どこ吹く風

自分には全く関係・関心がないというように、知らん顔をすること。「何処吹く風と聞き流す」

選択と集中

選択と集中」とはビジネス用語だが 

(限りある資源を得意な分野に集中することで、その分野では負けないこと)

 結婚生活にも応用できると思う。女性の社会進出が叫ばれている昨今、恐縮だが、

 「一方が家庭や育児に専念することで、もう一方が仕事に専念する」

そういう意味での「選択と集中」(役割分担)もありではないかと・・・。もちろん共働きを否定するつもりはないが・・・。つまり、何が言いたいかというと、私などは稼ぎの良い嫁さんを見つけて早く「専業主夫」になりたいな。という落ち(笑)

 

でも、一理あると思いませんか?

 

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simple thinking

シンプルに考えることは意外に難しい。
何故か?
情報が氾濫しているからだ。
本質はいつだって単純だと思うのだが・・・
今回の米大統領選である。
いろいろな切り口があるようだが
あえて単純に≪経済≫という視点でとらえてみる。
そこで、今回は
「自由」と「平等」を対立する概念として定義する。(経済という視点から)
「自由」は自由競争の自由。
つまり経済的格差がいくら広がろうと自由競争なのだからかまわないという概念。
これに対し
「平等」は結果の平等。つまり経済的格差の少ない社会を目指す概念。

 

自由-------------------------------------------・-------------------------------------------平等

 

これがどちらに傾きすげても共同体「国家」は破たんに向かう。
それは歴史が証明している。
「平等」に傾きすぎて破たんした例が旧ソ連である。説明の必要はないと思う。
「自由」に傾きすぎて破たんした例がフランス革命である。
当時は人口の3%の第一身分、第2身分(貴族と聖職者)が富を独占し、
しかも免税特権を持っていた。
この特権階級から税を取るべきだ(対外戦費を賄うため)
というところから革命は始まっていくのだが・・・

つまり、何が言いたいかというと
「自由」と「平等」という対立する概念のどちらかが正しいのではなく、
常にそのバランスが大切なのだ。
もし、「平等」に傾きすぎているならば「自由」にシフトすべきだし、
もし、「自由」に傾きすぎているならば「平等」にシフトすべきなのだ。

さて、今回のアメリカ大統領選だが、
「1%の富裕層が富のあらかたを独占し、残り99%が残りを分けあう」
とよく耳にする。
幾分かの強調はあるのだろうがおおむね実態を表しているのだろう。
だとすれば、「自由」にシフトすべきなのか、
それとも「平等」にシフトすべきなのか?
答えは火を見るよりも明らかだ。
そして、二大政党制のアメリカでより「平等」側に立脚するのが、
もちろん「民主党」である。
その「民主党」の代表がヒラリー・クリントンだ。
TPP、移民問題、女性問題、メールの私的利用、レイシズムにつながる発言、
等々いろいろな情報が飛び交ったが、
トランプ氏とクリントン氏どちらに投票すべきか「残りの99%の人たち」にとって
それほど難しい選択ではないと思うのだが・・・

私は決して政治に詳しいわけではない。
ただ、物事の本質はいつも単純だと思っている。
大切なのはあふれる情報から本質を見極める力なのではないだろうか?

何もわかってないのに偉そうなこと言うなと思う方はコメントをください。
お待ちしております。

今回落ちはありません。あえて言うならヒラリーが落ちませんように!

 

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祈り

 以心伝心という言葉がある。

 例えばフットボールのチームでもオーケストラでも、職場でも、家族でも、

長い時間を共有していると口に出さずとも気心が伝わるようになる。

 そこには共有する無意識とでもいうべきものが生じる。

そしてそれがしっかりしているほどチームとして集団としてうまく機能する。

まさに以心伝心なのだ。

 脳の仕組みがまだ解明されないから想像の域を出ないのだが、

そのような仕組み、電気信号なのか化学物質なのか、

シンクロと呼ぶべきなのかわからないが、

そういう力が我々人間にも備わっている。

経験的にわかってきた。

経験的に。

(無論、動物には人間以上に備わっていると思われる。例えばイルカとか)
 

で、私事で恐縮なのだが最近職場で暇なときは、

「部所の皆さんがのびのび活き活き働けるように」

と心の中で考えている。

以心伝心で伝わればよいし、

伝わらなくても暇がつぶせて、どちらに転んでもよしだ。

 そんなことを続けていてある時、ふと気づいた。

これはひょっとして「祈り」という行為かと!

