他者への興味

昔ある友人が言っていた。

スウェーデンの小学校では学校を欠席する生徒がいるとその生徒の椅子の上に、その生徒の代わりにお人形さんを置く」

当時何の事なのかわからなかったが、今はなんとなく解る気がする。私が思うに他人に興味がないのではなかろうか?だから「今日はこの子が休んでいるのだよ!どうしたのだろうね?」と意識させるために人形をその子の席に置いているのではないだろうか?

 

私は行ったこともないのにスウェーデンという国を「税金は高くとも、高福祉で、医療費・教育費を国が負担、政治家は他の職業と兼務、政治家としての給料は微々たるもの。そして投票率は高い。等々の表面的な情報を耳にし、いわゆる北欧の高教育・高福祉型国家の典型としてすごく理想的だなと思っていた。日本もそういう国家像を理想とすればよいのに・・・人口や国土の広さ等の諸事情から難しいのかな?などと思っていた。

 それに対し友人はこの話を持ち出し、自分はスウェーデン的な国家は好きになれないと言っていた。もうずいぶん昔の話で当時の私には、休んだ生徒の席の上に人形を置く?という事の意味がよく解らなかった。ただいまにして思おうと上記のような理由なのではないかと考える。あくまで推測の域を出ないが・・・

 欧州的個人主義のいきつく結果がこれなのだろうか?他人に対する興味が少なく自己と他者の線引きがきっちりとしている。これは果たしてよいことなのだろうか?

 ひるがえって我々日本人に限らず多くの国の大衆は噂話が大好きだ。英国にしろ日本にしろ王室や芸能人のゴシップやその一挙手一投足をメディアが取り上げ、それに一般大衆は一喜一憂する。私自身はこの種の人々とは距離を置きたいと思ってきた。今までの人生の経験上、何かしら趣味なり、目標をもって人生を送っている人たちは他人の噂話や陰口なんかに花を咲かせている暇はない。もっと能動的に主体的に生きている。私自身もそうありたいと思う。だから心の中で他人の噂話やゴシップ、陰口ばかりを言っている人たちや、それを助長するメディアを馬鹿にしてきた。もっと言ってしまうと教育の水準を上げて、民度・公共心・リテラシーを向上させるべきだと思ってきた。ただその結果として同級生が休んだことに無関心で、その席に人形を置いてどうしたのだろね?と意識させるような状況が生まれてしまうなら、それはそれで問題なのでは?とも思う。基本的に自分自身に興味関心を抱き趣味なり目標なりをもって主体的に生きるというのには賛成だが、他人に対する興味関心をほとんど持たない共同体というのもそれはそれで問題だなと・・・。

 もう一歩誤解を恐れずに言ってしまうなら、この傾向は男性より圧倒的に女性に強い(日本では)噂やゴシップ、陰口というのは主に女性が好むものだ。決して女性蔑視や偏見ではなくごく一般論として。でもそれは言い換えれば、人間に対して興味関心を持っているという点で男性よりも優れているという事だ。それも当然と言えば当然で赤ちゃんを産んで育てる以上、人間に対する興味関心がなくては始まらないのだろう。これからはその役割を男性も担うべきだが・・・

 

さていろいろ述べてきたが結論はというと、私は他人の噂話やゴシップ、陰口ばかり言っている輩が嫌いだ。その反面そういった人達を全否定するわけにもいかない。上記のような理由から。あとできれば北欧の高福祉・高教育を掲げる国家に行ってみたい。できれば一年くらい滞在してみたい。無論そんなお金があるはずもなく願望の域を出ない。そういったモデルや長期的ビジョンを政治家と言われる人たちこそが持つべきなのではないだろうかと思う。そういった目的のために使われるのなら税金の使い道としてまっとうだと思うのだ。かつて山田洋二監督がおっしゃっていた。「日本は優しい国を目指すべきではないか」と。細かい実務的なことも大事だが、こういう大きなビジョンを持てる方がご健在であることは非常に有難いことだと思う。

