さようなら 会えなくなるけど さみしくなんかないよ

 

今朝目が覚めたら何故か頭の中でこのフレーズが流れていた。

調べてみたらミスターチルドレンの『星になれたら』という楽曲のサビの部分だった。

私はミスターチルドレンのCDを買ったこともないし、ダウンロードしたこともない。

ましてや『星になれたら』という曲名は今検索して初めて知った。

どこかで耳にしたフレーズだったのだろう。

一体何故このメロディーとフレーズが流れていたのだか解らない。誰かに会えなくなるのか、もしくは会えない誰かの事を指しているのか?睡眠や夢と音楽の関係は非常に興味深い。以前ビートルズポール・マッカートニーは朝、目が覚めたら頭の中でメロディーが流れていたという。それをそのまま曲にしたのがかの有名な「yesterday」だ。「yesterday」に」比べるのはおこがましいが私も20代の頃目が覚めたら聞いたこともないメロディーが頭の中で流れていたことがあった。テープに録音するなり、楽譜が書けたらよかったのだが・・・今はもうそのメロディーは忘れてしまった。

無意識のうちに鼻歌を口ずさんでいるという体験は誰にでもあると思う。私は調子のよいときにモーツアルトの「トルコ行進曲」が頭の中から流れてくる。若しくは「トルコ行進曲」が流れてくるから「調子よくなれるのか」たまごが先か鶏が先かという話になってしまうが・・・それとは別に、くしゃみをするのはどこかで誰かに噂されているからだという表現がある。音楽も同様でその場にいない誰かとの関係において頭の中から流れてくるのかもしれない。それをシンクロというのかなんというのか解らない。私の中で「トルコ行進曲」が流れてくるのはどこかで誰かからの好意のような何かを感じているからかもしれない。もっともこれは私がそう勝手に感じているだけで推測とすらいえない事だが・・・

 ともかく、音楽にはある種の力があると思う。先日私の部屋で正午の甥っ子二人がピコピコと対戦ゲームをしているところで、ゲーム音ばかり聞いてないでいい音楽を聞かせてやろうと思いビートルズの「here there and everywhere」をかけてやった。曲が流れ始めると二人は一瞬ぴくっとして静まり返った。そのうち「これ対戦してるときにかける音楽じゃなくね?」と言われて結局途中で止めてしまったのだが・・・情操教育ってこういうものかもなと思った。

また、話は移るが星野源さんが新曲「Pop Virus」という楽曲で「始まりは 炎や 棒きれではなく 音楽だった」と歌っている。多分人類の進化の過程で音楽が持つ力というか作用のようなものをテーマにした楽曲なのだろう。実はこれと同じテーマを山下和美先生の「不思議な少年」でも扱っている。人類史上初めて「歌」が生まれた瞬間の事を描いてらっしゃる。

話はあちこちに飛んだが「夢」と「メロディー」と「歌詞」と「人間間の相互作用」と「音楽の持つ力」と・・・これらの事はまだまだ自分の中でも考えのまとまらないテーマだが非常に興味がある。いつかもっとまとまってきたらまた文章化してみたいと思う。肉体が何を食べるかによってつくられるように、精神も何を見るか、聴くか、読むかによって形作られるものなのかもしれない。できるならなるべく質のよいものを見聞きしたいものだ。

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山下和美先生の代表作『不思議な少年』とても面白いです!

 

自分First

自分First

 

以前の職場でお世話になった方から年賀状を頂いた。

「お元気ですか。

健康第一で、また「自分First」であられますように。

本年も佳き年となりますように。」

との事。年賀状を頂き嬉しかったのはもちろんだが、「自分First」という言葉が気になった。このブログの存在をご存じなのかどうなのか解らないが、勿論この方はいい意味で「自分First」と書いてくださったのだと思う。ただそれとは別に「俺ってやっぱり「自分First」なのかな?」と思う節がないでもない。