だとしたら「祈り」というのも馬鹿にできないぞと。

宗教とか神様がどうこうという話ではない。

私のうちは仏教だが私は自分の宗派すら知らない。

ついでに言うと日本史に詳しくないので宗派の違いもよくわからない。

 基本的に宗教に無頓着な人間だ。

だから宗教で出てくる「祈り」というのが私はなんだかよくわからなかった。

 だが、この以心伝心が「祈り」の根底にあるのだとしたら

ちょっと意味が分かる気がする。

 みんなで以心伝心しているのかもしれない。

 問題は何を以心伝心するかだ。

 私には世界の平和とまでは想像が及ばないが、

 せめて家族や友人や職場の人たちが活き活きとのびのびとしていて欲しいとは思う。

 これが私の「祈り」の及ぶ範囲なのかもしれない。

 この範囲がでかくなると人はそれをカリスマとか宗教と呼ぶのだろうか?

 もしかするとこういう力は子供のほうが大きいのかもしれない。

 なんせ大人になると目先のことでいっぱい、いっぱいだから。

 そう考えると「イマジン」という曲をつくったジョン・レノン

 すごい人だったんだなと思う。

 

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 何度も言うが私は宗教とか神様とかには興味はない。
 私が信じるとすればそれは「おやつ神様」だけだ(笑)。
(『おやつ①~⑤』おおおひなたごう著)より

http://www.badtaste.sakura.ne.jp/page_thumb221.html

漫画と本

 「漫画なんか読んでないで本を読め!」
と、言われて育ってきた。この言葉の背景には
≪漫画のほうが本よりも文化的に劣る≫
という認識があってのことと思う。本当にそうなのだろうか?考えてみた。よく言われるのが、本のほうが文字で認識する分、情報量が多いし、想像力を働かせる。だから本のほうが文化的に優れている。という説だ。確かにそうかもしれないが、それだったら「モナリザ」を美術館に展示する意味はなくなる。文章で

「この絵は16世紀初頭、イタリアでレオナルド・ダ・ヴィンチという人により描かれ、中年女性の上半身がやや斜め正面から見た構図になっており、その女性は不思議な笑みを浮かべており云々。」
とでも描写して、あとは想像に任せればよいわけだ。極論すれば絵画の意味はなくなる。絵画と漫画の絵では価値が異なると考える方もいるだろうが、それは違うと思う。(『漫勉』NHK)を見る限り、漫画家の先生方も身を削って絵を描いている。魂のこもった絵だ。それに映画という表現手段が文化的に認められているのに、その原作となることが多々ある漫画が社会的に認められないのはおかしな話だ。要は漫画にしろ小説(本)にしろエンターテイメントであるのなら問題になるのは、どれだけ読者の心を震わせたか、心に響いたかだ。その表現形式が文字であれ、絵であれ、よいのではないだろうか?

 漫画が海外で認められて(クールジャパン)初めて自国の人間がその価値に気づくというのは浮世絵が海外でその価値を認められたのと同じで、何か少し情けない感じがする。自分の意志を持つためには自分に自信を持つことが必要なのだろうか?
 ちなみに私は自分の自信のなさについては自信がある(笑)。

 

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5歳のモネ

 NHKの『クローズアップ現代+』で相模原の障がい者施設での事件を扱っていた。

殺害犯の「障がい者は必要ない」という意思表示に対し、ジャーナリストの池上彰氏が

「人権の大切さを学ばねばならない」

という趣旨のことを述べておられた。私も高校の授業で

「誰もが生まれながらにして持つ人権」

という文言を暗記した覚えがある。「人権」という概念の成立過程をもっとよく学んでおけばよかった。今からでも遅くはないので、ロック?ルソー?をちゃんと読んでみようと思う。今わかる範囲で「人権」について考えてみた。 