ホンモノ

大学時代、東洋史研究室に在籍していた私は一度たりとも、まともに予習して授業に臨んだことがなかった。漢文を原文から読解するその授業は毎週金曜日にあるので、木曜の夜は皆徹夜してその授業に臨んだ。私は研究室に行くと誰かが持ち寄った漫画を読んでばかりいた。そしていよいよ夜が更けてくると誰が待つわけでもないのにそっこー家に帰って寝た。何故ならつまらなかったからだ。ひたすら漢文を訳すというその作業に一ミリグラムの魅力も感じなかったのだ。こんなつまらないことをやるのは受験勉強でたくさんだ。と思っていた。お蔭で授業は珍紛漢文?で23回質問して、こいつに質問してもだめだと悟ったのか先生も一向に私を当てなくなった。それでもきちんと出席したのが我ながら偉いものだと思う。一つには研究室が楽しかったからというのもある。

 

劣等生以外の何物でもなかった私はしかし、卒論では教授から高評価を得た。理由は単純で、授業はつまらなかったが卒論を書くのは面白かったのだ。自分で情報のピースを集めてそこからロジックを組み立てて仮説に導く。その作業自体は楽しかった。その為には漢文も中国語も読んだ!苦ではなかった。無論院生にも資料を紹介してもらった。

 

昨今友人のFBの記事によると「受動的学びから探求的学びへ」と今の公教育では叫ばれているらしい。いろいろな横文字を使ったりして言葉が独り歩きしている感があるが、つまりは大学時代の私のようになれってことでは?自分でいうのもなんだが時代を先取りしていたと思う。(笑)(大学生だから当然と言えば当然だが)

 

今にして思えばあの授業は卒論を書く上で必要な漢文読解の訓練であると解るのだが、如何せんアプローチの仕方がまずかったように思う。(失礼な言い草だが)

 

どういうことかというと、これからサッカーを始めようとしている子供にバルセロナの試合を見せるのとサッカーのルールブックを読ませるのとどちらがいいだろう?無論答えはバルセロナだ。バルセロナのサッカーを間近で見せたら子供はサッカーに興味がわくだろう。そして自分もああなりたいと自ら探求するのでは?ルールなんかいやでも頭に入ってくる。

 

つまりはホンモノだ。質の高いもの(ホンモノ)を提供・紹介してやるのが教育者なり親なりの務めではないかと・・・できる範囲内でだが。大道芸だって文学だって、芸術だって、哲学だって、スポーツだって、グルメだって、理系の事は解らないけどホンモノを知ることが何をするにしろ原動力となるのではないだろうか?そして本当に道を究めた人なら難しい事をやさしい言葉で伝えることができるはず。そういう人なり物なり事なりに触れる機会をできるだけ多く作ってやるのが教育者の務めではないかと・・・最近思うようになった。

 

ちなみに私が卒論を書く上で“ホンモノ”としていたのはそれまで読んだ漫画や本だったのだと思う。

 

話は変わるが先日『figma テーブル美術館 ダビデ像』というフィギュアを購入した。

ホンモノを観にフィレンツェまで行くのに越したことはないが、如何せん時間も金もない。

でもこれはこれで別の意味でホンモノだと思っている。(笑)

 

figma テーブル美術館 ダビデ像 ノンスケール ABS&PVC 塗装済み可動フィギュア

 

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 追記

同じ研究室に在籍していた友人にこの文章を読んでもらったところ、決して単なる漢文の和訳ではなく、それは探求的で双方向性のある面白い授業だったとの事です。ただ私の側のレディネス(学習の土台としての知識や能力)の不足であるとの指摘を受けました。確かに私の在籍した大学では2年間の教養課程があり、自分の専攻を吟味する十分な時間が与えられていました。「これからサッカーを始めようとする子供」とはわけが違ったようです。両先生方には大変失礼をしました。お許しください。

 

傲慢

クレイジーケンバンド横山剣)の名曲『タイガー&ドラゴン』に次のくだりがある。

 

「俺の俺の、俺の話を聞けー

    2分だけでもいい~

       お前だけに本当の事を話すから♪」

 

凄くいい。好きだ。共感する。

言い換えると、私にも言いたいこと、伝えたいことが山ほどある!

