どこ吹く風

自分には全く関係・関心がないというように、知らん顔をすること。「何処吹く風と聞き流す」

幸せへの近道

 年のせい?と言うわけでもなかろうが、最近≪幸せ≫についてよく考える。幸せの定義は人それぞれだろうが、この年になって1つ分かったことがある。もしかすると自己完結的に聞こえるかもしれないが、要は『自分を好きになれるかどうか?』ではないだろうか?なぜこの答えに行きついたかと言うと、逆説的ではあるが、ほかの面でどんなに恵まれていようとも、自分のことを好きになれない人間が幸せになんかなれっこない。そう思ったからだ。

 

 そうだ、誰だって自分に自信を持ちたい。自分を好きになりたい。ではどうすれば自分を好きになれるのか?どうすれば自分を愛せるのか?私が思うに、そのためには≪鏡≫が必要だ。いや、文字通りの鏡ではない。実際の鏡を見てそれで自分を好きになれるのなら世話はない。そりゃ単なるナルシストだ(笑)。そうではなくて自己を映す存在としての≪鏡≫つまり≪他者の存在≫が不可欠なのだ。言い換えると他者から愛されてはじめて自分を好きになれるのではないか?そう思うようになって久しい。ではどうしたら他者から愛されるようになれるのか?

 

 もし、あなたに何かオンリーワンの才能でもあれば話は早い。北野武さんや大谷翔平選手のような唯一無二の才能でもあれば・・・。でもそんな人ちょっくらいない。何故ってオンリーワンは他にないからオンリーワンなわけだから・・・。

 

 では、我々凡人はどうしたらよいのか?何をもって他者から愛されるに値する存在足りうるのか?そこでやはり思い浮かぶのは親であり保護者の存在だ。もしあなたが誰かの親であり保護者であるのなら、子供をもしくは被保護者を愛するべきだ。特に母親は。それも掛け値なしで。私は父にも母にも愛してもらった。特に母の愛情は十分すぎるほどで、それは時に彼女の自己本位的な側面がないでもなかった。それに比べ父のそれは常に私という存在を自分とは別の人格として尊重してくれたように思う。また私の母方の祖父からは、それこそ掛け値なしの愛情を注いでもらった。あれこそ無償の愛だったと今にして思う。よく「漣君は大器晩成だからな!」とかわいがってもらったのを昨日のことのように覚えている。今の私?があるのはまさしくこのおじいちゃんのおかげだ。

 

 悲しいかなしかし、おじいちゃんにしろ、父にしろ、母にしろ、いつまでも生きていてはくれない。我々には我々をオンリーワンとして愛してくれる存在が新たに必要になってくる。大谷翔平選手のような、みんなにとってのオンリーワンでなくともよい。でも少なくとも誰かにとってのオンリーワンでありたい。そう思うのは自然な事だろう。そのようにして、我々はその片割れを求めるのかもしれない。そのうちに子供ができ、今度は我々が親となり、彼、彼女らを愛し、そうして年老いて・・・。そんなことを繰り返して人類は今に至ったのではないか?とそんなことを考えた。

 

 で、結論として何が言いたいかと言うと、もしあなたが人の親もしくは保護者であるのなら子供たちを、被保護者を愛せと!そして愛情ってコミュニケーションの時間と密度だよと!もっと言うなら一緒にいてやることだよと!自分が人の親になった事もないのに偉く生意気なことを申しました。ごめんなさい。でも、言っていることはおそらく間違っていないと思うのです。そしてもっと言ってしまうと私の愛は多分、多分大きいのです。それこそモハメド・アリの如く・・・(笑)。最後は誇大妄想的なことを述べましたが、お子様がおありの皆さん、保護者である皆さんは子供たち被保護者たちを精一杯愛してください!それがあなたの、そしてお子さんや被保護者たちの幸せへの近道です。ではまた!

impossible is nothing

 

自由

先生、何考えてるの?

 

いやちょっとね。みんなはロシアとウクライナの戦争知っているよね?

 

もちろん

 

どっちが悪いと思う

 

そりゃロシアでしょ

 

そうだね。アメリカをはじめ多くの国々はウクライナを応援している。日本も含めてね。でもどうして?どうしてロシアが悪いの?

