どこ吹く風

自分には全く関係・関心がないというように、知らん顔をすること。「何処吹く風と聞き流す」

時短

時短

 

現代人は何かと忙しい。

かくいう私もその一人だ。この年末年始休暇を利用してカズオ・イシグロ氏の(『私を離さないで』2005年)を読もうと思っていたのだが、なかなか長い時間をとれない。結局、途中で挫折して、代わりに、北村良子氏の『発想力を鍛える33の思考実験』という本を読み始めた。こちらは33の思考実験とあるように、各単元の区切りが短くて、細切れの時間であっても読みやすい。読み進めていくと第一章の「心のありかを問う実験」で、なんとカズオ・イシグロ氏の『私を離さないで』が話題にあげられていた。(クローンに心はないという考えから、臓器提供に利用される主人公たちを描いた作品)とあり、その時点でネタバレというか、小説のテーマが解ってしまったわけだが・・・。

 まだ全部読んでいないので何とも言えないが、前者『私を離さないで』では400ページにわたって展開されるテーマを、後者『発想力を鍛える33の思考実験』ではほんの十数ページであつかっている。大変興味深い。どちらが良いとか悪いとか、そういう話ではない。物語の細部まで描かれていて、登場人物に対する思い入れが深まるという点では前者の方が優れている。ただ、「とにかく時間がない」という観点からすれば、後者の方が優れているのも事実だ。そして幸か不幸か、世界は無数のテーマに満ち満ちている。に対して時間は有限だ。私などはつい後者を選んでしまう。「もっと時間と集中力があれば」といつも思う。

 また、小説とは心理描写、会話、情景描写の3つから成るとある作家が述べていたが、いわゆる情景描写を私は、流し読みしてしまう癖がある。情景を描写することで、登場人物の心理をメタファーとして読者に伝えているのだと思うが、そんなことよりは登場人物の心理や会話・発言をダイレクトに受け止めたい。この情景描写を実際の絵で表しているのがマンガなのではないかと思って久しい。情景を描写する長たらしい文章を一目でわかる絵で表現しているのだから、時短という観点でもマンガは優れた表現形態だと思うのだが、あまり評価されない。嘆かわしい限りだ。

 時短という観点で言えば音楽にも同様の事が言える。クラシックなどをたまに聞くと、あまりの悠長さに.あくびが出てしまう。そういう時代だったのだろう。現代の楽曲だって今とバブル(1980年代)の頃ではイントロの長さに違いがある。今の曲はイントロが長いとそれだけで飽きられてしまうらしい。何とも忙しい世の中になったものだ。

 さて話は移るが私が書き綴っているこの文章はあえてカテゴライズするならエッセイになる。長編とまではいかなくても、中編、短編小説を書いてみたいという思いはあるのだが、時間的にも注ぎ込むエネルギー的にもなかなかできずにいる。ただ、実際に読んでくださる方々の事を考えると、これはこれでよいのではないか。忙しい日々の中でスキマ時間に読んでそれなりに楽しめて考えるきっかけとなる。そんな文章が今の社会では有用なのかもとも思うのだ。

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写真はカズオ・イシグロ氏の『私を離さないで』(早川出版の文庫版)です。

 