一体何から切り出したらいいのかわからないが・・・

 

There are many things that I would Like to say to you But I don't know how

Oasis Wonderwallより)

 

現在、愛読しているJazzを題材にした漫画『Blue Giant2巻』(石塚真一先生)にも次のようなシーンがある。

 

由井(主人公・宮本大のサックスの師匠)

世界一のJazzプレイヤーになりたいという大に対して

「~や、だから・・・世界一とか、なんでお前が言えんのよ?」

 大「オレ・・・湧いてくるんです。」

 由井「湧く?何が・・・?」

 大「音にしたい気持ちとか感情とか・・・どんどん。

出したい音なら、いくらでも湧いてくるんですよ。」

 由井「つまり・・・お前の感情をみんなに聴いてほしいと・・・」

 大「・・・まあ、できればみんなに(照れ)・・・」

 由井「お前は・・・なんてゴウマンな奴なんだ・・・」

 大「やや・・・・僕は・・・・」

 由井「バカヤロー」

 

この由井のもとで修業を積んで大は仙台から東京へ、ついでドイツ・ハンブルクへと活動拠点を広げることになる。(2017年7月現在)

 そうなのだ。傲慢なのだ。何かを表現するという行為は傲慢そのものの行為なのだ。自分の感情を、思想を聞け!読め!と言うのだから。

(そこ!正座しろ!正座!とは言わないまでも(笑))

その意味で私自自身もやはり傲慢な人間なのかもしれない。でも傲慢でも何でもいいから嘘偽りのない正直な感情が人の心をつき動かすのではないだろうか?その意味で表現者という人種は決して媚びてはならないと思うのだ。腹の底から絞り出すような感情が人の心を揺さぶるのだと思うからだ。

さて私がUPしてきた文章が30近くになってアクセス数は1000を超えようとしている。アクセス数がどこまで信頼に値するものかは、わからない。だが一つの目安にはなるとは思う。これを機に英訳、中国語訳を始めた。この二つの言語に翻訳する事で、より多くの人に私の文章に触れてもらう機会ができると思うからだ。

私は宮本大とは違って「形ある何か」になりたいわけではいが

傲慢でも何でもいい。「届けこの想い(笑)!」という気分なのだ!

Forget me not

 

今回はずばり大衆娯楽と文学性の差異について考えてみた。

決して大衆娯楽を馬鹿にしているわけではない。

文学性との絶妙なバランスが必要なのだと思う。

 

そこで「死」というテーマについて

二つの作品を比べてみる。

 

1つは漫画『One piece』(尾田栄一郎先生・集英社)だ。

これについては今更解説するまでも無いだろう。

万人受けする大衆娯楽の最たるものだ。

私も全部読んだことはないが

有名なエピソードはもちろん知っている。

麦藁の一味の「船医」であるチョッパー。

彼が仲間に加わる際のエピソードで

「死」がその重要なテーマとして扱われている。

このエピソードの中で

チョッパーの師であるドクターが名言を残している。

「人は人から忘れ去られた時に死ぬのだ」

その通りだと思う。逆にいえば忘れられない限り

人々の心の中でその人は永遠に生き続ける。

だから人はいつまでも自分の事を忘れないでいてほしいと願う。

忘れられたら寂しい

特に自分にとって大切な人に

 

ごくごく「自然な感情」だ。

だからこそ、このエピソードが多くの人の心に届いたのだろう。

まさに「forget me not」なのだ。 

これぞ王道というべきだろう。

 

これに対して「筋肉少女帯」大槻ケンジ作詞の

「バトル野郎〜100万人の兄貴〜」

カプコンスーパーファミコン用ソフト「ストリートファイターII」のCMソング)

の歌詞が面白い。

この曲の中盤に出てくる

 

「俺が死んでも泣いちゃいけない笑えよ!

ヒュルリラ ヒュルリラ

風に流して忘れろ!」

 

というフレーズ、

One piece』の例と真逆のことを言っている。

しかし何故かこの部分に私は心惹かれる

 

One piece』で語られる感情はもっともなのだ!

誰だって自分の事を忘れてほしくない。

しかし、それを重々承知の上で

「風に流して忘れろ」

というフレーズに心を奪われてしまうのだ。

誰もが感じる最大公約数的な感情を超越したところに

ある種の美学のようなものを感じる。

「かっこいい」のである。

つまりはこれが大衆娯楽と文学性の違いなのではないだろうか?

最大公約数的な感情を突き抜けた

その向こう側にある美学なり哲学なり(芸術性?)

そういうものに我々は惹かれてしまうのではないだろうか?

若しくは、そこにいまだ汲み尽くされていない感情を

我々は見出すのかもしれない。

 

結論はというと

私だって自分にとって大切な人に自分の事を忘れてほしくはない。

ただ、そういうごくごく当たり前の感情を突き抜けた境地に

ある種のあこがれを抱いてしまうのだ。

それが大衆娯楽と文学性の違いなのではと思った次第だ。

 

ただ誤解しないで欲しいが

決して「死」を美化するものではない。

はっきりと述べておく。

 

もし私のように感じる方がいらっしゃいましたらシェアしてください!

