どこ吹く風

自分には全く関係・関心がないというように、知らん顔をすること。「何処吹く風と聞き流す」

私的革命

 二千年以上昔の中国に次のような話がある。

「昔『混沌』という目も耳も鼻も口もない化け物がいた。

この『混沌』、ある時人助けをした御礼に目と耳と鼻と口を作ってもらった。

ところがそのとたんに死んでしまった。」

初めて読んだ当時高校生だった私は衝撃を受けた。

なぜ『混沌』は死んでしまったのか?

 目、耳、鼻、口、これらはすべて感覚器官である。

視覚、聴覚、嗅覚、味覚、それぞれが我々に多様な≪情報≫を伝えてくれる。

ではそもそも≪情報≫とは何か?

背が高い人がいる。

我々は何をもとに「背が高い」という≪情報≫を得ているのだろう。

仮に世界中の人がみな同じ身長だったとする。

その際「背が高い」という情報は成り立つだろうか?

否、みな同じ身長では高いも低いもない。

その人より背が低い人が全体の過半数以上いて初めて「背が高い」と判断しうる。

つまりそこに比べるべき対象があって初めて情報は≪情報≫たり得る。

この考えを突き詰めれば≪情報≫とはすなわち「比較」であり「差」であるといえる。

時としてそこには痛みが伴う。

「比較」とは優劣を明らかにすることでもあるからだ。

『混沌』が死んでしまったのはきっと≪この痛み≫に耐え切れなかったためだろう。

私はそんな風に理解した。

同時に≪この痛み≫から逃れるすべはないものか?そんな疑問を持った。

 大学に入り寺の息子とつるむようになった。

一度そいつの実家で、住職の親父さんと三人で飲んだことがある。

親父さんにこの話をしてみた。

「比較という考え方からは逃れられないのですか?」

「答えになってるかわからんが、

お釈迦さま知ってるか?

自分の妻子ほったらかしにして修行に出た困った人なんだけどさ。

この人はどういうこと言ったかというと、

とにかく欲から逃れたいって言ったんだ。

あらゆる欲からさ。

でも考えたら贅沢な話だろ。

すべての欲から逃れたいなんてさ。

それ自体が一番の欲だっての。」

 目から鱗だった。

お坊さんとは偉いなあと感服した。

このとき壁を超えたような気がした。

その壁は人生の要所要所で現れる、

そういうたぐいの壁だ。

苦も無くそれを乗り越える人もいれば、

私のように時間のかかる者もいる。

だが、いずれは自力で乗り越えねばならない。

でないと『混沌』のような結末になってしまうからだ。

手こずっている人はこの文章をてこにしてほしい。

役に立てれば幸いだ。

 後に友人から聞いたのだが、

ありがたい言葉をくださった親父さん、

財テクに余念がないそうだ。これだから面白い。

 