欲望

 その昔ある皇帝が臣下の武将を捕えて言ったそうな
「お前が謀反を企てているという讒言があってな」
対してその武将は
「私にそのような思いは露ほどもございませぬ。その証拠として兵権は返上しましたし、領地はごく狭い土地を頂いたにすぎませぬ。そのことは陛下もご承知のはず。」
対して皇帝は言い放つ。
「確かにお前に謀反を起こすつもりはないのだろう。しかしお前には謀反を起こすだけの能力がある。それ自体がお前の罪だ。」
それを聴いた武将は笑って罪を受け入れ、斬首に処せられたという。
この逸話を高校生の頃に読んだ私は「才能のあるやつってスゲーなー、一度でいいからこういう気分を味わってみたいものだ。もっとも殺されるのはまっぴらだけど・・・」
 斬首に処せられた武将は欲がなかったのだろう。逆に言えば自身に満足していたのだろう。だが欲の深いものには欲のないものを理解することは難しい。そして理解できない存在というものは常に恐怖を伴うものだ。その意味で欲深いものとは常に臆病にならざるを得ない。いつ自分のポジションが奪われるのではないかと・・・それがこの帝王が武将を殺した一つの要因だったのではないだろうか?
それから20年。私のこのブログは当初、極々近しい人たちと、あわよくば出版関係の方々に知ってもらえたらと思って書いてきたが、いつのまにか予期していなかったほどの大勢の人に読まれるようになってしまった。それはそれでうれしいことだが、いささか困ったこともある。どうも読者の方々の中には私の存在を過大評価してくださる人が多数いるようだ。私としてはあくまで読みものとして書いているだけで現実にリンクしたような深い意味は全くない。もう少し言わせていただくなら、私が一組織人として限りなく無能に近いのは周知の事実だし、私自身、組織の中でどういうポジションにつきたいなどという殊勝な心掛けは露ほどもない。私を過大評価するのはどう考えてもお門違いだ。
 もっとも私も聖人君主ではないから欲がないわけではない。ただそれは組織の中で重要なポジションを得たいとか、いわゆる権力が欲しいとか言ったものではない。私に人並み以上に欲があるとすれば、それは文章でもって自己を表現したいという欲求だ。本当に大それたこととは思うが、それこそ歴史に名が刻まれるような文章を残したい。そう自分では思っている。「何を馬鹿な」とおっしゃられる方もいると思うが、私だって夢くらいある。でなけりゃ毎日やっていけない。そのことをご承知の上で、私が願うのは、周囲の方々にはできるだけ人畜無害な人間としてそっとしておいてほしいという事だ。無論組織人としての最低限の職責は全うする。つまり給料分の働きはきちんとする。あくまで給料分ではあるが(笑)。幸い私の属している組織は懐が深い。私のような存在を一人や二人受け入れてくださる度量は十分にある。と思っている。本当に有難いことだ。いずれは何らかの形で恩返し出来たら、そのように思って日々を過ごしているのです。

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適正価格

 昨日、兄が11歳の甥っ子を連れて遊びに来た。甥っ子にこんな話をした。

私「クラスにちょっと人気のある女の子がいたとする。その子本来の魅力はこんなくらいなんだけど、クラスのみんなが『~ちゃんて可愛いよね』と言ってる。するとその子の人気は急上昇で、本来の魅力をはるかに越えてしまう。この状態の事をバブルっていうんだけど、まあ今は言葉自体はどうでもいいや。そのうちクラスの誰かが『でも~ちゃんて性格悪いよね。』と言い出す。そうするとそれにつられてクラスのみんなも『そうだよねそんなに可愛くないよね。』と言い出す。その子の人気は急降下。本来の魅力よりずっと落ちてしまう。こういう事って理解できるよね?」

甥っ子「うん」

「だからその子が人気のある時には告白してもだめで、人気が下がった時に告白すればOKしてもらえる。タイミングが大切だって話。」と兄が茶々を入れる。

そこで私が「いや、それはそれでいいんだけど、大切なのは『クラスのみんな』に振り回されないで『本来の価値』を見極める目が必要だってこと。『物事の本質』ともいう。その子の魅力がどんなものなのか?自分自身の目と耳と頭で考えなくてはいけない。『クラスのみんな』に振り回されないで自分自身で見極めろという話。それが出来ればそうそうドジは踏まない。わかる?」「うん、解る。」「よし、じゃもう寝よう!」