 

先に仕掛けたから!

 

それもある。ほかには?

 

プーチンが悪い

 

なるほど。ほかには?

 

アメリカのバイデン大統領は「自由と民主主義を守るための戦い」と言っているよ。

 

そうだね。逆に言えばロシアは言論統制をしたり、政府に反対するナワリヌイ氏を殺してしまったりしている。ではなぜ自由と民主主義を守る必要があるの?

 

それは・・・・・・?

 

自由と民主主義がなぜ尊いのか?先生はさっきからそれを考えていたんだ。

 

何故尊いの?

 

そうだな・・・。みんなはイノベーションってわかる?

 

あれでしょ。技術革新とか?それまでの仕組みを大きく変えてしまうような・・・。

 

そう、辞書的には「革新的な技術や発想によって新たな価値を生み出し、社会に大きな変化をもたらす取り組み」のことを言う。

 

それがどう関係あるの?

 

例えばみんなが今着ている服だって、食べている給食だって、昔は手作業で作っていた。今は機械で作っているよね。そのおかげで品質のいいものが、おいしいものが大量に安く買えるようになった。つまりイノベーションのたまものなんだ。

 

あっ産業革命って奴ですか?

 

そう、それに昔は王様がいて、貴族がいて、平民がいて、奴隷がいて。奴隷をお金で売買するのが当然の世の中だった。それじゃダメだってみんな平等なんだって世の中の仕組みを大きく変えたのが・・・?

 

解った市民革命だ!

 

そうなんだよね。産業革命と市民革命は人類の歴史におけるイノベーションの代表例なんだ。その最たるものはコペルニクスの地動説なんじゃないかと先生は思っているんだけど・・・。まあそれは今はいいや。とにかくこういったイノベーションが起きなかったらと思うとぞっとするね。先生なんかは今頃どこかで使えない奴隷としてこっぴどい扱いを受けていたかもしれない。イノベーションが起きなかったら歴史は堂々巡りだ。その意味で歴史ってイノベーションの積み重ねなんだ。では、そのイノベーションを起こすためには何が必要なんだろう?

 

お金?

 

他には?

 

解った!労働力だ!

 

それもあるね。ほかには?

 

そもそも、金とか人手はあっても、思いつかなきゃ始まらないだろ!頭だよ頭!

 

そうだね近づいてきた!みんな頭はあるよ。どんな頭なんだ?頭をどう使うんだ?

 

あっ解った!頭で自由に考えろってこと!つまり自由だ!

 

そう、先生が思うにイノベーションのおおもとは思想信条、良心の自由つまり内心の自由なんだ!内心の自由があって初めてイノベーションが起きる。イノベーションとは内心の自由のたまものなんだ。そして先に挙げた2つのイノベーションの成果が民主主義だ!そういう意味で自由と民主主義は尊いんだ!

 

だから言論統制思想統制をおこなうロシアって悪なんだなぁ~

 

うん、だからもしかしたら、もしかしたら建前だけかもしれないけど、それでも「自由と民主主義」をかかげるアメリカのほうが≪よりまし≫という事になる。

 

なるほど!先生そんなこと考えてたのか。深いね!今日の先生カッコイイや!

 

よせやい!いつもだろ!

 

自由サイコー!

 

おっと、自由には責任が伴うんだ。まずは自分の責務を全うしろよ!君らにっとっての責務、つまりは勉強だ。では今日の講義はここまで!頭洗えよ、歯磨けよ!ではまた!

自由自在(ツーヨウツーツァイ)



 

馬と鹿

私  さあ、今日はみんなに1つありがたい知恵を授けるぜ!聞きたい?

生徒 わーい聞きたい聞きたい!

私  昔々の中国にある年老いた皇帝がいた。天下を統一してやりたいことは何でもやった始皇帝だけど、その皇帝がついに死んじゃう。さて、死んだのが都だったら問題はなかったのだけど、全国旅行の途中で死ぬんだ。死んだときにかれの側に仕えていたのが宦官(かんがん)の趙高。

生徒 宦官て何?
 

