どこ吹く風

自分には全く関係・関心がないというように、知らん顔をすること。「何処吹く風と聞き流す」

さらば、サッポロ5番!

 突然だが会社をクビになった。8月8日に人事部と面接があるというので「あと3か月勤めれば5年間の雇用期間がおわり、有期採用から無期採用に移行だ!ひょっとして正社員への登用があるかもしれない!希望する部署のヒアリング等もあるかもしれない!」などといい気になって、今後の希望をA4用紙一枚にまとめて持参した。その時、持参した内容が以下だ。

 

サッポロ5番がより一層愛される企業になるために

長谷川 漣

 突然ですが、私は女性にもてます。自分で言うのもなんですが、教員時代も、この会社に入ってからも、女性にもてました。今はもう十分ですが・・・。何故でしょうか?これと言ってルックスが優れているわけでもない。それほど頭が切れるわけでもない。運動神経は人並みです。それは・・・ユニークだからです。自分を表現するユニークな手段を持っているからです。教員時代は授業でしたし、現在はブログがあります。何も1番にならなくてもいいのです。唯一無二の存在、ユニークな存在になればよいのです。企業だって同じです。何も1番になる必要はないのです。車で言ったらトヨタになる必要はない。安全性を突き詰めて即席めん(食品)業界のスバルになればよいのです。

 ではサン○ー食品のユニークさとは何でしょうか?それはずばり《味》です。いろんなラーメンがあります。早いの(待ち時間が短いもの)量が多いの、安いの等々。その中でサッポロ5番は《味》で勝負するラーメンなのです。先代の武相談役が残してくださった《良き味の創造》をいつまでも続けていくべきなのです。《良き味の創造をいつまでも》社是としてふさわしいものです。

 では味が良ければそれでいいのか?そうではありません。誰かのために作ってこそ意味を成すものです。食べる人への《愛情、思いやり》が必要です。そこで出てくるキーワードが《家族》です。その意味でCMの「この一手間が I love you !」と言うのは言い得て妙です。若しくは「愛情一本!チオビタドリンク」ではありませんが、愛情いっぱい(一杯)サッポロ5番!でもいいかもしれません(笑)。では若者や一人暮らしはどうなるのかと言うと・・・それはエースコックさんに任せて《住み分け》をするのです。《味、愛情、思いやり、家族》等のキーワードが出てきたところで、私から3つ提案したいと思います。

 まずは商品開発について。ただ単に辛さを競うラーメンに《愛情》はありますか?《家族》向きですか?否、則ち作るべき商品像が自然と浮かんでくるのではないでしょうか?

 次に、社内に対して。《家族》がテーマの企業の社員が家族との時間を大切にしないでいい仕事、いい商品が出来ますか?否、そこでいつも仕事とゴルフで忙しいお父さんに限定の『お父さん限定、家族デー休暇』を創設するなんていうのも面白いと思います。今のままでも産休・育休・有休はありますが名前を変えることで意味合いが違ってきます。

 最後にオープンキャンパスならぬオープンオフィスと言うのは如何でしょうか?せっかく広大な敷地(芝生)があるのだから、そこで年1回、お祭りを行って県内外の家族世帯に開放し、ラーメンの食べ比べ、ひと手間クッキング、このスープに合うめんはどれ?など子供と大人が一緒に参加可能なイベントを行うのです。そしてそれをSNSで告知宣伝する。そこで思い出をつくった子供が大人になってまたサッポロ5番を選んでくれる。まさに100年の計です。以上いくつかのアイデアを用意しました。私ごと使っていただければ幸いです。モテますよ(笑)。   

 