 これは株式から応用した話だ。世界一の投資王ウォーレン・バフェット氏の師であるベンジャミン・グレアムは株式市場の事を「躁うつ病を患った気の毒な人物Mr.マーケット」に例えている。もちろんここで言う「クラスのみんな」の事だ。グレアムの主張はこうだ。Mr.マーケットがうつの時に株を買って、躁の時に売れと。先の私の兄の発言と要は同じだ。つまり、「適正価格」を見極めろと!それが出来れば怖くないという話。今、株式の話を、「クラスの可愛い女の子」に応用したが、これは例えば企業の人材活用にも応用できるし、主義や、システムと言った事柄にも応用可能だ。例えば会社にNさんという文章を書かせると非常に面白い人材がいたとする。Nさんのレポートが読まれると彼の人物評はうなぎのぼりだ。「Nは優秀な人材だ!」しかしよくよく見てみると社交性や協調性に欠ける。今度は彼の評価は下がる一方。「Nは見掛け倒しだった。」でも時間の経過とともに解ってくる。やはりNは物事を深く自分の頭で考えている。ただ社交性や協調性に欠けるのも事実。つまり彼はAという仕事には向いているがBという仕事には向いていない。これが「適正価格」だ。

 この例からわかるのは「適正価格」が判明するにはある程度の「時間」が必要不可欠だという事。さて、Nさんの例で必要な「時間」はせいぜい半年から1年程度だろう。しかし、より長いスパン、それこそ10年とか100年とか1000年と言ったスパンでみて初めてその「適正価格」が解る例もある。例えば「共産主義」がそれだ。カール・マルクスによって提示されたこの概念はかつて一世を風靡した。「共産主義は現代のユートピアだ!」と。しかしその「適正価格」が解かるのに(必ずしもまだその「適正価格」は解らないという意見もあるだろうが・・・。)100年以上かかった。マルクスの提示したその革新的な理論に当時、少なくない数の人々(未だにその理論を信奉している人もいると思うし、それを否定するつもりはないが)が熱狂した。つまり躁状態になってしまった。そのような中で「ロシア革命」・「文化大革命」・「安保闘争」が起きた。結果は言うまでもない。彼らは事を起こす前に立ち止まってこう考えるべきだったのではないだろうか?「今、自分たちのやろうとしている事の歴史的「適正価格」はいくら位なのだろうか?」と。つまり10年後、100年後、自分たちの採ろうとしている行動はどのように評価されるのだろうか?と。そして自己に対して疑いの目を向けるべきだったのだ「自分たちはもしかするとヒート・アップしているのではないか?」と。 

  ファシズムにしても同じことが言える。ヒトラーを支持したのは「躁うつ病を患ったクラスのみんな」だ。そしてその「適正価格」がいかなるものであったかは今更語るに及ばない。また、ヒトラーという個人にばかりスポットが当たりがちだがヒトラーという特定の個人がいなくても別の誰かがその役割を担ったのではないか?ヒトラーを作り出した「躁うつ病を患ったクラスのみんな」つまり「大衆」こそ、責任を問われるべきなのではないか?(経済的混乱があったにしても)その意味で個々の人物ばかりをクローズアップした旧来の歴史観は少し違うと思う。

 このブログをはじめから読んでくださっている方々はお分かりと思いますが、私がこのブログで一貫して主張しているのは「感情の共有」には気をつけろ!です。「躁うつ病を患ったクラスのみんな」とは言い換えれば「群集心理」に他なりません。そしてそれは「感情の共有」のなせる業です。何も「感情の共有」が悪だとは言いません。ただ、「その子が本当に魅力的かどうか?」自分の五感で感じ、自分の頭で考える必要があると思うのです。メディアに惑わされず。それが出来れば歴史は変わっていたかもしれないのです。

 『現在自分たちが採ろうとしている政治的行為の「適正価格」を歴史的スパンで考える。それを踏まえたうえで自身が集団的に過熱しすぎていないか、過冷しすぎていないかを客観視して政治に、経済に、歴史に臨む』

  そのような歴史観を「Mr.マーケット的歴史観」と名付けます。既に知識人や研究者によって提示されている概念かも知れませんが、一応そのように命名しておきます。著作権や知的営為の成果を放棄するつもりはありません。なお今回の記事を記すにあたり友人Nの助力を得ました。ここに謝意を表します。 