 先日サッカーの日本代表戦を男性六人で観戦した。前半は中からの攻撃ばかりで単調になってしまったが、後半は左サイドに張った選手を起点にサイド攻撃が功を奏し逆転勝利した。日本の勝利でその場は楽しく終わったのだが、帰りの車の中で思わず本音が出た。

私が(右サイドで張っているべき選手が中に中に入りがちでチームとしてうまく機能しなかった。)「これ言っちゃいけないかなとは思うのですが右サイドで張るべき選手はちょっと自分が自分がというところがありましたね。」

それを受けて運転してくださった方が「まだまだあおいという事ですかね?」とおっしゃった。私は「うーん、何とも言えないです。そのあおさが必要な面もあるし一概には言えないのですが・・・。」それを聴いて助手席に座られた方が、

「そうなんだよね、10番の中島がいればまた、変わったんだろうけどね、ちょっとね。」私は嬉しくなって

「そう、その通りなんですよね、チームって生モノなんですよね。人が一人いるので全然違ってくるんですよね。」と、その車内での会話はとても楽しかった。やはり本音で会話するのは楽しいものだ。ただその為には本音を切り出す「自分First」な奴が必要で、どうも私にはそのけがあるなと思った次第だ。良くも悪くも・・・

 「自分First」が一概に悪いことだとは思わない。ただそこには「周りを生かす」という意識が常に必要なのだとも思った。私はもうしがないオッサンに過ぎないが、今回の右サイドでプレーした選手はまだまだ今後いくらでも伸びる余地がある。いい意味での「自分First」を目指して頑張れマラドーアン!

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応援しています!!



時短

時短

 

現代人は何かと忙しい。

かくいう私もその一人だ。この年末年始休暇を利用してカズオ・イシグロ氏の(『私を離さないで』2005)を読もうと思っていたのだが、なかなか長い時間をとれない。結局、途中で挫折して、代わりに、北村良子氏の『発想力を鍛える33の思考実験』という本を読み始めた。こちらは33の思考実験とあるように、各単元の区切りが短くて、細切れの時間であっても読みやすい。読み進めていくと第一章の「心のありかを問う実験」で、なんとカズオ・イシグロ氏の『私を離さないで』が話題にあげられていた。(クローンに心はないという考えから、臓器提供に利用される主人公たちを描いた作品)とあり、その時点でネタバレというか、小説のテーマが解ってしまったわけだが・・・。

 まだ全部読んでいないので何とも言えないが、前者『私を離さないで』では400ページにわたって展開されるテーマを、後者『発想力を鍛える33の思考実験』ではほんの十数ページであつかっている。大変興味深い。どちらが良いとか悪いとか、そういう話ではない。物語の細部まで描かれていて、登場人物に対する思い入れが深まるという点では前者の方が優れている。ただ、「とにかく時間がない」という観点からすれば、後者の方が優れているのも事実だ。そして幸か不幸か、世界は無数のテーマに満ち満ちている。に対して時間は有限だ。私などはつい後者を選んでしまう。「もっと時間と集中力があればなあ」といつも思う。

 また、小説とは心理描写、会話、情景描写の3つから成るとある作家が述べていたが、いわゆる情景描写を私は、流し読みしてしまう癖がある。情景を描写することで、登場人物の心理をメタファーとして読者に伝えているのだと思うが、そんなことよりは登場人物の心理や会話・発言をダイレクトに受け止めたい。この情景描写を実際の絵で表しているのがマンガなのではないかと思って久しい。情景を描写する長たらしい文章を一目でわかる絵で表現しているのだから、時短という観点でもマンガは優れた表現形態だと思うのだが、あまり評価されない。嘆かわしい限りだ。

 時短という観点で言えば音楽にも同様の事が言える。クラシックなどをたまに聞くと、あまりの悠長さに.あくびが出てしまう。そういう時代だったのだろう。現代の楽曲だって今とバブルの頃ではイントロの長さに違いがある。今の曲はイントロが長いとそれだけで飽きられてしまうらしい。何とも忙しい世の中になったものだ。

