事は人間が「言語」を獲得する以前、まだ「群れ」だったころに備わったアナログなコミュニケーション手段の1つなのかもしれない。

 

 さてここで話はだいぶ飛躍する。今頃、ロシアのプーチン大統領はどんな夢を見ているのだろう?さぞ、穏やかな夢を見ているに違いない。小鳥のさえずりでも聞こえているのだろうか?と言うのは無論皮肉で、正直、夜も眠れぬ日々が続いているのではないだろうか?

 現実ではプーチンが怖くて側近は誰も正直な事が言えないのかもしれない。でも夢の中ならば・・・。私がB君からのメッセージで自己を改めたように、夢を通じて彼が自己を改める事が出来たらよい。そして彼にそのイメージを送れるのは、それはやはり、彼に近しい人たちなのだ。それとも部外者?であるこの私でもプーチン氏と夢でイメージを共有する事が出来るのだろうか?多分難しい・・・。その為にはプーチン氏の事を深く知らなければ・・・。やはり彼と何かを共有できるのは彼に近しい人たちなのだ。その為にも、と言うわけではないが、我々は近しい人を大切にしなければ・・・。

 

 今回「夢」について考えてみた。従来「夢」を個別にとらえて研究の題材とした例は多々ある。しかし複数の人の「夢」を「イメージの共有」と言う視点でもって研究の題材とした例はまれなのではないだろうか?どうもその辺りに「脳」のコミュニケーションを司る機関・部位としての一面が見えてくるのではないかと思っている。「夢」「脳」「シンクロ」「共鳴」「イメージの共有」このあたりが現在の私の興味のある分野だ。こういった事について研究対象としている論文等、ご存知の方は紹介してください。ではまた!

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いい夢見ろよ‼‼‼

 

自信

さあ、ボーイズ&ガールズ!今日はそもそも何で“頑張らなけりゃいけないか?”について話をするぜ!勉強に運動にみんなだって頑張らなきゃならない!じゃあなぜ勉強なんか頑張らなきゃならないの?運動なんか頑張らなきゃならないの?ゲームしてりゃいいじゃん!って話じゃないか?でも違うんだな!そこんとこを今日は話すぜ。聞きたい?

 

う~んあんま聞きたくないけど・・・。

 

まあそう言わずに聞いててごらん!おっもしろいから!

 

なぜ、勉強に運動に、他にも音楽だったり、美術だったり、係の仕事だったり、何でもいいんだけど頑張らなきゃならないか?それはね、ひとえにみんなに“自信”を持って欲しいからなんだ。

 

自信?

 

そう、自信。自らを信じると書いて自信!

 

何で自信をもたっほうがいいの?

 

それはね、やさしくなれるからなんだよ。

 

やさしくなれる?

 

そう、やさしくなれる。言い換えるとちょっとやそっとの事じゃいちいち腹を立てなくなる。だからみんなに自信を持って欲しいんだ!

 

わかんない。

 

そうだね。これじゃちょっと解らないね。詳しく話すね。みんなはまだ小学生だけど、いずれは大人になって社会に出る。そうするといろいろな人に出会う。育ってきた環境も違うし、価値観(ちょっと難しいかな?)も違う人たちと一緒に生活しなけりゃならない。そうするとどうしたって、怒ったり、怒られたり、バカにしたり、バカにされたりしながら生きていかなきゃならない。かくいう先生も怒られてばっかりだ。それに、頭の中をよりによって“パーマン”のテーマソングが流れたりする。何でこんな曲が聞こえてくるのだろう?誰かが俺の事をあいつはパーマンだ!なんて言っているのかもしれない(笑)なんて思ったりしてね。空耳って怖いんだよ(笑)それとか“ウーパールーパー”とかね!でも先生はそのくらいの事じゃ腹は立たない。何でかわかる?

 

わかる。自分に自信があるからだ!

 

そう、その通り。えらそうなこと言わせてもらうと先生は自分にかなり自信がある(笑)。だからちょっとやそっとの事では怒らない。大事なんだよ。自信て!

 

単に鈍いだけじゃん?

 

それもあるかもしれない(笑)でも、鈍いってことも大切な事だと先生は思う。いつも自分が馬鹿にされているんじゃないかって神経ピリピリさせているよりよっぽどいいと思う。

 

じゃあ、どうしたら自信をもてるの?

 

そこだね、そこが今日のお話のきも。そこで、勉強も運動もがんばることにつながるんだ!俺は私は勉強で運動でこれだけがんばって学年で一番になったとか、クラスの代表になったとか、100点を取ったとか、そういう小さな積み重ねが自分の“自信”につながるんだ。だから勉強でも運動でも係の仕事でもがんばる事って大切なんだ!

 

俺はダメだ。勉強も運動もたいしたことないもの・・・。

 

そんなことはないよ。勉強とか運動とかだけじゃないんだ。あいつは受けた恩に必ず報いる奴だとか、あいつは人が嫌がる事を進んで引き受ける奴だとか、あいつは嘘を言わないやつだとか、あいつはずるをしない奴だとか、あきらめない奴だとか、そう言うのをひっくるめて“生き方そのもの”がその人にとっての一番の“自信”になるんだと先生は思う。

 

なるほど、そうか・・・。

 

それとね、自分で積み重ねた結果“自信”は身につくものなんだけど、誰かに与える事も出来るんだ。

 

与える?

 

そう、一番わかりやすいのが“ほめる”ことだね。

 

それならわかる!ほめられると気持ちいいもの!

 

そうだね。いいことをしたらほめてやる!いいことしたわけじゃなくても、その人そのものを褒めてあげる。これが一番上手にできるのが・・・だれ?

 

わかった!お母さんだ!

 

そう、だからお母さんになる人、つまり女子はとても大切な役割を担っているんだ!自信ってのは自分で積み重ねると同時に、お互いに与えあうものでもあるんだ!だからね、人の悪口を言う時は大きな声で、他人をほめる時はその倍も大きな声で言えるといいね!ちょっと抽象的な事を言ってしまうと(低学年の子は難しいかな?)ほめるってのは、つまりは“愛する”ってことでもある。その昔、LINDBERGというバンドがあってね『もっと愛しあいましょ』という楽曲があるんだけど、その歌詞にね

 

~もっと愛しあいましょ みんな自分で精一杯 でもステキなことでしょ キズつくのも仕方ない~

 

とあるんだ。リアルタイムでは何のこと言っているんだかわからなかったけどそういうことかもしれない。解釈の仕方によっては結構でかい事言っているんだなと思ったりしてね。

 

そんなわけで、今日の先生のありがたいお話はこれまで!

歯磨けよ!頭洗えよ!ではまた!

【MV】LINDBERG(リンドバーグ) / もっと愛しあいましょ(full.ver) - YouTube

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自信もってますか?