私  皇帝が公の仕事をするときには官僚が補佐するんだけど、プライベートの時間に皇帝の世話をするのが宦官。
 宦官は男性性器を切り取られている者たちなんだ。かれらは身分は低く皇帝の私的な奴隷に近い存在。皇帝の身近にいるので、妃たちに近づく機会もあるわけだ。妃たちが皇帝以外の男性とまちがいをおこして皇帝の子どもではない子を産んだりしては困るからね。これが宦官が使われる理由。この宦官は身分的には低くて、役人でもないのだけど、皇帝に身近に接触する時間が長いから、皇帝に成り代わって権力を振るう者もでたりする。皇帝の秘密を知ることもできるしね。

生徒 なるほど

私 さて、趙高たち数人の宦官だけが皇帝専用の馬車に出入りすることが許されていたんだ。皇帝の死を趙高しか知らない。かれはこれを利用して権力を握ろうとした。そこで皇帝の遺言をこっそり見てみた。すると、次の皇帝は長男に譲ると書いてある。長男はこの時、異民族の討伐で北方に遠征中。遠く離れているんだね。始皇帝には何人か息子がいるんだが末っ子の胡亥(こがい)だけが、始皇帝とともにこの旅にでている。そこで、趙高は胡亥にそっと接触して始皇帝の死を告げる。
「陛下の死を知っているのは私とあなただけです。いまなら遺言を書き替えて胡亥様が次の皇帝になることができます。私と協力しませんか?」などといって仲間した。胡亥も皇帝になれるのならと喜んで即位後の趙高の地位と権力を保証したんでしょう。

生徒 悪だね趙高!

生徒 胡亥も

私  まあ、そうだね。そんなこんなで、大行列は咸陽に帰り着いた。
趙高は準備どおり始皇帝の死と胡亥の二世皇帝としての即位を発表した。長男には北方の異民族との戦いで戦果を挙げていないことを理由に自殺するように命令する。皇帝の偽の手紙を送ってだ。

このようにして即位した二世皇帝胡亥はやがて飾りものになってしまう。

実権は宦官趙高が手にするようになった。
宦官は普段は人間以下の存在として軽蔑されているから、権力を握るとやりたい放題になる。政治に対して責任感を持つことはあまりない。ひたすら自分の富と虚栄心を追求するようになるらしい。どうせ子孫もないわけで守らなければないものもないからね。

 

生徒 宦官って悲しいね

私  まあ、そういう見方もできるね
   趙高はやがて自分自身が皇帝になる野心を持ったらしい。自分がどれくらい宮廷の役人たちをつかんでいるのか試してみる。
ある時二世皇帝の前で百官がそろっているところへ、趙高は鹿を連れてきて「馬でございます。」といって献上した。二世皇帝は「趙高、何を言っているのか。角が生えている、鹿ではないか!」と反論した。誰が見ても鹿は鹿だからね。
すると趙高はじろりと居並ぶ百官を見回したんだ。すると、趙高におもねる役人たちは口をそろえて、「陛下こそ、何をおっしゃいます。馬ではありませんか。」
二世皇帝は愕然とする。自分の皇帝の地位なんていうのが実は空っぽのいすだっ

たことに気づくんだね。これが「馬鹿」という単語の・・・?

 

生徒 わかった「馬鹿」の語源だ!

私  その通り!正解!みんなはこの話どう思う?

生徒 百官たち情けない!

生徒 でもあの場にいたらそう言うしかないよ!

私  そうだね。・・・この中で一番腕っぷしの強いのは誰かな?

生徒 Dちゃんだよ!

生徒 うんうん。

私  では、Dちゃんははっきり言えるかな?「それは鹿だって!」

生徒 言えないよ!

私  はははそうだね。言えないよね。何故一番喧嘩の強いDちゃんに話を振ってみたかと言うと、先生は昔から【本当の強さ】って何だろうなって考えてるんだ。その一つの答えがこれかもしれない。

生徒 こういう場面で「鹿だ!」って言えることが?

私  そうだね。もっと拡大解釈すると≪たとえ世界中を敵に回しても≫「間違っていることは間違っている」って言えることが本当の強さかもしれない。

生徒 で、私たちにも「強くあれ」と?

