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部活動と指導者とユダヤ人と

最近聞いた話だが

ある高校の野球部では遠征先で試合に大負けすると

行きに乗ったバスに荷物だけ詰め込んで

帰りは走って帰らせるそうだ。

0キロ以上ある道をだ。

ひどい話だなと思っていたら

生徒たちの方も心得たもので

ポケットに小銭を入れておいて

適当にマック辺りで時間をつぶして

頃合いを見計らって電車で帰ってくるそうだ。

なるほど賢いものだなと思って聞いていた。

だけど

ひょっとすると

そのくらいの事は指導者の方も承知の上で

走って帰って来いと

命じたのかもしれない。

キツネとタヌキの何とかではないが

面白い話だ。

 

 

話は移って

以前の私の勤め先では

ある部活が強く

全国大会・関東大会の常連だった。

その部活の生徒と駅まで帰りが一緒になったことがあった。

その際私がエレベーターを使おうとすると

「階段使いましょう。約束だから。」

と言われた。

部活の顧問との約束として

「(足腰を鍛えるため)エレベーターは使わずに階段を使う」

との事だった。

このような約束事を作り、

事あるごとに、それを意識させることによって

顧問と選手との間の信頼関係を構築する。

先ほどの野球部の例と対照的だが

これがこの部活動の強さの一因だったのだろう。

 

上記2例のどちらがよりましな指導方法か?

それは解らない。

長期的な視野で考えたら先に挙げた

野球部のような例から学ぶことの方が

大きいような気もする。

ただ、

どちらが部活動として強くなるかと言ったら

それは間違いなく後者だろう。

 

よいか悪いかは別として

その在り様はどことなく宗教的だな

と思っていたら

 

まさにユダヤ教と似ていた。

旧約聖書』をやさしく解説した本を読んで再認識したのだが

ユダヤ教の神「ヤハウェ」は非常に疑り深く、嫉妬心が強い。

人間が自身(ヤハウェ)を本当に信じているのか?

自身(ヤハウェ)との約束をきちんと守っているのか?

何度も何度も人間を試す。

時には悪魔に人間を誘惑させてまで試す。

自分を裏切ろうものなら町ごと焼き尽くす。

そのうえで自分を本当に信じる者にだけ救いを与える。

そんな存在だ。

 

私自身がユダヤ教徒な訳ではないので詳しいことは解らないが

契約(約束)を重んじるところが後者の例にそっくりだ。

 

それと同時に

優秀な人(何をもって優秀とするのか解らないが)

歴史に偉人として名を残す人に※

ユダヤ人が多いのは偶然の一致だろうか?

 

 

私にはそうは思えない。

 

ずいぶん話が飛躍してしまうが

この部活動の強さとユダヤ人の優秀さには

共通点があると思う。

 

それはある種のストイックさのようなものだろうか?

 

誤解しないでいただきたいのだが

私はこの部活動のような指導方法や

ユダヤ教徒の方々を否定するつもりは全くない。

むしろ学びたいくらいだ。

パレスチナ問題など政治的な事柄はあえて触れないが)

 

ただ、

学校の先生の言いつけを破って

友達と買い食いした

そんな思い出が

意外と自分のアイデンティティーの在り処になっていたりもする。

とも思うのだ。

 

そうなると、アイデンティティーと宗教の関係性とは何か?

というテーマに話は変わってくるのだがそれはまた別の機会に・・・

 

余談になるが

おおひなたごう先生の『おやつ15』(秋田書店)を読むと面白い。

おやつの神様という神様が出てくるのだが

出てくるたびに

コスチュームのロゴが変わる

「神ひとすじ」やら「神ING」だの「一生涯神」だの「おむつ」だの

読者を飽きさせない。

おおひなたごう先生のセンスには脱帽だ(笑)

 

 

ノーベル賞22%、フィールズ賞30%、チェスの世界チャンピオンの54%がユダヤ人であるとも言われる。カール・マルクスジークムント・フロイトクロード・レヴィ=ストロースなど、近現代の哲学・思想方面のキーパーソンを輩出しているほか、音楽業界にもユダヤ人が多いことが知られている[22]。また、アインシュタインユダヤ人である。(ウィキペディアより)

 

ちっぽけな

今日、職場の喫煙室で
キットカットを食べていたら
私より十ほど若い男性と二人になった。
たまに一緒になるこの人に
何気なく
ソフトボール大会出ますか?」
と聞いてみると
「出ます。」
との事。
「~さんは?」
と聞かれたので
ソフトボールの苦手な私は
「私は野球とかソフトとか全然ダメなんで・・・」
と答えると、その方は
「私だってやったことありませんよ、全然。でも出ますよ!」
と少し語気を荒げた。
その場はそれとなく別れたのだが、
後になって反芻した。