よろしくお願いします。

 

なお、歌は文学ではないとの見方もあるかと思われますが

そこはボブ・ディランの例もあるのでひとまず置いておきます。

 

 

PS

村上春樹氏の『ノルウェイの森』は「死」というテーマを

大衆性と文学性において見事に両立させているのではないでしょうか?

初版から長い年月を経てもなお色あせない理由がそこにあると思われます。

 

 

 

バトル野郎 ~100万人の兄貴~(1992

歌:筋肉少女帯

作詞: 大槻ケンジ

作曲:本城聡章

 

極めろ!道 悟れよ!我

極めろ!道 悟れよ!我

 

なんで戦うかは

後々にしようぜ

死ぬも生きるも

ヒュルリラ

ヒュルリラ

バトル野郎

(行くぜ)戦いの道もえもえ燃えて

バトル野郎

 

極めろ!道 悟れよ!我

極めろ!道 悟れよ!我

 

俺が死んでも

泣いちゃいけない笑えよ!

ヒュルリラ ヒュルリラ

風に流して忘れろ!

(そこで)戦いの道もえもえ燃えて

バトル野郎

 

極めろ!道 悟れよ!我

極めろ!道 悟れよ!我

極めろ!道 悟れよ!我

 

生まれながらの性で

断末魔の時さえ

心で笑う男

戦うか!この俺と君は?

 

人生ホラ

何処にも逃げ場はねえのさ

天王星まで逃げたって

弥勒菩薩の手の上

(だから)戦いの道えらえら選ぶ

バトル野郎

 

極めろ!道 悟れよ!我

極めろ!道 悟れよ!我

極めろ!道 悟れよ!我

極めろ!道 悟れよ!我

極めろ!道 悟れよ!我

極めろ!道 悟れよ!我

 

 

なおこの文章をUPするにあたり友人に推敲をしてもらいました。

ここに敬意と感謝を表します。

汚れちまった悲しみに

中原中也の詩

『汚れちまった悲しみに』の

「汚れちまった悲しみ」とは

一体どんな悲しみなんだろうと

ずっと考えていた。

 

やっとわかった気がする。

小林麻央さんの死だ

 

私は小林麻央さんの事は良く知らない。

以前フリーのニュースキャスターをやってらして

今は梨園の妻であり、

二人の幼子の母親というくらいだ。

あと、ブログは読ませていただいた。

 

幼い子供を持ったお母さんが

若くして亡くなったのは残念で悲しい事だ。

ただ、以前はともかく今の彼女は私人であり、

その死を公共の電波を使って

ここまで大々的に報道するのはどうなのだろう?

私が身内ならそっとしておいてほしいと願うところだが・・・

 

また、彼女のNEWSZERO(日本テレビ)時代の元同僚である

『嵐』の櫻井翔さんが

泣きながら彼女の死についてのインタビューに答えた様子を観て

「演技がかっている」だの

「ほんとうに大切な人が亡くなったら、あんな悲しみ方はしない」だの

「だからジャニーズは嫌い」だのと

ネット上で炎上しているとの事。(625日時点)

ひどい話だ。

もしかしたらあの状況でインタビューを求められて

櫻井さんも自意識過剰になっていたのかもしれない。

しかし、そこまで桜井さんに求めるのは筋違いではないだろうか?

 

そんなことよりも腹立たしいのは

この例からもわかるように

若くて二人の幼子を持つ母親の死という「悲劇」を

我々大衆が「消費」している一面があることだ。

彼女の人生は「商品」ではない!

 

もう一つ不自然なのが

彼女の死の報道がなされた時間帯だ。

それは前川前事務次官の会見の実況中継の真っ最中に行われた。

 

彼女の死が私事であるのに対して

前川前事務次官の記者会見は公事だ

どちらがより重要か中学生でも分かる。

であるのに何故メディアは彼女の死をメインに報道したのか?

結果、前川前事務次官の会見の実況中継は

ものの5分に満たないものとなった。

ひょっとして彼女の死の報道は

国民の関心の矛先を

政治問題からそらすための「道具」として

使われたのではないか?

そう考えるのは私だけだろうか?