長谷川 漣

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原動力

 

任天堂クラシックファミコンを買った。早速、小学生の頃夢中になったスーパーマリオ3をやってみた。リアルタイムではラストステージには行けたものの、最後のボス・クッパ大王まではたどり着けなかった。大人になった今こそクッパを倒してやると意気込んで挑戦してみたが、如何せんクッパどころかファーストステージのボスすら倒せない。こんなはずではなかったのに・・・何が言いたいかというと、使わない能力は低下するという事。以前書いた神経衰弱(トランプのゲーム)の話と一緒だ。使わない能力は低下する。さて私は、そこそこ難関と言われる大学に現役で合格したが、極々客観的に見てその当時の能力が今は影も形も、ない。スーパーマリオと一緒だ。使わなければ落ちる。訓練に訓練を重ねて何とか大学には合格したものの、その当時の頭の回転の速さ、記憶力、同時進行で複数の物事を考える力、そして見直しを厭わない緻密さ、それらは今や欠片も、ない。当然というべきか、私は、仕事は、できない。社会人になって常々思うのは大学名なんか関係ない。学び続けるやつが強いのだという事。だったら、再び訓練しなおして一度は身につけた能力を取り戻せばいいじゃないか、スーパーマリオをまたやりこんだらいいじゃないか、という御意見もあるだろうが、如何せんその気になれない。失われてしまったのだ、情熱が。          

先程、「大学名なんか関係ない。学び続けられる奴が強いのだ」と述べたが、学び続けられる人にはその情熱があるのだろう。そう、情熱もしくは原動力と呼ばれるものだ。ではその原動力って何から生じるのだろうか。いわゆる夢か志か?それとも豊かさや勝利への執念か?そういうのは私にはいまいちピンとこない。なんだかどれもボヤっとしていて興味がない。では昔、私が抱いていた情熱はどこから来ていたのか?思うに子供の頃あんなに一生懸命になれたのは単純にそれが楽しかったからだ。スーパーマリオガンプラがサッカーがそして本がマンガが楽しくて楽しくて仕方なかったのだ。昔タモリさんが言っていた「俺なんて小学生の頃は明日何して遊ぼうかしか考えてなかったからね」そうなのだ、夢とか志とかそんな小難しいものではなくて「楽しい」が原動力だったのだ。「意志あるところに道は生ず。」ならぬ、「楽しみあるところに道は生ず。」なのだ。もちろん、つらい事、苦しいことがあるから、楽しみが活きてくるのだという人がいる。それは確かに一理あるが、比率が問題だ。9割つらくて1割楽しいよりは、1割つらくて9割楽しい方が、私はいい。何なら10割全部楽しくてもいい。楽しいに越したことないじゃないか!と思うのは私だけか?楽しいから一生懸命になれる。少なくとも私はそういう人間だ。極論するならつまらなく長生きするよりは楽しく早死にした方がいい。もちろん楽しく長生きできるに越したことはないが・・・と、ここまで考えてきて、果たして一般的に人生とは楽しいものなのだろうか?強がりでなく心の底から人生って楽しいと言える人は人口の何割くらいいるのだろうか?(世代間で差も出るだろうが)もしくは国別、人生楽しい度(熱中度)調査?をやってみたらどうなるのだろう?この場合、幸福度と楽しい度(熱中度)は似て非なるものだ。何故なら「熱中」もしくは「没頭」という概念が重きをなすからだ。また、「楽しい」の必要十分条件は何だろうか?家族なり、友人なり、恋人なり、周囲の人間関係が良好なこと、一生懸命になれる何か、夢中になれる何かがある事。この2つだろうか。「いや、基本的に人生なんて楽しくない。だからこそユーモアが必要なのだ」というニヒルな意見もあるだろう。・・・まあ、考え方は様々だろうが、最終的には次の言葉を借りて締めくくりたい。