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『         』

 「一回宇宙に行ってみてえな。」

という私に対し

「ふん、宇宙には誰もいねえからな。」

というのが友人の返答だった。

 今までで一番イカシタ会話を挙げろと言われれば必ずこれが来るだろうし、

この先何年たってもやはりこれのような気がする。

残念なのは相手が男だったことだ。

私がこの会話を”イカシテル”と思うのは次のような理由からだ。

 2002年6月、サッカーワールドカップに日本中が熱狂した。

日本チームのプレイに国全体が一喜一憂し、

ある解説者の言葉を借りるならば「日本が一つ」になった。

日本代表を応援するという行為を通じて

我々は感情を共有したのである。

 人は感情を共有することが好きだ。

お気に入りのCDを薦めたり、

わざわざ映画館に足を運んでホラー映画を観たりするのはこのためだろう。

「怖い」という感情すら我々は共有したいのだ。

我々のDNAには

「感情を共有することへの欲求」

が書き込まれているのかもしれない。

 確かに「感情を共有する」のは素晴らしい。

個々人では得られない大きな力を我々は手にすることができる。

その喜びは言葉では表せない。

しかし良い事ばかりではない。    

 4年前1998年ののフランスワールドカップ、

3敗という結果で帰国した代表選手にサポーターがコップの水をあびせる

という出来事があった。

何が彼をあのような愚行に駆り立てたのだろう。

彼だけが日本代表の結果に不満を抱いていたのならばあんなことにはならなかった、

と私は思う。「みんなも自分と同じように感じている」という認識、

それが彼の中であのような行為を正当化させる

「感情的根拠」

になっていたのではないか。

でなければ言葉を交わしたこともない他人に対して

なぜあれほどの怒りを抱くことができるのか、

私にはわからない。

彼の行為もまた「感情の共有」のなせる業なのではないだろうか。

 人間には「感情を共有することへの根源的な欲求」がある。

ただしそれは喜びや笑いといった正の感情だけではない。

憎しみや、怒り、といった負の感情もまた我々は共有する。

歴史上、宗教に起因する戦争が残虐なのも、

社会に「スケープゴート」とか「いじめ」

という言葉が存在するのもこのためではないだろうか。

 思うに「感情の共有」とは劇薬なのだ。

効き目は大きいが、副作用もまた大きい。

用法と容量を間違えると困ったことになる。

きっとあのサポーターは使用上の注意をよく読まなかったのだろう。

もっともそんなものはじめからない。

自分に合った用法・用量を自分で見つけるしかないのだ。

ただ、飲みすぎには注意したい。

薬なんてたまに飲むからこそ効き目があるのだから。

 前置きが長くなったが、

今にして思えばあの時、

ごく短いフレーズの会話を通して私は友人と分かち合うことができたのだ、

「分かち合わないことの価値」を。

イカシタ会話”なわけである。

ちなみにこの友人は今”あのベッカムヘアー”にしているらしい。

ブームが去ったころにやるところと、

洒落た美容室でなく”なじみの床屋”で”なじみの親父”

に切ってもらったところがいかにも彼らしい。”イカシタ”男である。

 

※分かち合いたいもの、分かち合いたくないものについて家族会議で話し合ってみよう。

例 分かち合いたいもの(笑い、思い出)

例 分かち合いたくないもの(お父さんの歯ブラシ)

※この文章に題名をつけてみよう。

※「私」にとって友人はどのような存在でしょうか。「私」の気持ちになって考えてみよう。また、男女間に真の友情は成立するか?とことん考えてみよう!

 

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図書と見方と坊ちゃんと

 「有名な童話に『裸の王様』というのがある。

あれは一見、

王様や大臣の人目を気にするあまり騙されてしまう愚かさと、

子供の他人に惑わされない無垢さをうたった話のようだが、

そうではない。

あの話の作者が本当に言いたかったのは、

うまい口車で貰うもの貰ってさっさととんずらした二人の仕立て屋の賢明さである。

世の中いろんな役回りの人間がいるが、

できるなら僕もこの仕立て屋のようなスマートな人間になりたい。」

 これはちょっと昔にある中学生が書いた文章です。

果たしてその中学生が彼の言うスマートな大人になれたか、

又それが彼の本心だったか否かは解りませんが、

なかなか面白いことを言うなと今でも思います。

この文章を私が面白いと思うのは、

普通見過ごしがちな仕立て屋に対して

彼がユニークな”見方”をしているからです。

このように一つの物事に対していろいろな”見方”ができるというのは

とても重要なことだと私は思います。

この”見方”がたくさん詰まっている場所が学校にもあります。

それが図書室です。

私が学生時代お世話になった先生が常々

「早起きして私の授業を聞きに来るくらいなら、

その分好きな漫画でも本でも読んでなさい。

そこからいろんな物の見方を学んだほうが

よっぽど君らのためになる。」

とおっしゃっていました。

良言です。

この学校の図書室にもたくさんの本や漫画があり、

いろいろな”見方”が詰まっています。

生徒の皆さんは是非利用してみてください。

(私もよく利用しています)

今まで知らなかったいろんな”見方”が見つかるはずです。

ちなみに最近の私は『坊ちゃん』の”見方?味方?”です。

ピンときた方はどうぞにこりと笑ってやってください。

ピンとこない方は図書室へ!

彼のスマートでないところが私は結構気に入っているのです。

どうです、なかなかスマートなオチでしょう?

(なお『裸の王様』はアンデルセンの作です。)

 

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矛盾

 小学生のころ、

世界中のみんなが幸せになれればいいのにと思った。

でも同時に、

「他人より幸せであることに幸せを感じる自身」

にも気づいていた。

矛盾だ

あの頃感じた矛盾は今も変わらない。

だれかこの矛盾を解決してくれる人はいないだろうか?・・・・

そういう人にこそ政治家になってほしい(笑)