 

もし、私の考えていることが

真実の一端をつかんでいるのなら・・・

 

私は憤慨する。

 

彼女の死は「商品」ではないし

ましてや「道具」などでは断じてない。

 

一人の妻であり、

二人の幼い子供の母親である

若い女性の死

という「悲しみ」を

我々は寄ってたかって

「汚した」のではないだろうか?

 

「汚れちまった悲しみ」

がどんな類の悲しみなのか、

自分なりに解釈できた気がする。

 

もういい

これ以上はたくさんだ。

 

ただ、

メディアがどうあれ

ネットがどうあれ

結局のところは我々一人一人の

リテラシーにかかっているのではないだろうか?

我々大衆も学び

考えねばならない。

 

 

汚れっちまった悲しみに

今日も小雪の降りかかる

汚れっちまった悲しみに

今日も風さえ吹きすぎる

汚れっちまった悲しみは

たとえば狐の革ごろも

汚れっちまった悲しみは

小雪のかかってちぢこまる

汚れっちまった悲しみは

なに望むなく願うなく

汚れっちまった悲しみは

懈怠のうちに死を夢む

汚れっちまった悲しみに

いたいたしくも怖気づき

汚れっちまった悲しみに

なすところもなく日は暮れる……

 

中原中也

『山羊の歌』より

 

麻央さんのご冥福をお祈りいたします。

禅問答

禅問答とは何か?

一番わかりやすいのが

一休宗純と将軍足利義満

屏風の虎の話だろう

(実話か作り話かはさておき)

 

将軍「一休、この屏風に描かれた虎を捕まえてみよ」

一休「わかりました。ではまず、なわを用意してください」

将軍「ほれ用意したぞ、約束通り屏風の虎を捕えてみろ」

一休「わかりました。では次に屏風の虎を外に出してください!」

将軍「屏風の虎を外に出せるか!」

一休「屏風の虎を捕えられるか!喝!」

 

という具合だ。

一休は将軍足利義満の無理難題を見事に喝破しているが

普通の人にはそうはいかない。

将軍様の無理な言いつけに困惑するのみだ。

そして真面目な人ほど

このやり取りを通じて

将軍様=主

その人=従

という関係性(依存関係)

に組み込まれていく。

 

こいつがしょっちゅう行われている場所がある。

 

 

 

学校だ

決して悪く言うわけではないが

ただ

誤解を恐れずに言うならば

何かを表現・主張するという事は

時に誰かを傷つけることだ

たとえその気はなくとも

それが嫌なら何も主張しなければいい

でもそしたら今度は

あいつは何も主張しないやつだ

と言われる。

どっちにしても何か言われるのなら

主張した方がましだ

それに

毒にも薬にもならない表現など

最初から存在する意味がないとも思うのだ。

 

と言い訳を述べたうえで

敢えて言わせてもらうなら

 

非常にナンセンスなことだと思う。

 

職員室で

部活を辞めたいと泣いている生徒に対して、

教師の側がずーっと沈黙しているのだ。

それが延々続く

 

若しくは

いわゆる禅問答を教師の側が吹っ掛けるのだ

そうして返答に困っている生徒に対して

ここぞとばかり

依存関係を深めていく。

 

「おいおい、これから自立していこうって世代に対して

依存を深めさせてどうすんだよ!」

 

と傍目で見ながら

内心では思っていた。

(自分が中学生だった時も教師になってからも)

≪高校時代は幸いそういう先生には出会わなかった≫

 

思いはため込んでおいてもどっかから噴き出すもので

私の場合ある日の授業でそれが出た。

 

「君らは『鋼の錬金術師』って漫画を知ってる?」

あの漫画の最初のエピソードが面白い。

ある若い女性が恋人を亡くした悲しみから宗教にはまってしまう。

熱心に信仰すればその恋人が生き返るとそそのかされて。

ところが主人公である鋼の錬金術師

(自分の母親を蘇らせようと、禁忌とされていた人体錬成を行い

その代償として右手左足を失い義手義足になった)

がその宗教のインチキを暴く。

結果その若い女性は何と言ったか?

「これから私は何にすがって生きていけばいいの?教えてよ」

これに対して主人公は何と答えたか?