 さて話は移るが私が書き綴っているこの文章はあえてカテゴライズするならエッセイになるのだと思う。長編とまではいかなくても、中編、短編小説を書いてみたいという思いはあるのだが、時間的にも注ぎ込むエネルギー的にもなかなかできずにいる。ただ、実際に読んでくださる方々の事を考えると、これはこれでよいのではないかと思う。忙しい日々の中でスキマ時間に読んでそれなりに楽しめて考えるきっかけとなる。そんな文章が今の社会では有用なのかもとも思うのだ。

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写真はカズオ・イシグロ氏の『私を離さないで』(早川出版の文庫版)です。

 

欲望

 その昔ある皇帝が臣下の武将を捕えて言ったそうな
「お前が謀反を企てているという讒言があってな」
対してその武将は
「私にそのような思いは露ほどもございませぬ。その証拠として兵権は返上しましたし、領地はごく狭い土地を頂いたにすぎませぬ。そのことは陛下もご承知のはず。」
対して皇帝は言い放つ。
「確かにお前に謀反を起こすつもりはないのだろう。しかしお前には謀反を起こすだけの能力がある。それ自体がお前の罪だ。」
それを聴いた武将は笑って罪を受け入れ、斬首に処せられたという。
この逸話を高校生の頃に読んだ私は「才能のあるやつってスゲーなー、一度でいいからこういう気分を味わってみたいものだ。もっとも殺されるのはまっぴらだけど・・・」
 斬首に処せられた武将は欲がなかったのだろう。逆に言えば自身に満足していたのだろう。だが欲の深いものには欲のないものを理解することは難しい。そして理解できない存在というものは常に恐怖を伴うものだ。その意味で欲深いものとは常に臆病にならざるを得ない。いつ自分のポジションが奪われるのではないかと・・・それがこの帝王が武将を殺した一つの要因だったのではないだろうか?
それから20年。私のこのブログは当初、極々近しい人たちと、あわよくば出版関係の方々に知ってもらえたらと思って書いてきたが、いつのまにか予期していなかったほどの大勢の人に読まれるようになってしまった。それはそれでうれしいことだが、いささか困ったこともある。どうも読者の方々の中には私の存在を過大評価してくださる人が多数いるようだ。私としてはあくまで読みものとして書いているだけで現実にリンクしたような深い意味は全くない。もう少し言わせていただくなら、私が一組織人として限りなく無能に近いのは周知の事実だし、私自身、組織の中でどういうポジションにつきたいなどという殊勝な心掛けは露ほどもない。私を過大評価するのはどう考えてもお門違いだ。
 もっとも私も聖人君主ではないから欲がないわけではない。ただそれは組織の中で重要なポジションを得たいとか、いわゆる権力が欲しいとか言ったものではない。私に人並み以上に欲があるとすれば、それは文章でもって自己を表現したいという欲求だ。本当に大それたこととは思うが、それこそ歴史に名が刻まれるような文章を残したい。そう自分では思っている。「何を馬鹿な」とおっしゃられる方もいると思うが、私だって夢くらいある。でなけりゃ毎日やっていけない。そのことをご承知の上で、私が願うのは、周囲の方々にはできるだけ人畜無害な人間としてそっとしておいてほしいという事だ。無論組織人としての最低限の職責は全うする。つまり給料分の働きはきちんとする。あくまで給料分ではあるが(笑)。幸い私の属している組織は懐が深い。私のような存在を一人や二人受け入れてくださる度量は十分にある。と思っている。本当に有難いことだ。いずれは何らかの形で恩返し出来たら、そのように思って日々を過ごしているのです。