私  そうは言わない。その場で「鹿」って言ったら多分殺されちゃうものね。それじゃ犬死だし。ただね、こういう話が昔あったんだよってことを知っているのと知っていないのでは大違いだとは思う。だから、「強くあれ」とは言わないけど「勉強をして教養を身に着けろ!」とは言いたい!そうすることで少しずつだけど世の中はベター(よりまし)になっていくとは思うんだ。それでねこの話には続きがある。

生徒 聞きたい

私  この馬と鹿の話から1000年以上たった中国の「宋」と言う王朝の時代、時の皇帝によって「文官はいかなる発言であれ、その発言を理由に死罪にすることを禁ず」と彫られた石碑がみなの見えるところに建てられるんだ。

生徒 すごい

生徒 なるほど

私  偉いねこの皇帝。こういう風に歴史ってのは少しずつ少しずつ世の中をより良くしようと積み重ねていくことなんだ。

生徒 歴史面白い!

私  そう、歴史は面白いんだ!歴史を学ぶためにも、まずは学校の授業をきちんと集中して受けることが必要!読み書きそろばん。それに英語もね。

生徒 英語嫌い

私  そんなこと言ってないでちゃんと英語も勉強する事!何でも聞いたところによると、まあ、何でもかんでも欧米に倣えっていうわけじゃないけど、向こうのエリートって呼ばれる人たちは「こいつ話しても無駄だ」って思うと完全にスルーするらしい。

生徒 スルーって無視ってこと?

私  まあね。みんながみんなじゃないと思うけどね。そういう人もいるってこと。

生徒 先生も?

私  いや、私はとてもじゃないけどエリートなんかじゃないし・・・しいて言うなら、エリートくずれと言うか、落ちこぼれエリートと言うか・・・。いやそんなことはどうでもいい。私は無視なんかしないよ。ただね、内心「この子は何も考えずにしゃべるなぁ~しかも人一倍声がデカい!」とかは思うかもしれないね(笑)。だからね、みんなものを考えよう。考えてから喋ろう!で、考えるためには勉強しよう。何度も言うけれど、考えるための訓練が読み書きそろばんなんだ!

生徒 それは解ったけど・・・。先生、エリート崩れって何ですか?

生徒 いや、だからその辺をもう少し考えてから喋れってことだよ先生が言いたいのは。

生徒 先生はな、言っちまったんだよ!「鹿」は「鹿」だって。ねえ先生?

私  (苦笑)いや、今日はここまで!頭洗えよ!歯磨けよ!ではまた!

 

※ 金岡新先生の世界史講義録を参照させていただきました。

「鹿」は「鹿」だ!

 

なぜ世界史はつまらないのか?

2024年3月29日 春期講習 世界史 1日目   文責:長谷川

 

Q:なぜ世界史はつまらないのか?

A:①“暗記”だから

 

~切り口を変えてみよう~

 

例えば、中国史は歴代王朝の名称を順序通りに暗記する必要がある。

それは、もし、もし、かめよ♪ 等のリズムとメロディーで可能だ。

でもそれではあまりにもツマラナイ!

そこで、今日は切り口を変えてみよう!

 

中国は19世紀まで王朝こそ変われど、ずっと “専制国家”であり続けた。

よって、皇帝個人の人間性により、その国家の命運は左右されてきたといえる。

 

名君がずっと続けば何も言う事はない(専制国家で良ければの話だが・・・)

でも無論そうではなかった。

 

暴君、暗君が出ることで、その王朝が短命に終わった例も多々ある。

どんなボンクラの皇帝が出ようが

国家がその命数を永らえるために、何をどうすれば良いか?

それを歴代の中国王朝は模索してきたともいえる。

 

そこで今日は、

あなたが創始者だとして、千年でも万年でも続く専制国家を自由にデザインしてみよう!

 

国家を運営するわけだから当然“お金”つまり税がいる。どれくらい、どうやって集めるか?

人材の確保は?

国防は?

皇帝の暴走を止める仕組みは?

私(長谷川)は都度ヒントを出します。

 

時間は20~30分

 

その後、中国歴代王朝がどのように国家運営の仕組み整備してきたか?解説します。

では、頑張って考えよう!