 先日モネの絵が見たくなって(決して絵画に詳しいわけでも何でもないが)「モネ」で画像検索した。たくさん出てきた中でひときわ心惹かれた絵があった。調べてみたら、それはモネ本人の絵ではなく

「5歳のモネ」

と評された当時5歳の女の子の絵だった。この女の子は自閉症で人と目を合わせようとせず、言葉を発しなかった。だが、親が絵具を与えると、とても5歳の子供とは思えない絵を描いた。描くという表現手段を獲得してからこの子は徐々に心を開き、言葉も話すようになっていったらしい。 

 この女の子には才能がある。それは本当に素晴らしいことだ。両親もそれを発見できてうれしかったと思う。ただ、もし絵が描けなかったとして、もしくは下手だったとして、そのことでこの女の子に対する両親の思いは変わっただろうか? 

 そんなことはないと思う。世間の評判とか、損得勘定とは別のところで、この女の子は両親にとって大切な存在だと思う。おそらくそれが愛情というものだろう。愛情に実体はない。愛情とは関係だ。それは血縁とは限らない。血のつながりがなくても強く深く結びついた関係はあるからだ。どれだけ深く、かつ多くかかわってきたか、つまりコミュニケーションの密度と量が問題なのだ。コミュニケーションの密度と量に比例して愛情も深まるのかもしれない。何が言いたいかというと、障害があろうがなかろうが、血縁関係があろうがなかろうが、コミュニケイトする誰かがいる、つまり愛情を注ぐ誰かがいる以上、すべての人に価値があるのだということだ。その意味で「障がい者は必要ない」という発言は間違っている。 

 健常者であれ、障がい者であれ、誰にでも「人権」があるからそのような考えは許されない。と言えばそのとおりだ。ただ、この「5歳のモネ」から考えるに、「人権」という概念を実質的に成り立たせているのは、やはり「その人と関わりをもつ誰か」の存在なのではないか。たった一人で誰ともかかわることなく生きている人がいたとする。この人に「人権」はあるだろうか。もちろんある、生まれながらに持つのだから。だがその場合、「人権」は非常にあやふやなものになってしまうのではないか?たとえ憲法なりなんなり(自然権)が保証していてもだ。だからこそ孤独な人を作るべきではない。人は何らかの形で誰かとつながるべきなのだ。誰でも趣味や共通の話題を分かち合えるように、孤独な人は孤独という状況を分かち合える誰かが必ずいるはずだ。と思いたい。私自身この文章を書いているのは誰かとつながりたいからかもしれない。

 ついでに言うと、それが将来的に印税生活につながるなら、もう言うことはない(笑)

www.cnn.co.jp

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YES

 以前に比べてよく本を読むようになった。 いくらか(といってもわずかなものだが)読んでみてわかったのだが、私が面白いと思う本には共通点がある。みな文体がシンプルでリズミカルだ。 一文に形容詞が二つも三つもあったり、不必要に難解な言い回しがされていたりすると辟易してしまう。主語と述語がはっきりしないのも問題だ。 もっとも、外国作品に関しては訳者による違いが大きいと思われるが・・・。 

 「良い小説とは、普通の教育を受けた者であれば誰にでも読めるものだ。」とサマセットモームという小説家が述べている。私も賛成だ。文章であれ、家電であれ、良いものは常にシンプルだ。単純にそのほうがわかりやすい。 

 さてここからが本題なのだが、ここまで述べてきた通り、文章は簡素なほうが良いと仮定し、小説の無駄な装飾をそぎ落としてシンプルを極めた結果として残るのは何か?