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適正価格

 昨日、兄が11歳の甥っ子を連れて遊びに来た。甥っ子にこんな話をした。

私「クラスにちょっと人気のある女の子がいたとする。その子本来の魅力はこんなくらいなんだけど、クラスのみんなが「~ちゃんて可愛いよね」と言ってる。するとその子の人気は急上昇で、本来の魅力をはるかに越えてしまう。この状態の事をバブルっていうんだけど、まあ今は言葉自体はどうでもいいや。そのうちクラスの誰かが「でも~ちゃんて性格悪いよね。」と言い出す。そうするとそれにつられてクラスのみんなも「そうだよねそんなに可愛くないよね。」と言い出す。その子の人気は急降下。本来の魅力よりずっと落ちてしまう。こういう事って理解できるよね?」

甥っ子「うん」

「だからその子が人気のある時には告白してもだめで、人気が下がった時に告白すればOKしてもらえる。タイミングが大切だって話。」と兄が茶々を入れる。

そこで私が「いや、それはそれでいいんだけど、大切なのは「クラスのみんな」に振り回されないで「本来の価値」を見極める目が必要だってこと。「物事の本質」ともいう。その子の魅力がどんなものなのか?自分自身の目と耳と頭で考えなくてはいけない。「クラスのみんな」に振り回されないで自分自身で見極めろという話。それが出来ればそうそうドジは踏まない。わかる?」「うん、解る。」「よし、じゃもう寝よう!」

 これは株式から応用した話だ。世界一の投資王ウォーレン・バフェット氏の師であるベンジャミン・グレアムは株式市場の事を「躁うつ病を患った気の毒な人物Mr.マーケット」に例えている。もちろんここで言う「クラスのみんな」の事だ。グレアムの主張はこうだ。Mr.マーケットがうつの時に株を買って、躁の時に売れと。先の私の兄の発言と要は同じだ。つまり、「適正価格」を見極めろと!それが出来れば怖くないという話。今、株式の話を、「クラスの可愛い女の子」に応用したが、これは例えば企業の人材活用にも応用できるし、主義や、システムと言った事柄にも応用可能だ。例えば会社にNさんという文章を書かせると非常に面白い人材がいたとする。Nさんのレポートが読まれると彼の人物評はうなぎのぼりだ。「Nは優秀な人材だ!」しかしよくよく見てみると社交性や協調性に欠ける。今度は彼の評価は下がる一方で底割れ状態。「Nは見掛け倒しだった。」でも時間の経過とともに解ってくる。やはりNは物事を深く自分の頭で考えている。ただ社交性や協調性に欠けるのも事実。つまり彼はAという仕事には向いているがBという仕事には向いていない。これが「適正価格」だ。

 この例からわかるのは「適正価格」が判明するにはある程度の「時間」が必要不可欠だという事。さて、Nさんの例で必要な「時間」はせいぜい半年から1年程度だろう。しかし、より長いスパン、それこそ10年とか100年とか1000年と言ったスパンでみて初めてその「適正価格」が解る例もある。例えば「共産主義」がそれだ。カール・マルクスによって提示されたこの概念はかつて一世を風靡した。「共産主義は現代のユートピアだ!」と。しかしその「適正価格」が解かるのに(必ずしもまだその「適正価格」は解らないという意見もあるだろうが・・・。)100年以上かかった。マルクスの提示したその革新的な理論に当時、少なくない数の人々(未だにその理論を信奉している人もいると思うし、それを否定するつもりはないが)が熱狂した。つまり躁状態になってしまった。そのような中で「ロシア革命」・「文化大革命」・「安保闘争」が起きた。結果は言うまでもない。彼らは事を起こす前に立ち止まってこう考えるべきだったのではないだろうか?「今、自分たちのやろうとしている事の歴史的「適正価格」はいくら位なのだろうか?」と。つまり10年後、100年後、自分たちの採ろうとしている行動はどのように評価されるのだろうか?と。そして自己に対して疑いの目を向けるべきだったのだ「自分たちはもしかするとヒート・アップしているのではないか?」と。 