 

 以上は、私が勤め先で春期講習の70分×3回の授業で使用するつもりだった第1回目の授業案だ。

 

「なぜ世界史がつまらないのか」

 

を考えることで、逆に世界史の面白さを伝えようというコンセプトのもと作成した。対象は高校三年生。ある程度世界史の授業を受けてきたことが前提だ。

 

この後、エクセルで作ったん歴代王朝とその制度を表にしたものを生徒に提示する。自分では無い知恵を絞って作ったつもりなのだが・・・。

 

ここ数週間、こんなことを考えて来たという事で興味がおありの方はご覧ください。ちなみに著作権は放棄しておりません。

                                            長谷川 漣

なぜ世界史はつまらないのか?



美意識をもて!

 最近あるユーチューバーの動画をよく見る。そのユーチューバーはある企業の経営者でもあるのだが、経営者として独り立ちしたばかりの頃はいわゆる“人を見る目”がなかったそうだ。経営者として経験を積みながら“人を見る目”が次第に備わってきたと言う。

 

 さて我が身を振り返って、私には人を見る目があるだろうか?私は採用する側に立ったことなど一度もない。よって、詳しいことは解りかねる。だが、採用側から見て一番重要視するのは最終的に信頼に足る人物か否かではないだろうか?無論、能力的なことは大事だ。でも、長いスパンで見た際、それ以上に大事なのはその人間性だと思う。それは何て言うか自明の事なのだ。

 

 ではその人間性を見極めるにはどうすれば良いか?それをたかだか30分の面接でなど私には到底できない話だ。ただ、ある一定の期間その人を見ていれば、次第にわかってくる事もある。私に言わせれば、それは交友関係に端的に表れる。人の信頼をたやすく裏切るような人間には、そもそも友達がいない。いたとしても上っ面だけの表面的な付き合いの場合が多い。

 

 そしてその手の人間の常として外見上はともかく、内面的な美意識に圧倒的に欠ける。それはそうだ。人並の美意識があったら「信頼」と言う尊い感情を踏みにじったりできない。では美意識って何なのか?そこまで来ると私はいつもこう思う。「結局、自分自身との戦いなのだ。」と。

 

 私事で恐縮だが、私は平気で人を裏切るような薄汚れた人間にはなりたくない。その意味において、私は誰よりも“自分自身のために”他人を裏切らないのだ。他人を裏切るという行為は、つまるところ自分自身を裏切ることに等しいのだ。どこまで自分自身を貫き通せるか?そういう事なのだと思う。

 

 でも、「そこまでして、そのごたいそうな美意識とやらを守って何かいいことあるの?」と問われれば困ってしまう・・・。ただ、例えば北野武さんが平気で他人を薄汚く裏切るような人間だったとしたら『HANABI』のような作品はとてもじゃないが残せないと思う。また、ノエル・ギャラガーが平気で他人の信頼を踏みにじるような人間だったらあのような楽曲残せないはずだ。

 

 偉そうなことを言うようだが、芸術って、感性ってそういうものなのだ。で、私のつづる文章にも“それ”は現れる。もっとも、もし欠片でもあればの話だが・・・。そして私の文章に興味を抱いてくださる皆さまにも“それ”はあるのだと思う。そこで共鳴する何かがあればこそ、読んでいただけるのだと理解している。

 

 で、最終的に何が言いたいかと言うと、美意識を持とうよ!という事か。私はそういう人間と付き合いたいし、“それ”を失っちまったら人としてお終いだとも思う。そんなわけで、窮屈にならない程度の美意識は必要だ。人として在りたいのであれば。と言うのが私の持論です。偉そうでごめんなさい(笑)

いい顔してる!

Oasis - Whatever (Official Video) (youtube.com)

 

教養としての数学

 数学に興味がある。以前にもこのブログで述べたが、学生時代私は数学が一番苦手だった。点さえ取れれば良いと、公式を丸暗記してテストに臨んでいた。「考える」という最も肝心な部分をおろそかにしていたのだ。結果、思うように点数が伸びず、苦手意識を持つ。その苦手意識から分不相応な難しい参考書に手を出す。結果、余計に苦手意識を持つ。その繰り返しだった。そんなわけで、今再び点数にこだわらない【教養としての数学】を学んでみようと思っているのだ!

