俺が地球を・・・

芥川竜之介の晩年の作品に「河童」がある。ある男が河童の世界に迷い込んでそこで河童と生活を共にするという話なのだが、これが当時の日本社会・人間社会を痛烈に風刺していて面白い。特に興味深いのは、以下の箇所だ。河童の社会では胎児に産まれたいかどうかを問い、胎児が生まれたくないと答えれば即時に中絶が合法的になされる。その際、父親の河童にこの世界に生まれてきたいかどうかを問われた胎児の返答が印象的だ。

 

「僕は生れたくはありません。~中略~ 僕は河童的存在を悪いと信じていますから。」

芥川龍之介『河童』1927年より)

 

胎児に産まれたいかどうかを問い、胎児が生まれたくないと答えれば即時に中絶が合法的になされる。

 

高校生の時にこの小説を初めて読み衝撃を受けた。書かれている内容的には「毒以外の何物でもない」のだが、その「毒」によって自らの「毒」が中和されたように感じた。「毒を以て毒を制す」とはこういう事だろうか?おそらく当時の私は自己の存在に対して懐疑的になっていて、そんな折にこの小説を読んで、ある種の救いを見出したのだと思う。自分のような「暗闇」を感じている人がほかにもいると思い、安心できたのだ・・・前向きなことを述べるだけが救いになるとは限らないという一例だろう。「毒」が救いになることもあるのだ。ただ、この作品を発表して間もなく芥川龍之介自身は自殺して他界しているわけで、その辺りは難しいなと思う。

 なぜこんな話になったかと言うと昨日ある方とお話をする機会があり、その方曰く「自分はどうしても自己を否定しがちだ」との事。ガラスの十代を経ていいオッサン?になった私は、現在では自分自身に対して、いやに肯定的だ。むしろ島本和彦先生※の言葉を拝借するならば

 

「俺が地球を回す!

 この地球、誰がまわしてると思っていた?

 俺だ!そして、お前なんだよ!

 回し方を間違えるなよ、人が落ちたりするからな。。。」

 (http://jironosuke.cocolog-nifty.com/blog/2007/07/post_b834.html より)

くらいの気分でいる。こういうことを言うと眉をひそめる方もいると思うが、それくらいの心構えでよいのではないかと思う。ジョークを以て毒を制するのだ!

ジョン・レノンオノ・ヨーコのなれそめについては以前にも書いた。(http://kirutokira.hatenablog.com/entry/2016/08/03/234805より)、彼の生い立ちを知ると見えてくるのだが、ジョン自身もやはり芥川龍之介のような「自己の存在に対する懐疑」を少なからず抱いていたのではないだろうか?だからこそオノ・ヨーコの「YES」という言葉に心を奪われたのだと思う。自身の存在を無条件で肯定されたと感じたのかもしれない。表面的な言動はともかくジョン・レノンという人は生きることに真面目な人だったのだろう。もちろん芥川龍之介も。さて、何事によらず不真面目な私としては世界中の生きづらさを感じている方々に是非、島本和彦先生の作品を読んで欲しい。まずは『逆境ナイン①~⑥』をお勧めしたい。そして感じて欲しい「地球を回しているのはあなた方一人一人なのだ!」と。

 

(「俺が地球を回す~人が落ちたりするからな」は他作品のセリフです。どの作品のセリフだったか思い出せないのですが、確かに島本和彦先生の作品にあったものだと記憶しています。ご存知の方は教えてください。)

 

島本和彦日本漫画家実業家。本名は手塚 秀彦(てづか ひでひこ)。北海道中川郡池田町出身、北海道札幌市在住。漫画プロダクション「ビッグバンプロジェクト」代表。主な作品に『炎の転校生』、『逆境ナイン』、『燃えよペン』、『 吼えろペン』、『アオイホノオ』がある。(ウィキペディアより)

 

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 (『逆境ナイン』の名場面より)

 

笑いの方程式

私「定食ください!」
社食の方「ご飯は?」
私「1番で!」

私の職場には社食がある。そこで繰り返されるいつもの会話だ。ご飯(白米)はその量によって番号がついている。
1番(100g)、2番(200g)、3番(300g)、4番(400g)、5番(500g)
といった具合に(あくまで目安だが)