みんなで何かを盛り上げていこうという時に
自分がいいかっこできないからという理由で
参加しないというのは
我ながらなんとかっこ悪いことか
「自分ちっぽけだな。」
と、深く恥じ入った。
実際に参加するかというと
したらしたで立場的にも年齢的にも
気を使うし、気を使われるので
参加はしないつもりだが、
それとは別に、
今回大いに学ぶところがあった。
私より十ほど若いその方は
私に対して真摯に正直に対応してくれた。
そんなことしても彼には一文の得にもならないのにだ。
この年になると誰かに本音で何かを言ってもらえる事は稀だ。
距離を置かれたり、見限られたりするのが大概だ。
その意味で本当に有難かった。

また、人はいくつになっても
相手が自分より年がいくつ下であっても
人から学ぶことができる。
それを実感した。

今日学んだ事と
「自分ちっぽけだな」
というこの気持ちを
心のどっかに置いて
やっていこうと思った。

カッコよさ

十九、二十歳の頃「カッコよさ」をひたすらに求めていた時期があった。
仙台中のファッションビルや服屋を友人とめぐり歩き、
お金もないのにBEAMSやらSHIPSやらに入り浸り
メンズノンノを熟読していた頃だ。
そんなことを2年もしているとやがて
「カッコよくなろうとすることってある意味カッコ悪いよな」
という一定の結論に達して
私と友人の「カッコよさ」をめぐる冒険は次のステージへと進んでいくのだが・・・

今思い返してみると
あれはあれで必要な「自己投資」だったのかもしれない。
いわゆるおしゃれに
敏感すぎるのもなんだが
無頓着すぎるのもどうかと思う。
ただ、今だったらもっとはるかにコストパフォーマンスの良い投資
つまり「時間」と「労力」と「お金」をもっともっと効率よく使えたのにと思う。

無論というべきか
その背景には「ネット」の普及がある。
ネットにつながる環境さえあれば
おしゃれを学ぶことはそう難しくはない。
具体的にどう難しくないかというと

「ドラフト」

という会社をご紹介したい。
フェイスブックでお友達になっていただいた
伊藤佑樹さんが社長を務める
メンズファッション(20代から30代)に特化した
ネット通販事業を展開している会社だ。

面白いのは、「ドラフト」では
ただ服を売るのでなく
その商品をどう着こなすか,着まわすかの
TPOに合った実例や知識
体形別のサイズ選びなど
おしゃれに不慣れなユーザーが
おしゃれを学べる様々なコンテンツ(ブログや動画)を

展開(もちろん無料で)している点だ。
しかも商品の価格も手頃だ。

こんなサイトが私たちが服屋に入り浸っていたころ
(ちょうどネットが普及し始めたころ)
あったら良かったのに
と思わずにはいられない。

また、伊藤社長のブログが大変面白い。
非常に探究心旺盛で理知的な方だと思う。

今後の更なる発展を陰ながら応援させていただきたい企業だ!

 

フェイク②

フェイク

最近「フェイク」という言葉をよく耳にする。
例のトランプ大統領の「フェイクニュース」発言だ。
トランプ氏の言うことはどうかと思うが
多かれ少なかれ我々は「フェイク」の中で生きているのだと思う。

結論から言うと
事実が一つであるのに対し
真実はいつだって複数形だ。

一つの事実にどういう方向から光を当てるか?
光の当て方次第で映る影の形も変わる。(完全な球体であれば話は別だが)
つまり光の当て方だけ(人の数だけ)真実がある。

若しくは

どういう事実を
どのタイミングで
どれだけの量
どういう方向性で
流すか?

そこにはおのずと伝える側の主観が入る。
その意味において
すべての真実はフェイクであり、
フェイクでないニュースなど存在しないのかもしれない。

そして極論すれば人は
数ある真実(フェイク)の中で
「自分の信じたいことを信じる」のだ
誰だって
「あの子お前に気があるらしいよ。」
と言われて悪い気はしない。(たまに例外もあるが・・・)
若しくは
「こうであれば皆が丸く収まるのに」
という類の真実を信じたいのだ。
もしかすると、この国ではそれが顕著かもしれない。
良くも悪くも、それがこの国らしさなのだろう。


ただ、時の洗礼を受けて
それこそ100年200年という時間を経て
多面的で客観的な資料(質量ともに)を分析することで
浮かび上がってくる「より妥当な事の本質」というものがある。
その作業こそが歴史学の存在意義なのだと思う。