「そんなことは自分で考えろ。

立って歩け!前へ進め、あんたには立派な足がついているじゃないか。」

 

10年以上前の漫画だから少し表現的にどうかという面もあるが)

言わんとしていることは十分通じる普遍的なメッセージだ。

 

「かつて昭和の国民的ドラマ『3年B組金八先生』の中で主人公、

坂本金八が「人という字は人と人が支えあって人なんだよ。」

と言っているけど、

まずは一人一人が自分の足で立って歩いて

その上で支えたり支えられたりするんだ。

まず、自分の足で立って歩くこと

少なくともそうしようと努力することだよ。

そのために、まず連れ立ってトイレに行くことを辞めたらどうかな?

まずはそこからだよ。本当に」

 

私の長くもない教員生活の中で珍しく「いいこと」を言ったと自負している。

それによって否定されたように感じた方もいただろうし

その方にはその方なりの理由もあったろうし

(孤独だっただけかもしれない)

と思うと申し訳ないのだが・・・

 

ただ依存関係に組み込むことを教育と称する

変な風習が当時まかり通っていたのは事実だ。

 

個人競技、例えばフィギアスケートの安藤美姫モロゾフコーチのような

関係が成り立つのは、それはそれでわかる。

しかし、学校教育というのはそれとは違うだろと思う。

なんでこんな話(禅問答)になったのかというと・・・

・・・・・・

・・・・・・

・・・・・・

とにかくトイレには一人で行こう!喝!

私が言いたいのはそれだけ!

 

 

 

鋼の錬金術師①』 荒川弘 2002 より

アイデンティティー

まだクリスチアーノ・ロナウド

マンチェスターユナイテッドにいたころ、

試合後、彼がどこで誰と夜遊びをしていたか

アレックス・サー・ファーガソン監督は

翌日の朝にはちゃんと把握していたらしい

(『Number』より)

まあ、それは良くわかる話だ。

彼ほどのスター性

(後にマンUに莫大な移籍金をもたらす)

があるダイヤの原石(すでに十分輝いていた)を

その私生活を含めてしっかり監督しておくことは

クラブにとってもファーガソンにとっても

一大事だったのだろう。

あれだけのルックス(私より若干ハンサム(笑))

と実力、富と名声

どれをとっても常人には到底手の届かないものだ。

 

さて私は名も無いオッサンだが

彼の事が羨ましいかというと・・・

 

そうでもない。

いや、羨ましいといえば羨ましいのだが

自分はこれでいいかなと思う。

 

何故か?

 

私にあって彼にないもの

それは

「自由」だ。

 

私がどこで誰と何をしようが

そんなことは人様の興味の対象外だ。

LINEでどんなやり取りをしようが

ブログに何を書こうが

気に留める人はいない。

いるとすれば

それは学生時代のごく近しい

(今では遠く離れた)

友人や恩師くらいのものだ。

 

だが、これがクリスチアーノ・ロナウドだったら世間が黙っていない。

 

つまり、何が言いたいかというと

内心、思想、言論、表現という点で

私はクリスチアーノ・ロナウドよりもはるかに「自由」だ。

そして私は「自由」が好きなのだ。

おそらくほかの何よりも

 

古代ギリシアの格言に

「汝自身を知れ」

とある。

それはつまり

「自分が何が好きで何が嫌いか、それをわきまえろ」

という事だと私は理解している。(諸説あるが)

その意味で私は私自身をよく解っている。

(当たり前だ、もう40だ。解らないでどうする?

ただそうでない人がいるのも事実)

 

そして自分自身を知ると

いろいろな物事が実にシンプルに見えてくる。

そのシンプルな価値基準に従うことで

人は自己をより肯定的に

とらえることができるのではないだろうか?

 

「私が私で良かった。」

 

アイデンティティーってつまりはそういうことだと思う。

その意味で私は結構幸せなのかもしれない。(感謝)

 

You need to be yourself

You can't be no one else

OASIS Supersonic

 

Get grip of yourself It don't cost much

OASIS Whatever

 

僕が僕らしくあるために

好きなものは好きと

言える気持ち

抱きしめてたい

槇原敬之 どんなときも)

 

私以外私じゃないの

当たり前だけどね

だから

報われない気持ちも整理して

生きてきたいの

普通でしょ

ゲスの極み乙女 私以外私じゃないの)

 

僕が僕であるために

勝ち続けなきゃならない

尾崎豊 僕が僕であるために

 

様々なアーティストが扱っている普遍的なテーマだ。

繰り返しになるが

「自分が自分で良かった」と思えること

それは幸せのひとつの形なのだと思う。

そのためにも

「汝自身を知る」

必要があるのではないだろうか?

さすが古代ギリシア

伊達じゃない(笑)