日々繰り返されるこの会話に何か変化が欲しいと思った。そこで大喜利風に考えてみた。そもそも大喜利の笑いの神髄は「文脈をずらす」という行為にある。解りやすい例がビビる大木の今となっては懐かしい
こんばんみ!」だ。
日本人なら誰でもわかる夜間のあいさつ「こんばんは」の最後の「WA」の発音を「MI」に換えることで笑いを生み出している。「こんばんは」という発音の文脈を最後の音を「み」にすることでずらしているのだ。ほかにも例を挙げると以前TVで見たもので
司会者「こんなアイドル嫌だ!どんなアイドル?」
回答者「全員かわいくない!」
これもわかりやすい例だ。「アイドル=かわいい」という文脈(当然そうだという思い込み)をずらすことで笑いを得ている。このように文脈をずらすことで笑いが生まれる。さてこれを応用してみよう!この場合ご飯の量を1~5の番号で答えるのがいわゆる文脈となっている。相手は当然番号で答えると思っている。そこがポイントだ。
例えばはじめは少しだけひねって
私「定食ください!」
社食の方「ご飯は?」
私「1ギガで!」
これは番号でなく単位で。
もう少しひねって
私「定食ください!」
社食の方「ご飯は?」
私「つゆだくで!」
これは番号ではなく牛丼屋風に。
もう一歩ひねって
私「定食ください!」
社食の方「ご飯は?」
私「レアで!」
これは番号を焼き加減に換えてみた。関西人のおばちゃんなら「何ボケとんねん?ステーキちゃうがな」と、超大盛にしてくれるかもしれない。次の日になって「定食ください」「ご飯は?」「アルデンテで!」と答えたら「パスタちゃうやろ!いい加減にしときや」とぐっと量を減らされてしまうかもしれない。もしくは、めんコーナーに行って
社食の方「お客様は(うどんorそば?)?」
私「3番で!」
と答えたらこちらの方が面白いかもしれない!
※いずれにせよ周囲に迷惑のかからない範囲内で(笑)

 

おかしな夢

先日おかしな夢を見た。夢の中で兄が大学に落ちてしまった。(現実には現役合格している)

落ち込む兄を励まそうと母が「大学に落ちたぐらいなんだい!亮なんか精神病院はいっちゃったよ!それに比べりゃたいしたことないよ!(笑)」私は「おいおい言うに事欠いてそりゃないだろう(笑)(笑)(笑)。だいたい時系列がめちゃくちゃだし、差別用語だよそりゃ!(笑)・・・と思っていたら目が覚めた。笑いながら目が覚めたのはこれが初めてだった。

 サッカー解説者の山本昌邦さんがその日の天皇杯「筑波大VS大宮アルディージャ戦」で言っていた。「サッカーにも人生にも、いいときと悪いときがある。」まさにそうなのだ。いいことを言う。いいときがあれば悪いときがある。This is lifeなのだ。翌朝この話を母にしたら目に涙を浮かべて大笑いしていた。だいぶおおらかな母親の様だが、私が回復するうえでこの人が一番骨折ってくれたのだから大いに笑う権利がある。

 と、この文章を書いていて思ったのだが私が好きになるのはこの手のユーモアの解る人間だ。そしてほんのちょっぴりパンクな人に私は惹かれるのだ。(笑) 

頑張る理由

 

人が頑張る理由について考えてみた。

 

    面白いから

これは頑張る理由として不適当と思われる。面白いことをやるのは頑張るとは言わない。このブログにしても書くこと自体が面白いのであって頑張って書いているわけではない。

    報酬(お金の為)

これも私にとっては幸いというべきか不適当である。恵まれたことに、(両親や環境のおかげ)今までお金のために頑張ったという記憶はあまりない。お金をたくさんもらえるに越したことはないが、生来贅沢が似合わない性分なのでそれほどお金で困ったことはない。夏は500円で買ったTシャツを着ていれば十分だ。趣味さえよければ。

    相手ありき。

これが私にとって頑張る理由として最も適当かと思われる。「今日あの方から温かい言葉をかけてもらった。あの方の恩に報いねば」とか「あの人はいつも私を公平に扱ってくれる。あの人のために頑張らねば」とか「世話になった人たちに恩を返さねば」とか・・・「あの子たちのために良い仕事をせねば」というのが頑張る原動力になっていた気がする。

 

つまり人は(少なくとも私は)人と人との関係において頑張れるのだと思う。

 

