どこ吹く風

自分には全く関係・関心がないというように、知らん顔をすること。「何処吹く風と聞き流す」

文学の限界と時代性

 先日、文藝春秋の元編集者である岡崎正隆氏の講演会「芥川賞直木賞秘話」に参加した。芥川賞直木賞にまつわる知られざるエピソードや、長年、出版編集者として携わり、作家との関わりの中で知り得た様々な裏話などを聴く事が出来た。講演の終わりに質問タイムがあったので質問してみた。

文学賞、特に芥川賞などは、それまでにない新たな文学のテーマを開拓したことに対して贈られると理解しています。ただ小説を読んでいるとたまにこの作家の作品はもっと以前の海外作品ですでに扱っているテーマを装い新たに提示しているのでは・・・?と思う事があります。文学というものはそれこそ何千年という歴史を持っているわけです。そう考えると、もうあらかたのテーマは汲み尽くされているのではないでしょうか?」

 対して岡崎氏は少し考えられた後、

「確かに同じようなテーマを扱った作品というのはあります。ただ、時代性というのはあります。(『コンビニ人間村田沙耶香)を読みました?あの作品はまさに時代性があると思います。その点でテーマは尽きることはないのでは・・・。」

とおっしゃられた。司会者が「時間の都合もありますのでこの辺で・・・。」との事だったのでそれで終わりになったが、私としてはもう少し聞いてみたかった。『コンビニ人間』には確かに時代性がある。ただ、普遍性はあるだろうか?言い換えれば30年後、50年後に『コンビニ人間』は残りうるだろうか?作者の村田さんには悪いが、そうは思えない。私の質問がまずかった。「普遍的なテーマはすでに語り尽くされてしまっている。」と言えばよかった。そうなのだ。普遍的なテーマは確かに語り尽くされているのかもしれない。あらゆる恋愛劇の原型がシェイクスピアに遡り、そしてシェイクスピア自身がそれまでの作品を原型として物語を構成しているように。あらゆるテーマを語り尽くしてしまった場合、人は何をテーマにするのだろう?そんなことを考えていた折、第25回芥川賞受賞作、安部公房の『壁』(Sカルマ氏の犯罪)を読んだ。それで気づいたのだが、テーマに行き詰った際のひとつの出口としてはテーマ自体をテーマにするという手法があるという事。つまり恋愛についての物語があるように、物語についての物語もあるわけで、いわゆるメタ小説なる分野があってもよいのではないだろうか?などと考えた。安部公房さん自身はルイス・キャロルの影響を受けていると述べている。なるほど、カフカの『変身』の様だと思ったが全編読んでみると『不思議の国のアリス』的でもある。おそらくどちらも読んでいるのだろう。そしてこの作品(Sカルマ氏の犯罪)が世に出たのが1951年の事だ。50年以上前の作品だが色あせない。普遍的だ。     

 1つ解ったのはどの作品もそれ単体で存在しえたわけではないという事。つまりゼロから生まれる作品はないという事。本でなくとも実体験をベースに書かれた作品もあるわけで、やはりゼロから生まれたわけではない。そう考えると、いろいろなテーマの作品を読んでおくに超したことはないわけで、でも使える時間は限られているのだから、できるだけ効率よく読む必要があるわけで、するとやはり古典と言われるものを読むのが良い。という結論に落ち着く。何だか当たり前の事を再確認してしまった。やれやれ。

 

『壁』(Sカルマ氏の犯罪)のあらすじは以下の通りです。(ウィキペディアより)

ある朝、目を覚ますとぼくは違和感を感じた。食堂でつけをしようとするが、自分の名前が書けない。身分証明書を見てみても名前の部分だけ消えていた。事務所の名札には、「S・カルマ」と書かれているが、しっくりとこない。驚いたことには、ぼくの席に、「S・カルマ」と書かれた名刺がすでに座っていた。名刺はぼくの元から逃げ出し、空虚感を覚えたぼくは病院へ行った。だが、院内の絵入雑誌の砂丘の風景を胸の中に吸い取ってしまったことがわかり、帰されてしまう。ぼくは動物園に向かったが、ラクダを吸い取りかけたところを、グリーンの背広の大男たちに捕らえられ、窃盗の罪で裁判にかけられることになった。法廷には今日会った人々が証人として集まっていた。

その場を同僚のタイピスト・Y子と逃げたぼくは、翌日に動物園でまた彼女と会う約束をして、アパートに帰った。翌朝、パパが訪ねてきた。その後、ぼくは靴やネクタイに反抗され時間に遅れて動物園についた。Y子はぼくの名刺と語らっていた。よく見るとY子はマネキン人形だった。ぼくは、街のショーウインドーに残されている男の人形から、「世界の果に関する講演と映画」の切符をもらった。行くと、せむしによる講演と映画が始まった。ぼくはスクリーンに映っているぼくの部屋を見た。やがてぼくは、グリーンの背広の大男たちにスクリーンの中へ突き飛ばされ画面の中に入った。画面の中のぼく(彼)が壁を見続けていると、あたりが暗くなり砂丘に「彼」はいた。そして地面から壁が生えてきて、そのドアを開けると酒場だった。そこにはタイピストとマネキン半々のY子がいた。

別のドアから「成長する壁調査団」となったドクトル(病院の医者)とパパの姿をしたユルバン教授が現われ、「彼」を解剖しようとするが、「彼」は機転をきかし、難を逃れた。その後、ユルバン教授は、ラクダを国立動物園から呼びよせ、それに乗り、縮小して「彼」の中を探索するが蒼ざめて戻ってきた。ドクトルとユルバン教授は、調査を中止し逃げていった。ただ一人残された「彼」は、壁そのものに変形していく。

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独特の寓意とユーモア。大人になって分かる、そんな小説です。