 ところがドッコイ、ふたを開けてみればこの通り!まさに「なんも言えねー!(北島康介)。」状態だ。表向きの理由はフルタイムで働くほどの仕事がないからとの事だったが、(それなら時間や曜日を短縮してパートタイムだって一向にかまわなかったのだけれど・・・・。)真の理由は人間関係だ。詰まる所これなんだな。やれやれ。出向という形で工場(別会社)にて働くよう勧められたが、そこではまた1からやり直しで、これまで働いてきた4年と9か月はカウントされないとの事。まさに「なんも言えねー!(北島康介)。」工場で働くことも考えたが朝型の勤務と夜型の勤務とを1週間交代のシフト制と聞いて「なんも言えねー!(北島康介)。」どうせ工場で働くなら、あとほんの3か月勤務してから工場に回してもらえればよかったのに!そしたら無期雇用になれたのに!まさに「なんも言えねー!(北島康介)。」まあ工場に行ったら行ったで、また個人情報を調べ上げられて駄々洩れにされるというのもゾッとしないし、結局この企業とは縁を切ることにした。どんなに優良な企業だか知らないが、警察と癒着して社員の個人情報を徹底的に調べ上げ、それを噂という形で必要に応じて流す。そりゃあ違うでしょ。「なんも言えねー!(北島康介)。」でもね、でもこれだけは誰かが言わねば

「社員はモルモット(実験動物)じゃない!社員は人間だ!」

お粗末!サッポロ5番のサン○ー食品。アディオス、アミーゴ!!!

 

※この文章は全てフィクションです。実際の登場人物や団体とは一切関係ありません。

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有り難うございました。

8月20日(火)拙著2冊目『5歳のモネ』がAmazonより発売開始です!

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興味のある方是非ご購入をお願いします。

 

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姿勢

以前、人の頭の良さって何だろう?というテーマで『スペック』と言う文章を書いたが、そこに新たな知見が加わったので以下に記したい。

結論から言うと人の頭の良さとは≪姿勢≫と深くかかわっている。英語で言うところの≪attitude≫だ。スティーブ・ジョブズが「Stay foolish」と言ったのも、ソクラテスが≪無知の知≫を唱えたのも、北野 武さんが「礼儀作法を学ぶべき」とおっしゃるのも、基本的には皆同じだと思う。つまり、どんな事からも、どんな人からも何かしら学ぶ事があるという≪姿勢≫を持ち続けている限り人の学びは留まることがないのだ。

以前、友人の家に遊びに行ってお子さん二人(小学生)と話をした。教育熱心な友人とその奥さんはお子さんに世界地図や日本全国、各県別の農産物の出来高ナンバーワンを暗記させていた。お子さんが「桃の生産量が日本一の県どこだか知っている?」と聞いてくるので「いや~わかんないなあ?どこ?」と答えると「そんなのも知らないの、山形だよ。山形。」とその瞳に8割のがっかりと2割のあざけりの表情を浮かべた。私の事がいかにも頼りなげな中年に映ったのだろう。しまいには「ねーなにが得意なの?」と聞いてくるから私は「そうだなー、敢えて言うならスキーかな。」その子は「よく行くの?」と聞いてくる「最近はあんまり行かないね。」と私。「なんで?」と聞いてくるので「スキー場行っても最近は私より上手な人がいないからかな~。」と私。「えーそんなにうまいの!?」「いや、昔は私よりうまい人たくさんいたのだよ。でもスノボが流行り出してから運動神経のいい人はみんなスノボ始めちゃって、こぶのあるとこでもぐいぐい滑るような人がいなくなっちゃったのだよ。」すると「へ~。」との事。私は「そんなことより、これ何だか知っている?」と持っていたビニール傘を見せた。「傘でしょ。」と言うお子さんに「違うよ、これほんとはおっきな耳かきなんだよ。ほら。」と耳を掻いて見せた。すると二人の顔に今度は、はじめ一瞬の戸惑いと次にいい笑顔が浮かんだ。「よし、これを使って何ができるか、考えよう!」

私が2人に、ここで言うところの≪姿勢≫を伝えられたかどうか正直疑わしいが、それでも学ぶという事はそんなに単純じゃないよという意図は伝わったと思う。

県別農産物の取れ高ナンバーワンを暗記するのも大事だが、それを知っている、知らないで人を見下してしまうようなら、その学びははなはだ浅いと言わざるを得ない。何故この県からは桃がたくさん採れるのだろうという探求心、好奇心、このとっぽい中年からでも何かしら学ぶべきことがあるという謙虚さ、もしくは貪欲さ、そういった≪姿勢≫をもち続けている限り、人はいくつになっても学び続ける事が出来る。そういった≪姿勢≫が則ち、頭の良さにつながるのだ。難しい漢字や方程式を教えてくれるのも結構だが本当に大事なのはこういった≪姿勢≫を言葉によらずに伝えてくれることだ。それが出来る場所が本当に優れた教育機関なのだと思う。学校であれ、塾であれ。何だか、どこぞの評論家の様な結論になってしまったが、もう一度次の3者の言葉をもって締めくくりたい。