「基本的に人生とは生きるに値するものだ」

宮崎駿氏の言葉だ。彼は「その思いを作品に込めている」と述べておられる。その言動の節々から一個人としての彼は、なんて頑固な爺さんだと辟易するが、クリエイターとしては、すごいなーと思わざるを得ない。いろいろな作品があっていろいろなメッセージがあってよいと思うが、彼の言う「生きる事って楽しいんだ」というメッセージが何よりも大切な気がする。今までの考察からすれば、それが生きる情熱・原動力そのものだからだ。昔、手塚治虫先生がおっしゃっていた「やはり、子供向けの作品が一番大事だ」と。初めて聞いた当時はなんだかわからなかったが今ならわかる。「生きる事って楽しい」というメッセージは子供にこそ必要なものだからだ。(無論、大人にだって必要だが)。漫画でも小説でもアニメでも映画でも、読んだ人、観た人が「明日が来るのが楽しみ」になるような作品だったら本当に素晴らしいと思う。

 話は戻りますが、この文章を読んでいただいている皆さんの原動力は何でしょうか?もしかして私と同じ?同じなら、皆さんが人生をいっそう楽しめるよう祈っています。ちなみに私自身はこのブログを綴っているときが一番楽しいです(笑)。

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感情はともかく情報は

「感情はともかく情報は共有すべきだ」というのが私の持論だ。情報と言っても芸能人のゴシップとか同僚の陰口とかではない。広く社会一般のために役立つ情報なら皆で共有すべきという事だ。卑近な例で申し訳ないが私が世界史の教員になりたての頃、授業の準備に非常に手間取った。専門だった中国史ならそれなりの引き出しがあるものの、それ以外の分野はほとんど素人同然だ。それこそ毎時間の授業ごとに前日の夜中の23時までかけて参考書を何冊も読みまくって授業に臨んだ。それでも駆け出しの駆け出しだった私はなかなか生徒の満足のいく授業ができなかった。それこそ毎時間、毎時間が自分との、そして生徒との格闘だった。休日は授業の準備や専門書を読む事、それ以外は部活の引率でいっぱい、いっぱいだった。そんな風にして一年余りが過ぎたころ、私に転機が訪れる。授業準備の一環としてインターネットで情報を収集していたところ、これは!というサイトを見つけたのだ。そのサイトの名は『世界史講義録』大阪の公立高校の教員である金岡新先生(ペンネーム)が自分の授業をそのままの語り口で文章化して作った世界史の授業専門のサイトだ。『世界史講義録』には金岡先生が長年の教員生活で専門書を読んだりご自分の体験に基づいたりして作り上げた深い授業が惜しむことなくそのままの形で掲載されている。教科書を読んでも絶対に理解できっこない事柄がその背景を含めて解りやすい文章でしかも面白い語り口で紹介されている。私にとってはまさに宝の山を探し当てた気分だった。それ以来『世界史講義録』は私のバイブルになった。『世界史講義録』を読んでそれにプラスアルファで自分なりに調べたことを加味して授業に臨んだ。自分で言うのもなんだがそれ以来、私の授業は「新人のくせに、解りやすくて面白い」と評判になった。まあそれも道理だ。大ベテランの先生の授業を土台として行っているのだから。しかし生徒も馬鹿ではない。どうやらあいつの授業はネットで調べたものをそのまま使っているらしいとのうわさが立つ。まあ、いずれ解るだろうと思っていたからそのまま放っておいた。無論、私の評判はがくんと落ちる。「なーんだ、ネットの丸写しかよ」と。だが生徒とは本当の意味で馬鹿ではない。そのうちにちらほら言い出すものが出てくる。新人のくせに参考書だけに頼るんじゃなくて、もちうる手段のすべてを駆使して授業に臨んでいるんだと。それだけ努力してるんだ。それだけ自分の仕事に一生懸命なんだと。そうなってくると生徒の方も授業に臨む態度が変わってくる。ここに至ると私の方も特に隠す必要はない。きちんと『世界史講義録』と金岡先生の名を明かしたうえで