 

 その他にも理由はある。仕事上、世界史のほかにも文系教科である現代国語を教える機会がある。その際、私は自分でも驚くくらい【楽しんでいる自分】を発見した。理由を考えてみた。

 

 世界史を教える醍醐味は、歴史上の様々な人物を紹介できる点にあると私は思っている。剣に生き、剣に倒れた武将。その命を賭して真理を追究した科学者。「そんなことは聖書に書いてない!」と時の権力者にたてついた宗教改革者。死の間際、いっぱいの紅茶をたしなみ「これでよし!」とのたまった哲学者。どれも面白い。その状況下で、それをやるか?と言いたくなるような行動をとる。人間って面白いのだ。歴史とはその人間たちが織り成す絵巻物だ。また、もう少しうがった見方をするならば、世界史の授業は蓄えた知識をどういう切り口で生徒に見せるか、そこに工夫の余地があり、それこそが面白いともいえる。

 

 それでは現代国語を教えた時私が感じた面白みとは何か?一言で言うとより抽象度が高い。これに尽きる。世界史が主に“知識”を扱うのに対して、現国(現代国語は)より抽象的な事柄を扱う。それは異文化論であったり、科学思想史であったりする。取り扱う内容そのものが抽象的なのだ!つまりより考える余地がある。そこが面白い!

 

 そこで考えた。文系理系の垣根を取り払うならば、もっとも抽象的な事柄を扱う教科は何だろう?それこそが数学なのだ!

 

 そんなわけで、私は今数学に興味がある。もちろん人様に教えようとかそういうレベルにはない。自分自身の趣味として教養として、学びなおしてみたいと思うのだ。そう言えば北野武さんは数学が得意で、東大に合格した友人にも数学を教えていたのだとか・・・。もしかしたら、数学が扱う抽象的な事柄の、その向こうに芸術があるのかもしれない。そんなことを考えた。

 

そんなわけで、今再びの数学が私の中で来ているのです!

旺文社のいちばんやさしいレベルの参考書です!



理性と感情と

 先日、公共の温泉施設に両親を連れて行った。その際、ふろ上がりに親父が施設に備え付けの図書コーナーで『マンガで読むギリシャ神話』を若干恥ずかしそうに読んでいた。≪若干恥ずかしそうに≫と言うのは、うちの父は常々私に対して「マンガなんて読んでないで本を読め!」と繰り返し叱責してきたためだと思う。戦中生まれの親父は、【マンガ=くだらないもの・幼稚なもの】という図式が頭の中で出来上がっていたのだろう。いつも難しそうな本を、難しそうな顔をして読んでいた。

 

 それに対し、私は「マンガがくだらないかどうかは読んでから判断すればいい。そもそも、難しいことを難しく書くのはナンセンスだよ。本当にきちんと理解している人は、難しいことを解りやすくかみ砕いて伝えることができる。言い換えると抽象的な概念を具体的に表現できてこそ、本物だよ!マンガにはそれができる。」と、理でもって説いてきた。でも父は一向にそれを受け入れなかった。結果父と子の溝はなかなか埋まらなかったのだが・・・。

 

 その父がマンガを読んでいる。私は半ば嬉しく、また半ば尊敬の念をもって父を眺めた。80を超えた人間が自分の誤りを認め、その方針を転換するというのは、なかなかにできることではない。その率直さが私にはまぶしかった。何故、今になって翻意することになったのかはわからない。何かしらの変化が彼の中にあったのだろうか?なんにせよ、親父にとって、長谷川家の本棚にとって大きな一歩だ。

 

 親父は田舎で物理の教師をしていた。だからと言うわけではないが、私は理(ことわり)でもって説いてきたつもりだった。それがこのように時間がかかってしまったのは物の理(物理)など所詮、人間の感情にはかなわないという事か?

 

 人がほかの何よりも理によって動く生き物なら、どれだけ時間と労力が省かれるだろう?なぜもっと人間は理性的になれないのか?そういう、ひょっとすると驕り高ぶった?思いが私にはある。同時に父がマンガを読んだことに対して「嬉しさ」だとか「尊敬の念」だとか、そういった感情を抱く自分がいるのも事実だ。

 

 理性か?感情か?

 

 なかなかに人間と言うのは難しい。でも、だからこそ理解する面白みがあるというものだ。そんなわけで、今後も人間をテーマに文章を書いていこうと思う。

神話って面白い!