題名を見て、勘のいい人はすでにお気づきと思われるが、そう、オノ・ヨーコさんなのだ。 ご存知の方も多いと思われるが、オノ・ヨーコジョン・レノンのなれそめが以下だ。

 彼女の個展に訪れたジョンが、部屋の中に脚立が置いてあるのを見つけ、それに登ってみると、上から虫眼鏡がつり下げられている。天井を見ると小さく「YES」とあったそうだ。〇と書くか✖と書くか、HelloにするかGoodbyにするか、あるいはもっと突拍子もないものにするかは人それぞれだろうが、ヨーコさんにとってはそれが「YES」だったわけで、そのようなヨーコさんにジョンはハートをキャッチされたのだろう。このように見てくるとオノ・ヨーコさんがそうだったように、小説も一つのメッセージなのだと思う。徹底的にNOを突きつけることででしか新たな希望は見えてこないという作家もいれば、途切れながらもYESは続くんだという作家もいる。人の業に対し最後には笑ってYESというのが古典落語なのかとも思う。それぞれに面白い。 笑いとメッセージと言えば私がこよなく愛するのが、小島よしおさんの「そんなの関係ねー!」だ。最近は子供に大うけだと聞いているがうなずける。子供はいつだってパンクだ。どうでもよい話だが、もしこれを英訳すると

Its   none   of   your   business  !  直訳(そんなの関係ねー!)

となるのだろうか?興味は尽きない(笑)。

PS.小島さん是非、海外進出を視野に入れてください。応援しています!

 

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相撲における八百長と北野武さんの発言に対して

 以前、北野武さんが相撲の八百長騒動の際に 「相撲における八百長は是か非か?」

という質問に対し、

「相撲は豊作を祝って奉納する儀式である。つまりスポーツではないのだから、八百長は非ではない。」

という趣旨の発言をされていた。北野さんのこの発言に対し、時間がかかったがやっと自分なりの答えが出た。以下に示したい。三段論法で説明すると

 

①「文明」が長続きするには「平和」であるに越したことはない。

②「平和」を持続させるためには「調和」が必要である。

③「調和」には「真剣勝負」はいらない

 

 つまり文明を長続きさせるためには「真剣勝負」は必要ないのである。裏返すと、平和な時と場所に暮らす人々は「真剣勝負」に飢えているともいえる。ローマ時代に剣闘奴隷がいたのも、現代社会で各種勝負事、フットボール、ボクシング、囲碁、将棋、チェス等々が盛んなのも、これら真剣勝負に飢えた人たちが、自身の満たされない思いを各々に託しているからではないだろうか?過去においても現代においても、いわゆる見世物としての勝負事のそれが存在意義なのではないか?であるならば、相撲がスポーツであれ、儀式であれ、肝心なのは

「相撲に想いを託す人がいるかどうか?」

ではないか?そこに想いを託している人がいるならスポーツであれ儀式であれ、その思いを裏切ってはならないと思う。そして相撲に想いを託す人は、いる。と思われる。 つまり八百長は非である。というのが私なりの結論だ。北野さんの意見を伺ってみたいところだ。ちなみに私は相撲に興味はない。だからどっちでもいい。

 NHKには申し訳ないが『笑点』のほうが大切だ。司会者も変わり、新たなメンバーも加わり、目が離せない。人を打ち負かすことよりも笑わせることのほうがよほど価値があると思うのも、恥ずかしながら事実だ。もっとも私自身は非常に口下手な人間ではあるが・・・(笑)

 

 

追記

 この文章は矛盾している。「平和」を持続させるためには「調和」が必要と述べている。にもかかわらず「北野武さん」という「権威」にアンチテーゼを示し、その意味で「調和」を乱しているからだ。

 自分でもこれは矛盾していると思った。そのままにしたのは、「調和」のみを重んじ、陽性の反骨精神をすべて排除してしまっては、社会から活力が失われてしまうのではないかと(偉そうにも)危惧したからだ。「調和」にばかり重きを置いていては、「平和」は保たれたとしても、社会は緩やかに衰退していってしまうのではないか?それが良い悪いは別として。社会が持続的に発展していくためには「保守」と「革新」の程よいバランスが必要だと思う。

 

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