「この金岡先生は自分が努力して身に着けた質の高い授業をただでネットに公開してくれる。無論著作権は放棄しないと書いてはいるけれど。そのおかげで今面白くてわかりやすい授業が私にもできる。君達の為にもなる。ほんとは努力して身に着けたものなのだから自分だけの所有物にすればいいのに、立派な人っているものだね。ネットで公開しているおかげで、我々のように得している人が他にもいるはず、そう考えるとこの金岡先生の功績は大きいね。こうして情報を共有することで少し大げさかもしれないけど、日本の高校全体の世界史の授業の質が高まっているのかもしれない。金岡先生に感謝だね。インターネットが普及するまでは授業の面白い解りやすい先生がいてもそれは個人プレイに過ぎなかった。その恩恵に与る人はわずかだった。予備校などに行けば受けられたかもしれないけど、それにはお金もかかる。そう考えるとインターネットってすごい。でもそのインターネットの仕組みがどういう風に生まれてきたか?それを調べると社会の不条理に行き着くよ。」

長くなったが何が言いたいかというと、情報は共有すべきだという事。社会は情報を共有することで発展してきたのだという事。インターネット、もっとさかのぼるならグーテンベルクの発明した「活版印刷術」、こうしたツールでもって「情報」を共有することによって社会は発展してきたのだ。話は戻るがそもそも歴史を学ぶのは何故か?それは人類全体の情報(記憶)を共有するという事に他ならないのではないか?ヒトラーの様な人物に何故権力を与えてしまったのか?(彼に権力を与えたのは圧倒的多数の国民に他ならない)スターリンのような人物が何故最高権力者になるに至ったのか?そういう忘れてしまいたい記憶も含めて人類全体で情報を共有する事、それが歴史を学ぶ意味なのではないだろうか?一部の人間が情報を独占し操作する、そのような社会は健全とはいいがたいのではないか?

もう一度言うが「社会全体にとって有用な情報は共有すべき」だ。正しいことを言っていると思うのだが・・・もっとも正しいことが正しく行われるような世の中なら、貧困や格差、差別、戦争、テロ、そういった問題はもとより生じないとも思われる。我々の生きるこの社会は不条理に満ち満ちている。それをあきらめて受け入れるか、それとも立ち向かうか?それはあなた方次第なのです。私?私は残念ながらもうとっくにあきらめてます。何せいいオッサンだから(笑)

 

遅れましたがこの場を借りて金岡新先生にお礼を申し上げます。

その節は有難うございました。益々のご活躍を期待いたします。

 

www.geocities.jp

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アプローチ

  先日、録画しておいたNHKの特番「安室奈美恵『告白』」(20171123日放送)を観た。この番組によると、なんでも安室奈美恵さんは23歳の時、それまでの小室哲哉さんによるプロデュースが終了し、それからは自分自身をプロデュースしなければならなかったとの事。その後「歌手としての安室奈美恵が解らなくなった時期があった。」のだそう。誰に聞くことも、相談することもできなくて、いわゆるスランプに陥った。  いろいろと試行錯誤し、もがき続ける中で、最終的に行き着いた答えは一旦「安室奈美恵」という名前を置いておいて「SUITE CHIC」という名前でAIさんやVERBALさんZEEBRAさんなどのアーティストとコラボして「歌って、踊る」という自分自身の一番好きなことに立ち返ることだった。「自分が好きなことは好きだ 胸張って楽しまないとそりゃいいものは 作れない(安室奈美恵さん)」それ以来、彼女は再び輝きを取り戻していく。その後、安室さんはTVへの出演を控え、自分の好きなコンサートへと活動の場を移す。その理由としては「テレビでは何か面白いこと言わなくてはいけないんじゃないか」というプレッシャーが苦手だったそうだ。コンサートへと活動を完全に移したのちにも「MC抜きのコンサートつくらせてください。」とお願いする形で、歌い続けの2時間コンサートを行う。これが見事にはまる。MCを断った理由は「大阪に言ったら大阪は大阪で何か大阪の事を話さなきゃとか、そうすると全国の都市の数だけネタ考えなきゃとか」そういうのが不得手だったとの事。とてもよく解る話だ。ファンは安室さんが何か苦手そうにしている姿を見に来ているのではない。溌溂とした活き活きとした彼女を観たくてコンサートに来るのだ。そのようにして彼女の存在感はいっそう増していった。