以前、次のような話を聞いたことがある。

人を動かすに3法あり。

    正面の理

    背面の恐怖

    側面の情

 

    は理詰めで人に訴えかける方法

    は要するに脅しである

    は人の情感に訴えかける方法。

 

どうやら私はどんな正論よりも、どんな脅しよりも、相手のパーソナリティーやユーモアに心を動かされてきたような気がする。義理も含めて。その意味で私も感情の生き物なのだなと思った。どんなに理性の鎧で固めても隙間から感情が零れ落ちる、それが人というものだ。

 

話は移るが、高校時代にA君という私より出席番号が一つ若い同級生がいた。

A君が教室の窓際の列の先頭で私が2番目という位置関係にあった。ある定期考査の際、教師が配るテストの枚数が明らかにA君と私の列で足りないという事があった。するとA君は自分の分は取らずに全部後ろの私に回してくれた。田舎とはいえ一応進学校であった私の高校では少しでも早くテスト問題を手元に置きたいという心理が働く。そんな中A君は悠然と自分の分は余りが来るからと全部の問題用紙を後ろに預けてくれたのだ。中学高校を通じてそのような対応をしたのはA君が初めてだった。非常に驚いた。また、中学時代サッカーの県選抜だったA君は体育の授業などでサッカーが行われるときはいつもふざけていて本気を出さなかった。だが時として曲芸のようなプレイをして皆を驚かせた。そしてとにかくA君は心の広い人だった。誰かがへまをしても決して責めたりなじったりしなかった。ある日の授業中に彼が漫画を読んでいたのがばれた際「今、授業止めちゃうと皆に迷惑が掛かるので、あとで職員室に行きます。」と教師に答えたのはさすがだなと思った。そんなA君の周りには自然と人が集まった。文化祭の出し物などを決める際も、彼が一声「じゃあ、やろうぜ」というと皆自然と体が動いた。とにかく器のでかい人だった。同年代であれほど器のでかい人物に出会ったのは後にも先にも彼だけである。そしてつまるところ人は人のために頑張るのだなとその時思った。皆、A君が好きだったのだ。その後風の噂に聞いたのだがA君は救急救命士になったとの事。A君らしい仕事に就いたと思う。

 

どこかの国のトップにもA君の半分もの度量があれば、ミサイルなんて発射しないと思うのだが・・・一方のA君はと言えばそんなことお構いなしに休日は好きな釣りでもしているのだろう。世の中って案外そういう風にできているのかもしれない・・・

他者への興味

昔ある友人が言っていた。

スウェーデンの小学校では学校を欠席する生徒がいるとその生徒の椅子の上に、その生徒の代わりにお人形さんを置く」

当時何の事なのかわからなかったが、今はなんとなく解る気がする。私が思うに他人に興味がないのではなかろうか?だから「今日はこの子が休んでいるのだよ!どうしたのだろうね?」と意識させるために人形をその子の席に置いているのではないだろうか?

 

私は行ったこともないのにスウェーデンという国を「税金は高くとも、高福祉で、医療費・教育費を国が負担、政治家は他の職業と兼務、政治家としての給料は微々たるもの。そして投票率は高い。等々の表面的な情報を耳にし、いわゆる北欧の高教育・高福祉型国家の典型としてすごく理想的だなと思っていた。日本もそういう国家像を理想とすればよいのに・・・人口や国土の広さ等の諸事情から難しいのかな?などと思っていた。

 それに対し友人はこの話を持ち出し、自分はスウェーデン的な国家は好きになれないと言っていた。もうずいぶん昔の話で当時の私には、休んだ生徒の席の上に人形を置く?という事の意味がよく解らなかった。ただいまにして思おうと上記のような理由なのではないかと考える。あくまで推測の域を出ないが・・・

 欧州的個人主義のいきつく結果がこれなのだろうか?他人に対する興味が少なく自己と他者の線引きがきっちりとしている。これは果たしてよいことなのだろうか?