  ファシズムにしても同じことが言える。ヒトラーを支持したのは「躁うつ病を患ったクラスのみんな」だ。そしてその「適正価格」がいかなるものであったかは今更語るに及ばない。また、ヒトラーという個人にばかりスポットが当たりがちだがヒトラーという特定の個人がいなくても別の誰かがその役割を担ったのではないか?ヒトラーを作り出した「躁うつ病を患ったクラスのみんな」つまり「大衆」こそ、責任を問われるべきなのではないか?その意味で個々の人物ばかりをクローズアップした旧来の歴史観は少し違うと思う。

 このブログをはじめから読んでくださっている方々はお分かりと思いますが、私がこのブログで一貫して主張しているのは「感情の共有」には気をつけろ!です。「躁うつ病を患ったクラスのみんな」とは言い換えれば「群集心理」に他なりません。そしてそれは「感情の共有」のなせる業です。何も「感情の共有」が悪だとは言いません。ただ、「その子が本当に魅力的かどうか?」自分の五感で感じ、自分の頭で考える必要があると思うのです。メディアに惑わされず。それが出来れば歴史は変わっていたかもしれないのです。

 『現在自分たちが採ろうとしている政治的行為の「適正価格」を歴史的スパンで考える。それを踏まえたうえで自身が集団的に過熱しすぎていないか、過冷しすぎていないかを客観視して政治に、経済に、歴史に臨む』

  そのような歴史観を「Mr.マーケット的歴史観」と名付けます。既に知識人や研究者によって提示されている概念かも知れませんが、一応そのように命名しておきます。著作権や知的営為の成果を放棄するつもりはありません。なお今回の記事を記すにあたり友人Nの助力を得ました。ここに謝意を表します。 

諸田 亮

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原動力

 

任天堂クラシックファミコンを買った。早速、小学生の頃夢中になったスーパーマリオ3をやってみた。リアルタイムではラストステージには行けたものの、最後のボス・クッパ大王まではたどり着けなかった。大人になった今こそクッパを倒してやると意気込んで挑戦してみたが、如何せんクッパどころかファーストステージのボスすら倒せない。こんなはずではなかったのに・・・何が言いたいかというと、使わない能力は低下するという事。以前書いた神経衰弱(トランプのゲーム)の話と一緒だ。使わない能力は落ちる。さて私は、そこそこ難関と言われる大学に現役で合格したが、極々客観的に見てその当時の能力が今は影も形も、ない。スーパーマリオと一緒だ。使わなければ落ちる。訓練に訓練を重ねて何とか大学には合格したものの、その当時の頭の回転の速さ、記憶力、同時進行で複数の物事を考える力、そして見直しを厭わない緻密さ、それらは今や欠片も、ない。当然というべきか、私は、仕事は、できない。社会人になって常々思うのは大学名なんか関係ない。学び続けるやつが強いのだという事。だったら、再び訓練しなおして一度は身につけた能力を取り戻せばいいじゃないか、スーパーマリオをまたやりこんだらいいじゃないか、という御意見もあるだろうが、如何せんその気になれない。失われてしまったのだ、情熱が。          