ファンなら誰でも彼女の輝いている姿を観たい。輝くとはどういうことか?不得手なこと苦手なことを、いやいやながらすることか?そうではない。自分の好きなことをやる。逆に言えば嫌いなことをそぎ落としていく。それが彼女が輝きを取り戻した理由なのではないだろうか。ここまで読んできて何かに気づかないでしょうか?そう、どこぞの誰かの言っている事とそっくり同じことを、結果的に彼女は行っているのです。勘の良い方はお気づきかと思いますが、そうですホリエモンこと堀江貴文さんです。

『好きな事だけやりなさい』と彼は言います。安室奈美恵さんと堀江貴文さんの言っていることはほぼ同じです。ただ決定的に違うのはそのアプローチの仕方です。一方がラディカルに声高に述べるのに対し、一方はもがいた末に(ファンの皆様、スタッフに)お願いする形で、謝る形でその思いを伝えています。当然、我々一般人が受ける印象は異なります。いわゆる好感度がまるきり違うのです。安室奈美恵さんのそうした挫折や苦悩が彼女のアーティストとしての深みや存在感、ひいては好感度につながっているのだ、とおっしゃる方もいるでしょう。その通りだと思います。でも、それは堀江貴文さんにも言える事だと私は考えます。彼にだって挫折や苦悩があったはずです。そのことは著書を読めば解ります。それにお勤めも果たしているわけですし。ただ彼はそれを表に出すことはしない。あくまで著書の中でさらりと触れるだけです。

私は安室さんと堀江さんのどちらのアプローチが道義的にbetterだとか、そういう事を論じるつもりはありません。お二人ともそれぞれに経てきた過去があって今日に至っているのだとお察しします。ただ、敢えて、敢えてどちらのアプローチが「かっこいい」かと言ったら、それはやはり後者です。そうなのです今は亡き高倉健さんだって矢吹丈だって必要以上に多くは語りませんでした。美意識ってそういうものだと思うのです。男は涙を見せてはいけないのです。理性でもって涙腺を締めねばならないのです。それが男のロゴス(論理)なのです。そしてそんな時私は思うのです。女性やLGBTの方々には本当に本当に本当に申し訳ないが「自分が男で良かった」と。(安室さんをはじめ、女性の皆さん、ごめんなさい。TVの中の安室奈美恵さんの涙は本当に綺麗でした。一方で堀江貴文さんの涙はそんなに見たくないな~と思うのも事実です。私の考えは古いでしょうか?)いずれにせよ、安室奈美恵さんが9月16日無事引退されることを心より願っております。25年間有難うございました。

 

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トゥルーマン・ショウ

「真実を語るために必要な嘘がある。それは嘘ではなく、物語と呼ばれます。」これはある少女が、学校の先生から「物語」について教わる場面です。その女の子はそれを聴いて「私は作家になろう」と決意します。村上春樹氏の好きな場面だそうです。(『ブルックリン横丁』エリア・カザン監督。1945年)

 

「真実を語るために必要な嘘がある、それは嘘ではなく、物語と呼ばれる。」

 

さて、ここにも一つ「嘘」をテーマとした映画があります。ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが・・・