スティーブ・ジョブズ:「Stay hungry  Stay foolish

ソクラテス:「私は自分が何もわからないという事がわかった。」

北野 武:「礼儀作法を学ぶべき」

お三方のおっしゃることが根底では通じているという事がよく解った気がします。

有難うございました。

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今度伝記を読んでみようと思います。

 

最適解

毎年耳にする春闘とかベースアップ(ベア)がどのように決まるのか?なんとなくニュースを聞いていただけだったが、その意味が解ったので以下に記す。

 不景気の時、我々低所得者層(要するに貧乏人)は何かと言うと「金持ちが悪い」という論理に安易に飛びつきがちだが、それはいかにも乱暴な感情論ではないだろうか?ある方によれば「経営学」と「経済学」とはそれぞれ富の「集中」と富の「分配」に関する学問だとの事。「経営学」によって得た富を「経済学」にのっとり分配する。儲けた利益を全て分配に回してよいのなら何も苦労はいらない。実際には≪次≫がある。経営は顧客や被雇用者がいる限り半永久的に続くからだ。である以上、儲けた中から次に儲けるために残しておかねばならない。それが再投資のための余剰資金だ。では、どれだけ次回以降の為に残すのか?どれだけ分配していいのか?経営サイドと労働サイドでその最適解を見つけるのが春闘であり、ベースアップなのだ。経営サイドが富の集中の事だけ考えていたのでは成り立たないし、労働サイドが富の分配の事だけ考えていたのでも成り立たない。双方の視点(経営&経済)から考える必要がある。そこで思ったのだが「経営学」と「経済学」の両方を学んでいれば、ここで言うところの最適解をより一層見つけやすい視座を得る事が出来たのではないだろうか?大学に6年もいた私としては、今にしてみると、経済・経営の授業も受けておけばよかったと思うのだ。私は文学部で歴史を学んでいたのだが、歴史を学んでいれば必然的に経済を学ばないわけにはいかない。戦争の背景を考えれば必然的に経済が浮かび上がってくるからである。ただその事に気づいたのは卒業して何年も経ってからで、在学時にはそこまで考えられなかった。もったいないことをした。もっともいずれはそういった最適解を見つける専門の人工知能が開発されるかもしれないが・・・。

 今までは春闘とかベースアップという言葉を労働サイドの側からしか見る事が出来なかったが、この文章を書いていて、それだけでは世の中の仕組みを理解するには足りないことが解った。では、何故こんな文章を書こうと思ったかと言うと・・・それは前回に引き続き(『アルキメデスの大戦』三田紀房)を読んだからなのですが、それはまた次回に。

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勉強になります。

 

測る

どこかの誰かが言いそうなことだが、≪書く≫という行為は相手との距離を測る事に他ならない。私も文章を書くことにより、社会(世界)との距離を自分なりに測ってきた。近づきすぎて余計なものまで見えてしまう事もあれば、遠すぎてよく解らなかったという事もある。この人にはもっと近づいても大丈夫だろうと思っていた相手に、手痛いしっぺ返しを食らう事もある。あるいはもっと近づいていればよかったと後悔する場合もある。