先程、「大学名なんか関係ない。学び続けられる奴が強いのだ」と述べたが、学び続けられる人にはその情熱があるのだろう。そう、情熱もしくは原動力と呼ばれるものだ。ではその原動力って何から生じるのだろう。いわゆる夢か志か?それとも豊かさや勝利への執念か?そういうのは私にはいまいちピンとこない。なんだかどれもボヤっとしていて興味ない。では昔、私が抱いていた情熱はどこから来ていたのか?思うに子供の頃あんなに一生懸命になれたのは単純にそれが楽しかったからだ。スーパーマリオガンプラがサッカーがそして本がマンガが楽しくて楽しくて仕方なかったのだ。昔タモリさんが言っていた「俺なんて小学生の頃は明日何して遊ぼうかしか考えてなかったからね」そうなのだ、夢とか志とかそんな小難しいものではなくて「楽しい」が原動力だったのだ。「意志あるところに道は生ず。」ならぬ、「楽しみあるところに道は生ず。」なのだ。もちろん、つらい事、苦しいことがあるから、楽しみが活きてくるのだという人がいる。それは確かに一理あるが、比率が問題だ。9割つらくて1割楽しいよりは、1割つらくて9割楽しい方が、私はいい。何なら10割全部楽しくてもいい。楽しいに越したことないじゃないか!と思うのは私だけか?楽しいから一生懸命になれる。少なくとも私はそういう人間だ。極論するならつまらなく長生きするよりは楽しく早死にした方がいい。もちろん楽しく長生きできるに越したことはないが・・・と、ここまで考えてきて、果たして一般的に人生とは楽しいものなのだろうか?強がりでなく心の底から人生って楽しいと言える人は人口の何割くらいいるのだろうか?(世代間で差も出るだろうが)もしくは国別、人生楽しい度(熱中度)調査?をやってみたらどうなるのだろう?この場合、幸福度と楽しい度(熱中度)は似て非なるものだ。何故なら「熱中」もしくは「没頭」という概念が重きをなすからだ。また、「楽しい」の必要十分条件は何だろうか?家族なり、友人なり、恋人なり、周囲の人間関係が良好なこと、一生懸命になれる何か、夢中になれる何かがある事。この2つだろうか。「いや、基本的に人生なんて楽しくない。だからこそユーモアが必要なのだ」というニヒルな意見もあるだろう。・・・まあ、考え方は様々だろうが、最終的には次の言葉を借りて締めくくりたい。

「基本的に人生とは生きるに値するものだ」

宮崎駿氏の言葉だ。彼は「その思いを作品に込めている」と述べておられる。その言動の節々から一個人としての彼は、なんて頑固な爺さんなのだと辟易するが、クリエイターとしての彼は、すごいなーと思わざるを得ない。いろいろな作品があっていろいろなメッセージがあってよいと思うが、彼の言う「生きる事って楽しいんだ」というメッセージが何よりも大切な気がする。今までの考察からすれば、それが生きる情熱・原動力そのものだからだ。昔、手塚治虫先生がおっしゃっていた「やはり、子供向けの作品が一番大事だ」と。初めて聞いた当時はなんだかわからなかったが今ならわかる。「生きる事って楽しい」というメッセージは子供にこそ必要なものだからだ。(無論、大人にだって必要だが)。漫画でも小説でもアニメでも映画でも、読んだ人、観た人が「明日が来るのが楽しみ」になるような作品だったら本当に素晴らしいと思う。

 話は戻りますが、この文章を読んでいただいている皆さんの原動力は何でしょうか?もしかして私と同じ?同じなら、皆さんが人生をいっそう楽しめるよう祈っています。ちなみに私自身はこのブログを綴っているときが一番楽しいです(笑)。

