論理を超えた笑い

「あれ?S一郎がまだだよ。S一郎どこ行った?おーい!S一郎」

「あっ、俺か(笑)」

学生時代の一コマ。サークルの集合場所にて。何が面白いかと言うとS一郎君を探しているのが当のS一郎君本人だったという点。

当時、仙台で一人暮らしを初めて間もなかった私は、「東北の人(S一郎君は仙台人)はシュールなボケかますな」と感心したのを覚えている。自分で考えたのかな?だとしたら大したセンスだなと思っていたところ、このボケの元ネタは古典落語にあった模様。落語に詳しい方はピンとくると思われるが、「粗忽長屋」(そこつながや)がまさにこのボケの元ネタかと。ある長屋にAとBの二人の粗忽もの(そそっかしくて、おっちょこちょいな人)が住んでいた。ある朝Aが散歩に出ると人だかりができている。行ってみると、なんとそこにはBが死んでいるではないか!さっきまで一緒にいたBが死んでいる!驚いたAは自分の目を確かめに長屋に戻る。するとそこにはいつもと変わらぬBがいる。「あれお前、さっき死んでたぞ!」AはBを連れて先の人だかりに確かめに行く。人だかりについてみるとやっぱりそこにはBの死体がある。あわてて自分の死体を抱えるB。

A「ほら見ろ!お前死んでるじゃねーか!」

B「確かに俺が死んでいる。するってーと死んでる俺を抱えているこの俺はいったい誰なんだ?」

という落ち。これと似た話が小学生の頃に聞いたカセット文庫にもあった。出典をググってみたがもう古いもので不明。内容は以下の通り。あるところにとんだ粗忽ものがいた。そそっかしいものだから朝起きてから失敗ばかりしている。一日かけていろいろな失敗を繰り返すのだが、極めつけはその日の終わりに。寝ようとしてロウソクの明かりを吹き消そうとしたところ、間違って自分自身を吹き消してしまったという落ち。給食中にこの話を聞いていた我々は半ば恐ろしいような半ば面白おかしいような気持ちでキャッキャと騒いだのを覚えている。

これらの話の共通点はどれも論理的にはありえないという点。ロジックで頭をがんじがらめにしてしまうと笑うに笑えないという点だ。以前「笑いの方程式」で「文脈」をずらすことで笑いが生まれると書いたが、この場合「文脈」そのものにゆさぶりをかけることで笑いが生まれるといった感じ。普段できるだけ論理的に物事を考えようとか、論理的に文章を書こうと考えているが、いわゆる論理を超えた笑い(驚き)というものが存在するのだと実感する。ヒット商品とか流行語大賞とかが単なるロジックだけでは説明がつかないのとこれは同じだろう。PPAPがなぜあんなに受けたのかロジカルに説明できる人はいない。まさにDon’t thinkfeel.なのだ。

話は戻るが、これとよく似たテーマを扱った話がやはり中国にもある。それも2000年以上昔に。荘子胡蝶の夢がそれだ。ある男が夢の中で蝶になってひらひらと飛んでいた。大変気持ちよかった。しかし目が覚めてみるとやはり自分は人間で蝶ではなかった。しかしここで男は思う。俺が夢の中で蝶になったのか?それとも蝶が夢の中で俺になっているのか?はてさてわからなくなったぞ。・・・

 

いろいろ述べてきたが結論はと言うと、ロジックは万能ではないという事。そして兎に角、落ち着いて何事も慎重にという事(笑)

 

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好みのタイプ

 先日二十代の方々とテーブルを囲む機会があった。そこでそれぞれの好みの異性のタイプを述べるという私にとっては本当に久しぶりの話題になった。私は「新垣結衣のような美人だけどコミカルな役のできる女性、ひと昔前だと仲間由紀恵のような人がいいと無難な答えを返した。深田恭子さんにはあえて触れなかった。(笑)その中である方が「自分は自分が好きになった人が好みだ」とおっしゃっていた。私はなんだか直感的に「かっこいいな」と感心してしまった。何がかっこいいのかと考えてみたのだが、つまり私を含めその場にいた方々と発想が逆だったからだと思う。私などはその方の逆で自分(私)に好意を抱いてくれた人に対して、もっと言うとリスクを顧みずにとってくれた方に対して、御恩と奉公ではないが恩義に報いるという形でその人に好意を抱いてきたような気がする。過去を振り返ってみてもほとんどがそういう形で他人を好きになっていた。これは何も私が異性にもてるとかそういう事を言っているのではない。そんなにもてていたら今頃とうに結婚しているはずだ。誰かに好意を抱くというのも多様な形があるものだが、私の場合、如何せん受動的であるのは否めないだろう。それに対し先に挙げた方は「人を好きになる」という点において、いかに能動的であることか?こんな風に人を好きになるというのはそれだけ他人に対して興味や関心があるという事で、それは本当に羨ましいことだと思う。新約聖書の言葉にある「与えよ、さすれば与えられん」とはこういう事なのかもしれない。もしくは単に私が年をとっただけかもしれない。なんにせよ「自分が好きになった人が好みのタイプだ」とおっしゃった時のその方はこの上なくまぶしく見えたのだ。今は亡き、忌野清志郎さんの「愛し合ってるかい?」というメッセージの意味がほんの少しだけわかったような気がした。