先日『アルキメデスの大戦』という映画を見た。面白かったので原作の漫画(三田紀房著)も読んでいる。主人公の櫂直(かい ただし)は幼少時よりメジャーを持ち歩いていて、何かというと計測せずにはいられないという変な癖のある人物だ。私が面白いと思ったのはこの櫂直がモノの長さを測る際は極々細かいのに、対ヒトの距離感を図るのはモノを図る時ほど頓着しない点だ。それでいて今のところ一つの例外を除いて人間関係はうまくいっている。どうも三田紀房さんという人はあまり人の心の機微を描くことには興味がないのだろうと思う。主人公の櫂直の場合、測る対象は主に無生物だが、こと相手が人間となるとこれがメンドクサイ。こちらが測っているのと同様に、向こうもこちらとの距離の取り方を測っているのだから。その上でお互いにとっての最適解を見つけられればベストなのだろうが、なかなかそうはいかない。近づいたり離れたり、何かを一定に保つというのは簡単なようでいて難しいことかもしれない。必要なとき必要なだけ近づいて、そうでないとき、若しくは距離をとるべき時はそれとなく離れる。そんな生き方が出来れば一流かもしれないが、そんな意味での一流になど私はなれそうもないし、またなりたくないのも確かだ。

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映画も面白いのですが、漫画の方が内容が濃いです。

 

いい大人

私が幼少のみぎり、お泊り保育なる行事があった。町内3~4つの幼稚園が合同で、大きな寺に一泊するというものだ。何のための行事か未だに解らないのだが・・・。とにかくそんな行事があった。さて問題は一泊した朝に起きた。園児たちが朝の洗面所で喧嘩しているのだ。その理由は以下である。

A幼稚園の園児たちは「朝起きたら歯磨きするんだとの事」

B幼稚園の園児たちは「朝ご飯を食べた後、歯磨きするんだとの事」

そこでAとBの園児たちが言い争っているのである。その根拠は「先生(自分たちの)が言ってたから!」との事。C幼稚園生だった私は「どっちでもいいや。どーせ歯磨きぐらい。誰に迷惑かけるでもなし。」と結局、歯を磨かなかったのを憶えている。

 さてそれから40年。その頃、歯を磨かなかったつけが今表れている。歯は一生もの。歯を磨こう!という話ではない。ある小説よれば、その小説に描かれる民主主義国家の国是は「自由・自主・自律・自尊」だそうだ。自由・自主・自律・自尊・・・どうやら先の話で言えば、民主主義とはとてもとても幼稚園児には無理な代物だ。みないい大人?にならないと。いや、待てよ、ほんとにそうか!そもそもいい大人ってなんだ?大人になればみんな「自由・自主・自律・自尊」ができるのか?んなことないだろ!先の例で言ったら結局はその《気質》によるんじゃないのか?・・・おっと今核爆弾級の地雷を踏んでしまったかもしれない。《事の本質》って奴を突き止めてしまったのかもしれない。クワバラクワバラ(笑)。

さてこの文章をお読みの皆さん!あなたはいい大人ですか?民主主義にふさわしいくらいの。その前に、そもそもいい大人って何でしょう?御一考ください!ちなみに選挙行きましたか?私は行きました◎

 

PSこれと言った不都合がないなら自分の足で歩きませんか?

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いい大人だからこそGUを!

 

タテマエもしくは命名

至極アイロニカルに言えば、現代社会における西欧文明の優勢は彼らが「タテマエ」を創り出したことにあると私はみる。「タテマエ」とはすなわち「人権」「自由」「法の下の平等」等の概念を指す。これらの諸概念をクリアーにしたこと。つまり言語化、定義づけした事こそが現代社会における西欧文明隆盛の原因だ。孔子が「論語」で「己の欲せざるところ人に施すことなかれ」と述べているように「人権」という概念に類する《感覚》は2000年以上昔のアジアにも存在した。ただそれはあくまで《感覚》に過ぎず、言語化・定義づけされなかった。そこがアジアの西欧に対して遅れ(その表現が妥当かどうかはさておき)をとった原因だと私は考える。私の直感が何に基づくのか以下に述べる。

憲法の解釈」という言葉をよく耳にするが、これは日本に限ったことではない。諸外国でも「法の解釈」は頻繁に行われる。ある本によれば、法をつくる際に敢えて解釈の余地を残すのがスタンダードなのだとか。何故か?答えは簡単でその都度、都合のいいように法の解釈を変えられるようにとのこと。では誰にとって都合のいいようになのか?少し話は飛躍する。