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感情はともかく情報は

「感情はともかく情報は共有すべきだ」というのが私の持論だ。情報と言っても芸能人のゴシップとか同僚の陰口とかではない。広く社会一般のために役立つ情報なら皆で共有すべきという事だ。卑近な例で申し訳ないが私が世界史の教員になりたての頃、授業の準備に非常に手間取った。専門だった中国史ならそれなりの引き出しがあるものの、それ以外の分野はほとんど素人同然だ。それこそ毎時間の授業ごとに前日の夜中の23時までかけて参考書を何冊も読みまくって授業に臨んだ。それでも駆け出しの駆け出しだった私はなかなか生徒の満足のいく授業ができなかった。それこそ毎時間、毎時間が自分との、そして生徒との格闘だった。休日は授業の準備や専門書を読む事、それ以外は部活の引率でいっぱい、いっぱいだった。そんな風にして一年余りが過ぎたころ、私に転機が訪れる。授業準備の一環としてインターネットで情報を収集していたところ、これは!というサイトを見つけたのだ。そのサイトの名は『世界史講義録』大阪の公立高校の教員である金岡新先生(ペンネーム)が自分の授業をそのままの語り口で文章化して作った世界史の授業専門のサイトだ。『世界史講義録』には金岡先生が長年の教員生活で専門書を読んだりご自分の体験に基づいたりして作り上げた深い授業が惜しむことなくそのままの形で掲載されている。教科書を読んでも絶対に理解できっこない事柄がその背景を含めて解りやすい文章でしかも面白い語り口で紹介されている。私にとってはまさに宝の山を探し当てた気分だった。それ以来『世界史講義録』は私のバイブルになった。『世界史講義録』を読んでそれにプラスアルファで自分なりに調べたことを加味して授業に臨んだ。自分で言うのもなんだがそれ以来、私の授業は「新人のくせに、解りやすくて面白い」と評判になった。まあそれも道理だ。大ベテランの先生の授業を土台として行っているのだから。しかし生徒も馬鹿ではない。どうやらあいつの授業はネットで調べたものをそのまま使っているらしいとのうわさが立つ。まあ、いずれ解るだろうと思っていたからそのまま放っておいた。無論、私の評判はがくんと落ちる。「なーんだ、ネットの丸写しかよ」と。だが生徒とは本当の意味で馬鹿ではない。そのうちにちらほら言い出すものが出てくる。新人のくせに参考書だけに頼るんじゃなくて、もちうる手段のすべてを駆使して授業に臨んでいるんだと。それだけ努力してるんだ。それだけ自分の仕事に一生懸命なんだと。そうなってくると生徒の方も授業に臨む態度が変わってくる。ここに至ると私の方も特に隠す必要はない。きちんと『世界史講義録』と金岡先生の名を明かしたうえで

「この金岡先生は自分が努力して身に着けた質の高い授業をただでネットに公開してくれる。無論著作権は放棄しないと書いてはいるけれど。そのおかげで今面白くてわかりやすい授業が私にもできる。君達の為にもなる。ほんとは努力して身に着けたものなのだから自分だけの所有物にすればいいのに、立派な人っているものだね。ネットで公開しているおかげで、我々のように得している人が他にもいるはず、そう考えるとこの金岡先生の功績は大きいね。こうして情報を共有することで少し大げさかもしれないけど、日本の高校全体の世界史の授業の質が高まっているのかもしれない。金岡先生に感謝だね。インターネットが普及するまでは授業の面白い解りやすい先生がいてもそれは個人プレイに過ぎなかった。その恩恵に与る人はわずかだった。予備校などに行けば受けられたかもしれないけど、それにはお金もかかる。そう考えるとインターネットってすごい。でもそのインターネットの仕組みがどういう風に生まれてきたか?それを調べると社会の不条理に行き着くよ。」

長くなったが何が言いたいかというと、情報は共有すべきだという事。社会は情報を共有することで発展してきたのだという事。インターネット、もっとさかのぼるならグーテンベルクの発明した「活版印刷術」、こうしたツールでもって「情報」を共有することによって社会は発展してきたのだ。話は戻るがそもそも歴史を学ぶのは何故か?それは人類全体の情報(記憶)を共有するという事に他ならないのではないか?ヒトラーの様な人物に何故権力を与えてしまったのか?(彼に権力を与えたのは圧倒的多数の国民に他ならない)スターリンのような人物が何故最高権力者になるに至ったのか?そういう忘れてしまいたい記憶も含めて人類全体で情報を共有する事、それが歴史を学ぶ意味なのではないだろうか?一部の人間が情報を独占し操作する、そのような社会は健全とはいいがたいのではないか?

もう一度言うが「社会全体にとって有用な情報は共有すべき」だ。正しいことを言っていると思うのだが・・・もっとも正しいことが正しく行われるような世の中なら、貧困や格差、差別、戦争、テロ、そういった問題はもとより生じないとも思われる。我々の生きるこの社会は不条理に満ち満ちている。それをあきらめて受け入れるか、それとも立ち向かうか?それはあなた方次第なのです。私?私は残念ながらもうとっくにあきらめてます。何せいいオッサンだから(笑)

 

遅れましたがこの場を借りて金岡新先生にお礼を申し上げます。

その節は有難うございました。益々のご活躍を期待いたします。

 

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