 ひるがえって我々日本人に限らず多くの国の大衆は噂話が大好きだ。英国にしろ日本にしろ王室や芸能人のゴシップやその一挙手一投足をメディアが取り上げ、それに一般大衆は一喜一憂する。私自身はこの種の人々とは距離を置きたいと思ってきた。今までの人生の経験上、何かしら趣味なり、目標をもって人生を送っている人たちは他人の噂話や陰口なんかに花を咲かせている暇はない。もっと能動的に主体的に生きている。私自身もそうありたいと思う。だから心の中で他人の噂話やゴシップ、陰口ばかりを言っている人たちや、それを助長するメディアを馬鹿にしてきた。もっと言ってしまうと教育の水準を上げて、民度・公共心・リテラシーを向上させるべきだと思ってきた。ただその結果として同級生が休んだことに無関心で、その席に人形を置いてどうしたのだろね?と意識させるような状況が生まれてしまうなら、それはそれで問題なのでは?とも思う。基本的に自分自身に興味関心を抱き趣味なり目標なりをもって主体的に生きるというのには賛成だが、他人に対する興味関心をほとんど持たない共同体というのもそれはそれで問題だなと・・・。

 もう一歩誤解を恐れずに言ってしまうなら、この傾向は男性より圧倒的に女性に強い(日本では)噂やゴシップ、陰口というのは主に女性が好むものだ。決して女性蔑視や偏見ではなくごく一般論として。でもそれは言い換えれば、人間に対して興味関心を持っているという点で男性よりも優れているという事だ。それも当然と言えば当然で赤ちゃんを産んで育てる以上、人間に対する興味関心がなくては始まらないのだろう。これからはその役割を男性も担うべきだが・・・

 

さていろいろ述べてきたが結論はというと、私は他人の噂話やゴシップ、陰口ばかり言っている輩が嫌いだ。その反面そういった人達を全否定するわけにもいかない。上記のような理由から。あとできれば北欧の高福祉・高教育を掲げる国家に行ってみたい。できれば一年くらい滞在してみたい。無論そんなお金があるはずもなく願望の域を出ない。そういったモデルや長期的ビジョンを政治家と言われる人たちこそが持つべきなのではないだろうかと思う。そういった目的のために使われるのなら税金の使い道としてまっとうだと思うのだ。かつて山田洋二監督がおっしゃっていた。「日本は優しい国を目指すべきではないか」と。細かい実務的なことも大事だが、こういう大きなビジョンを持てる方がご健在であることは非常に有難いことだと思う。

ホンモノ

大学時代、東洋史研究室に在籍していた私は一度たりとも、まともに予習して授業に臨んだことがなかった。漢文を原文から読解するその授業は毎週金曜日にあるので、木曜の夜は皆徹夜してその授業に臨んだ。私は研究室に行くと誰かが持ち寄った漫画を読んでばかりいた。そしていよいよ夜が更けてくると誰が待つわけでもないのにそっこー家に帰って寝た。何故ならつまらなかったからだ。ひたすら漢文を訳すというその作業に一ミリグラムの魅力も感じなかったのだ。こんなつまらないことをやるのは受験勉強でたくさんだ。と思っていた。お蔭で授業は珍紛漢文?で23回質問して、こいつに質問してもだめだと悟ったのか先生も一向に私を当てなくなった。それでもきちんと出席したのが我ながら偉いものだと思う。一つには研究室が楽しかったからというのもある。

 

劣等生以外の何物でもなかった私はしかし、卒論では教授から高評価を得た。理由は単純で、授業はつまらなかったが卒論を書くのは面白かったのだ。自分で情報のピースを集めてそこからロジックを組み立てて仮説に導く。その作業自体は楽しかった。その為には漢文も中国語も読んだ!苦ではなかった。無論院生にも資料を紹介してもらった。

 

昨今友人のFBの記事によると「受動的学びから探求的学びへ」と今の公教育では叫ばれているらしい。いろいろな横文字を使ったりして言葉が独り歩きしている感があるが、つまりは大学時代の私のようになれってことでは?自分でいうのもなんだが時代を先取りしていたと思う。(笑)(大学生だから当然と言えば当然だが)

 

今にして思えばあの授業は卒論を書く上で必要な漢文読解の訓練であると解るのだが、如何せんアプローチの仕方がまずかったように思う。(失礼な言い草だが)

 

どういうことかというと、これからサッカーを始めようとしている子供にバルセロナの試合を見せるのとサッカーのルールブックを読ませるのとどちらがいいだろう?無論答えはバルセロナだ。バルセロナのサッカーを間近で見せたら子供はサッカーに興味がわくだろう。そして自分もああなりたいと自ら探求するのでは?ルールなんかいやでも頭に入ってくる。