盗賊には3つのタイプがある。

  法の網を破るもの

  法の網をくぐるもの

  自らの都合のいいように法を定めるもの

どれが最もたちが悪いか?火を見るよりも明らかだ。つまり何が言いたいかというと、法とは権力者にとって都合のいいように、権力者により定められるのだという事。その意味で言えば「法治国家」などまさに「タテマエ」に過ぎない。いかに「法」というハードウェアが優れていようと、それを定め・運用するのは「人」というソフトウェアだ。である以上、極論すれば「人」次第でどうにでもなる。まさに「法治国家」ならぬ「人治国家」だ。そして40年も生きていれば解ることだが、いわゆる権力者からみれば我々社会的弱者など吹けば飛ぶようなものだ。その意味では「法の下の平等」などチャンチャラおかしい。たがその吹けば飛ぶような存在である我々が最後にすがるのがやはり「法の下の平等」等々の「タテマエ」なのだ。もし「人権」という「タテマエ」すらなかったら我々は言葉通り吹き飛ばされてしまうだろう。何度も言うが、それを阻む最後の砦が「タテマエ」だ。そして当時の人たちが思考に思考を重ね、何万リットルという血が流れた結果、たどり着いたのがこの「タテマエ」なのだ。だからこそ「タテマエ」を馬鹿にしてはいけない。「タテマエ」を馬鹿にする人は人類の血と汗と努力を蔑ろ(ないがしろ)にしている。この「タテマエ」があったからこそ、人(人類)は前に進むことが出来たのではないだろうか?それが社会の発展につながったのではないだろうか?

 我々が当たり前のように持っている《感覚》をクリアーにする事、つまり言語化する事、定義づけする事がいかに重要か、文章を書きながら自分でもひしひしと感じた。まだここに無いもの、在るけどあやふやなものに名を与える事、つまり「命名」はとても難しい。そして大切だ。

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今日からお前は「千」だ!(笑)

 

側面の情

以前勤めていた学習塾(障害を伏せていたので長続きはしなかったが・・・)の採用試験で「貴方はどんな教師になりたいか?」という小論文の試験が出た。そこで私は次のように答えた。

人を動かすのに3つのやり方があると聞きます。

1つは正面の理

2つ目は背面の恐怖

3つ目は側面の情

1つ目については理屈で正面から人を説得させる方法。勉強しない生徒に対して何故勉強しなければならないかを正面から理屈でもって説く。

2つ目は恐怖で人を動かす方法。要は威嚇と脅しである。

3つ目は情で人を動かす方法。ユーモアやウィット等の笑いで生徒の心を動かす。

私はできる事なら3つ目の側面の情で生徒を動かす教師になりたい。

結果、見事合格して採用にこぎつけたわけだが、なかなかに良い回答だったと自負している。この小論文と学科試験(社会と国語)があり、後で聞いたことだが、社会の出来は散々だったようで、どうやら私は国語とこの小論文でひっかかったらしい。

言うまでもないことかもしれないが、上中下で言ったら正面の理とは中策、背面の恐怖とは下策、側面の情とは上策である。と私は考える。もちろん人によっては上中下の付け方が異なることもあるだろう。そこが「らしさ」というものかもしれない。私の文章を読んでくださっている方々にはお分かりかもしれないが、私はどうも理詰めで笑いを考えるところがある。本当にユーモアのある人は論理など飛躍して笑いをとる。そういう時はとても敵わないなと思ってしまう。面白い人というのは羨ましい。どうでもいいことだが、その昔「ワンダフル」という深夜番組に「ラッパー整体師」なる職業の人が現れた、つまりはラップしながら整体するという肩書なのだが、その人がラップしながら整体するその物まねを友人がやったのが本当に面白かった。ハラワタがよじれた。もしくは、サッカーのTVゲームでラストパスを出す際に「届けこの想い!」と言う友人がいた。これも面白かった。「ラッパー教師」もしくは「教師ラッパー」なる者がいてもいいかもしれない。「教師ラッパー」はだめか・・・。そんな想いが届くと良い。さてこの文章をお読みの皆さんは勉強しない子供に対して、どの様にして勉強させますか?もしくは敢えてさせませんか?その際ここで言うところの側面の情を用いるならばどのような笑いを誘いますか?暇ならどうぞ御一考ください。

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ワンギャル懐かしいです(笑)。