トゥルーマン・ショウ』(1998)(ジム・キャリー主演)です。あらすじとしては・・・

トゥルーマンは生まれた時から、リアリティショーの主人公として育ちました。彼の生活は24時間、全世界に向けて生放送されていますが、彼はそのことを知りません。家族も親友も、周りの人全てが役者で、巨大セットの中で生活するトゥルーマン。生まれ育った島から出て、広い世界を見に行きたい、と願っているものの、テレビプロデューサーのたくみな仕掛けで、彼の思うようにはいきません。ジム・キャリー演じる主人公トゥルーマンは、「おはよう!そして会えない時のために、こんにちはとこんばんは!」が口癖です。TVショーというだけあって彼の生活はコメディのようで、世界中で愛されていました。トゥルーマンの家族や友達、同僚全員がキャストなのですが、ところどころで彼らはカメラ目線になり、コマーシャルのように商品の宣伝をします。また、トゥルーマンが行く先には常に大勢のキャストがスタジオセット共に準備をしており大忙しです。そんな事など知らずトゥルーマンは生活していたのですが、あるときに偶然全てを知り、島の外に出ようと奮闘します。このへんもまだコメディ色が強いです。荒れ狂う海をなんとか超え、トゥルーマンは世界の端、つまりセットの出口にたどり着きます。視聴者も涙ながらに海を越えようとする彼を応援してきました。出口でトゥルーマンはいつものあのセリフ「おはよう!そして会えない時のために、こんにちはとこんばんは!」を言いお辞儀し、外の世界に出ていきました。トゥルーマンを応援していた視聴者たちは歓喜し、また涙を流し番組は終了しました。番組が終了し、砂嵐に変わります。そしてひたすら歓喜した視聴者たちは何事もなかったかのようにチャンネルを換え、次の番組を変えるのでした。ひとりの人生に涙を流し、消費するだけ消費した後は、また次に消費するコンテンツを探すという、皮肉です。そんな視聴者の愚かさが描かれていました。序盤のコメディ色から一変、最後は痛烈な風刺が効いている映画でした。≫(以上シネマライズより抜粋)

 与えられた温室の中で生きていれば何不自由ない生活が送れる、しかし、どんなに困難でも自分の足で歩いてこそ人生には意味があるのだという強烈なメッセージがこの映画には込められている。そして最後トゥルーマンのセリフが何とも言えずスカッとする。彼はこれまで自分を欺き続けてきた俳優(友人や家族)・視聴者やプロデューサーに「僕の人生は、見世物じゃない!」などと怒りをあらわにはしない。いつもの挨拶「会えないときのために、こんにちは、こんばんは、おやすみ。」と言って深々と一礼して巨大なセットの出口から悠然と出ていく。最後の最後、怒りでなくユーモアでもって別れを告げるジム・キャリー扮するトゥルーマンに私は魅せられた。

 実はこれと同じテーマが1990年代のサイバーパンク漫画である『銃夢』(木城ゆきと)でも描かれている。生きたままメリーゴーランドにつながれた本物の馬が、体を固定させる器具を引きちぎって数歩歩いて息絶えるという場面がある。生きた馬による回転木馬を作成したデスティ・ノヴァ教授は「愚かな、メリーゴーランドの上を回っていれば死なずにすんだものを。」とそれを見て憐れむ。それに対して彼に敵対する息子のケイオスは「この馬は最後の数歩を好きなように歩いて死んだのだ。」と反論する。印象的な場面だ。

 さて翻って、我々現代資本主義社会に属する我々は「自分自身の足で歩いているだろうか?」それとも、トゥルーマンの如く与えられた温室の中でぬくぬくと生きているのだろうか?私にはどちらがいいのかはわからない。ただ、誰にでも訪れる人生の終わりには「十分生きた」と納得して死んでいきたいと常々思うのです。

 この文章を読んでいただいた皆さん、実はあなた方一人一人が実在する現実のトゥルーマンなのかもしれませんよ!自分を取り巻く現実を今一度疑ってみてはいかがでしょうか?(笑)最後に私が気になるのは劇中のトゥルーマンと彼に扮したジム・キャリーの給料、出演料(ギャラ)はいくら位だったのかという事。下世話な話で申し訳ないのですが気になって仕方ないのです。(何々、えっそんなに!とほほ~(泣))

 まだご覧になられていない方は是非!一見の価値のある作品だと思います!

それでは、会えないときのために、こんにちは、こんばんは、おやすみ。

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