 

つまりはホンモノだ。質の高いもの(ホンモノ)を提供・紹介してやるのが教育者なり親なりの務めではないかと・・・できる範囲内でだが。大道芸だって文学だって、芸術だって、哲学だって、スポーツだって、グルメだって、理系の事は解らないけどホンモノを知ることが何をするにしろ原動力となるのではないだろうか?そして本当に道を究めた人なら難しい事をやさしい言葉で伝えることができるはず。そういう人なり物なり事なりに触れる機会をできるだけ多く作ってやるのが教育者の務めではないかと・・・最近思うようになった。

 

ちなみに私が卒論を書く上で“ホンモノ”としていたのはそれまで読んだ漫画や本だったのだと思う。

 

話は変わるが先日『figma テーブル美術館 ダビデ像』というフィギュアを購入した。

ホンモノを観にフィレンツェまで行くのに越したことはないが、如何せん時間も金もない。

でもこれはこれで別の意味でホンモノだと思っている。(笑)

 

figma テーブル美術館 ダビデ像 ノンスケール ABS&PVC 塗装済み可動フィギュア

 

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 追記

同じ研究室に在籍していた友人にこの文章を読んでもらったところ、決して単なる漢文の和訳ではなく、それは探求的で双方向性のある面白い授業だったとの事です。ただ私の側のレディネス(学習の土台としての知識や能力)の不足であるとの指摘を受けました。確かに私の在籍した大学では2年間の教養課程があり、自分の専攻を吟味する十分な時間が与えられていました。「これからサッカーを始めようとする子供」とはわけが違ったようです。両先生方には大変失礼をしました。お許しください。

 

傲慢

クレイジーケンバンド横山剣)の名曲『タイガー&ドラゴン』に次のくだりがある。

 

「俺の俺の、俺の話を聞けー

    2分だけでもいい~

       お前だけに本当の事を話すから♪」

 

凄くいい。好きだ。共感する。

言い換えると、私にも言いたいこと、伝えたいことが山ほどある!

一体何から切り出したらいいのかわからないが・・・

 

There are many things that I would Like to say to you But I don't know how

Oasis Wonderwallより)

 

現在、愛読しているJazzを題材にした漫画『Blue Giant2巻』(石塚真一先生)にも次のようなシーンがある。

 

由井(主人公・宮本大のサックスの師匠)

世界一のJazzプレイヤーになりたいという大に対して

「~や、だから・・・世界一とか、なんでお前が言えんのよ?」

 大「オレ・・・湧いてくるんです。」

 由井「湧く?何が・・・?」

 大「音にしたい気持ちとか感情とか・・・どんどん。

出したい音なら、いくらでも湧いてくるんですよ。」

 由井「つまり・・・お前の感情をみんなに聴いてほしいと・・・」

 大「・・・まあ、できればみんなに(照れ)・・・」

 由井「お前は・・・なんてゴウマンな奴なんだ・・・」

 大「やや・・・・僕は・・・・」

 由井「バカヤロー」

 

この由井のもとで修業を積んで大は仙台から東京へ、ついでドイツ・ハンブルクへと活動拠点を広げることになる。(2017年7月現在)

 そうなのだ。傲慢なのだ。何かを表現するという行為は傲慢そのものの行為なのだ。自分の感情を、思想を聞け!読め!と言うのだから。

(そこ!正座しろ!正座!とは言わないまでも(笑))

その意味で私自自身もやはり傲慢な人間なのかもしれない。でも傲慢でも何でもいいから嘘偽りのない正直な感情が人の心をつき動かすのではないだろうか?その意味で表現者という人種は決して媚びてはならないと思うのだ。腹の底から絞り出すような感情が人の心を揺さぶるのだと思うからだ。

さて私がUPしてきた文章が30近くになってアクセス数は1000を超えようとしている。アクセス数がどこまで信頼に値するものかは、わからない。だが一つの目安にはなるとは思う。これを機に英訳、中国語訳を始めた。この二つの言語に翻訳する事で、より多くの人に私の文章に触れてもらう機会ができると思うからだ。

私は宮本大とは違って「形ある何か」になりたいわけではいが

傲慢でも何でもいい。「届けこの想い(笑)!」という気分なのだ!