ほんの少しだが
歴史をかじってよかった。
親のすねもかじらせてもらった。
感謝だ(笑)。

フェイク①

人面バッタ出現!!~そのまんま東にそっくり~
もうずいぶん昔の東京スポーツ新聞(東スポ)の一面記事だ。
心が躍ったのを
今でもよく覚えている。

最近、フェイクニュース
(事実と極端に異なる恣意的なニュース)
なる言葉をよく耳にするが
これなどはまさにフェイクのためのフェイクというべきだろう。
ある意味、正真正銘の偽物といったところか?
イギリスにもこの手のフェイクのためのフェイクを
扱った専門誌があると聞いたことがある。
さすが大英帝国

いい大人がこの手のくだらないことを真剣にやるのが私はたまらなく好きだ。
今週号の雑誌『テレビブロス』で「電気グルーヴ」の
新作「トロピカルラブ」についてのコメントが載っているが
これが本当に面白い。

一方で、この手の記事に眉をひそめる人たちもいる。
それはそれで人の自由だから何とも言えないが
たぶんそりが合わないと思うのはお互い様だろう。

そういえばちょっと昔に職場の同僚と数人でカラオケに行った際
「ニセモノなんか興味はないの♪ホンモノだけを見つけたい♪」
(hitomi Love2000)
を熱唱していた方がいた。

「本物の恋と偽物の恋って何が違うんだろ?」
とその時妙に感心したのを覚えている。
果たして歌っていた方は本物を見つけたのかどうか?
そもそも何が偽物で何が本物か?
その線引きは?
男女間の事は難しくて私にはわからないが
40を迎えた今、私としては
ベーゴマとか刑泥とかだるまさんが転んだとか
そういう意味で
真剣にかつ健全に遊びたいとは思う。

ただ、もしこの歌詞でいうところの
「本物」とやらが結婚を意味しているのであるならば
それは正真正銘本物の「偽物」だ。

結婚を前提に始まる恋愛のほうが
よほど不純なような気がするのは私だけだろうか・・・?

本物だけが本物とは限らないと考える私としては
ここで一句

偽物の恋ならしたい不惑かな(笑)

と、ここまで述べたところで
私が本当に言いたいのは
所詮この文章そのものがフェイク「偽物」にすぎないという事です。
読んでいただいた皆様におかれましては
小人のたわごとをあまり真に受けないよう望む次第です。

恐惶謹言

 

釈迦に説法

先日ひょんなことからある学生さんから質問を受けた。
「死後の世界についてどうお考えですか?」
私「孔子は習った?」
「はい」
私「ある日一人の弟子が孔子に聞いたんだって。」
『死とは何ですか?』
孔子が答えて言うには
『我未だ生の何たるかを知らず、いずくんぞ死を知らんや!』
 つまり、私は生まれてこの方50~60年生きているが、
未だに生きるということがどういうことなのか解らない。
なのにどうして死というものがわかろうか!」
って言ったんだって。
(説明していてなんだか俺冴えてるなと
一瞬勘違いしかけたが俺が冴えているんではなく孔子が冴えているんだ。)

 孔子ってすごく真摯だよね!
生きることに対して
ちょーかっこー良くない?!

 死んだこともないのに死後の世界について語るなんて
どんなもんだろ?
死後の世界については死んだことのあるやつに聞くのが一番だと思うよ。

 

 話は変わるけど皆さんはキン肉マンってまんが知ってる?
キン肉マンは普段は不細工で愛嬌のあるマスクをかぶっているんだけど
マスクの中は実はチョー男前なの。
でね、キン肉マンはあまたの超人たちと戦うんだけど、
最後の最後、最終回の大ピンチに
そのマスクをあごのところからちょっとめくり上げるの!
するとそこからピカーってビームが出て敵をみんなやっつけて、
弱っていた味方が復活するの!
だったら最初から素顔で戦えばいいじゃん(笑)って話なんだけど・・・

 何を言いたいかっていうと、
皆さんも孔子のように真摯に生きてごらん?
そのうちに、ちょーイカシタ顔立ちになるから!
そしたらね、マスクをかぶるんだキン肉マンのように!
ただね、ドナルドトランプ氏のマスクはだめだよ(笑)
でね、困ってる人、疲れた人、傷ついた人がいたらね
そのマスクをあごの下からちょっとだけめくるんだ。

するとそこから
ピカーってビームが出てそれがその人たちを癒してくれるから!

これは嘘のような冗談のような
ほんとの話。

だからね、ゆっくりでいいから
きちんと学んで、考えて
そして真摯に生きてごらん
必ずビームが出るから!キン肉マンのように!

私が言うんだから間違いない(笑)!

 と、この文章をその学生さんが読んでくれて、もし笑ってくれたなら
その笑顔こそが、(作り笑いや、愛想笑いでなく)
人を元気にするんだよ!
と、そこまで言えなかったのでブログにしました。
読んでください。

 

(『キン肉マンゆでたまご)より

ヒーロー

「何をするにもマニュアルって必要だよね」

といったのは兼好法師12831352徒然草の作者)

それに先立つこと約100

「そんなもん必要ねーよ」

といってのけたのが中国・南宋の武人、岳飛11031142

 

若き日の岳飛が戦争の指揮が巧みなのに驚いた上官が

「お前には見どころがある!きちんと法を学んでみないか?」

といったのに対して、

岳飛曰く

「機に臨みてはまさに変ずべし。」

「その状況次第で各々に対応するだけですよ。」

つまり(私にはマニュアルなんて必要ありませんよ)

 

自己の才能に対する並々ならぬ自信がうかがえる。

ちなみにこれがもとになった四文字熟語が

 

「臨機応変」

 

さらに時をさかのぼること千数百年

やはり中国、漢の高祖・劉邦に仕えた武人、韓信BC230BC196頃)は

マニュアル(兵法)を逆手に取ることで戦争に勝利している。

 

河を背に布陣し、(逃げ場がない為、兵法の常道に背理する)

敵に

韓信は兵法の兵の字も知らぬ間抜けだ」

と油断させる一方で

味方には

「川におぼれて死ぬくらいなら戦って死ね」

と命じ、死力を尽くして戦わせる。

その間、別動隊が敵方の空になった城を占拠し

それを誇示することで

浮足立った敵軍を前後から挟撃し

攻め滅ぼした。

 

いわゆる「背水の陣」である。

 

のちに劉邦韓信は人物評をする。

あいつは百人の将(百人を指揮するに足る将)

こいつは千人の将

そいつは万人の将

等々

劉邦「そういうお前はどうなのだ?」

韓信「多々益々益す」

(多ければ多いほどよいでしょう)

自分の将器・将才に対する絶大な自信だ。

劉邦「では俺はどうだ?」

韓信「恐れながら陛下は兵の将としてはせいぜい千の将、

   しかしながら、陛下には将の将たる器あり」

この会話は二人の人間関係の醍醐味ともいうべきものだ。

 

それはさておき

兼好法師の言うことはもっともだ

と頭ではわかりながらも

国史上に残る二人の名将に惹かれるのは私だけだろうか?

 

確かに兼好法師の言うように何事にもマニュアルは必要だ

おそらく人生にも・・・

 

何歳までに結婚し

何歳ごろ何人子供を持って

何歳ごろまでに一戸建てを持ち

子供の将来のために毎月これだけ貯蓄して

老後は・・・

 

良いことか悪いことかわからないが

私はこういったマニュアルに興味がない。

いわばマニュアルフリーだ。

 

もしくは「マニュアルにとらわれない人物」(実在なり・架空なり)を

マニュアルにしてきたのかもしれない。

 

つまり、それが私にとってのヒーロー像だったのだと思う。

 

ただ、ここにきてちょっと問題がある。

私にとってのマニュアル(ヒーロー)

の多くは40にならずに死んでしまっているのだ。

 

しかもろくな死に方をしていない。

先述の二人の武将にしても

国史に詳しい方はご存じと思うが

残念な死に方だ(その原因の一端は彼らにもあると思われるのだが・・・)

 

 

で、無事に40まで生きた私としては

新たなマニュアル(ヒーロー像)を探す必要に迫られているわけだ!

 

それはウォーレン・バフェット氏のごとく賢くも美しい生き方をする人か?

 

もしくは一企業人として生きるからには

島耕作」の様な人物か?(『課長~会長島耕作』、弘兼憲史著)

ただ、彼の場合、課長時代は

仕事が好きで、閥が嫌いで

人間味あふれていて、

転勤しては愛人を作りで

非常に魅力的な人物なのだが

出世して地位が上がり、それに伴い責任が増すにつれて

私人としてよりも公人としての面が色濃くなってくる。

偉くなってからの島耕作

正直ちょっと窮屈そうだ。

 

とすれば、

目指すべきは

やはり、特命おびたる係長、あの人か?

 

人生の折り返し地点に近づいて

なんだか面白くなってきた。