 

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自分の言葉

いいこと言うじゃないか!知識偏重のナンセンスさは俺が学生時代から主張してきたこと。やっと世間が俺に追い付いてきたってことか?用語を覚えるよりも仕組み・からくりを理解することの方が百倍重要だ。

 

まだ追いついてないよ、俺がお前に追い付いた。

 

よく解ってるじゃないか(笑)。俺は頭は良くないが、ただ一つ誇れるとすれば悪いなりに自分の頭でいつも考えてきたってこと。どんなに拙くとも自分の言葉で語る方が単なる受け売りよりもはるかに価値があるぜ!

 

これは先日行われた大学入試センター試験の地理の問題を解いての友人との感想。なんでもムーミンがどこの国の話かを知っていないと解けない問題だったとか。ちなみにムーミンフィンランドの妖精。とってもちっちゃな。

 

友人に返信をしたとき、「どんなに拙くとも自分で思考することの方が受け売りの知識よりも価値がある」と私は直感的に述べたのだが、それはなぜか?自分の直感が何にもとづくのか?寝ながら考えた。

 

結論から言うとズバリそれが民主主義の根幹をなすからだ。どんなに、学識の豊かな専門家の言葉だろうと、どんなに社会的地位の高い方だろうと、どんなに優秀な人の言う事だろうと、あの人が言っているのだから間違いないと、自ら考えることを放棄してしまったら、それは直接であれ間接であれ民主主義とはいえない。確かに組織、特に軍隊などでは上意下達が必要で、命令にいちいち疑問符をつけているようでは戦場では話にならない。それはもっともだ。と言いたいところだが本当にそうだろうか?太平洋戦争上最も過酷な惨状となったインパール作戦では「味方を5000人殺せばあの土地を占領できる」といったあまりにもずさんで、どう考えても実現不可能な作戦指示が上層部からなされた。当時現場を知る中堅の軍人はそのことを百も理解していたが上層部に対して反論できない空気が出来上がっていたという。結果、補給線を無視した軍隊には戦死以上に疫病や飢えで死ぬ兵士があふれ、生き残った者たちは死んだ自軍の兵士たちの肉を食して飢えをしのいだ。とNHKの特番で当時の兵士が述べていた。耳をふさぎたくなるようなしかしこれは現実だ。組織の自浄作用が失われている一例だろう。上意下達が硬直化した組織では下位に属するものは自ら考えることを放棄してしまう。それが染みついている人にとっては逆もまた然りだ。自分よりさらに下位に属するものが何を言ってもそれを退けてしまう。私が学生時代に師事した先生はそれがどんな拙い論理であれ、生徒自らが考えたものであればきちんと耳を傾ける方だった。そこには知的ヒエラルキーも何もなかった。その薫陶を受けてか私も教師時代、自分が知らないこと解らないことは正直に知らない、わからない、と伝え、その場で考えた。それが信頼と組織の自浄作用につながっていたのではないかと今にして思う。話はそれたが民主主義とは一人一人が自分の頭で考えることを前提として成り立つ社会制度だ。うちは代々あの人の地盤だからとか、若くてルックスがいいからとか、みんなあの人に投票するからだとか、そういうレベルで貴重な一票を投じるのは本当にナンセンスなことだと思う。その意味で、誰が言ったか知らないが選挙のたびに出てくる「○○劇場」という言葉は、我々大衆をこれ以上ないほどに侮辱にしているのではなかろうか?この言葉が平気でメディアに取り上げられている光景に我々大衆はもっと憤りと情けなさを感じるべきだ。我々大衆も勉強しなければならない。そして自分の頭で考えねばならない。ただ、中には日々の仕事や介護、育児に追われて、とてもそんな余裕はないという方々がいるのも事実だろう。そういう方たちの為にも政治家と言われる人たちは、難しい言葉や専門用語をかみ砕いてやさしく解りやすい言葉で説明する責任があると思う。無論良い面も悪い面も含めて本音で。私も難しい事は解らない。ただ池上彰さんのような方が難しい内容をやさしい言葉でかみ砕いて我々大衆に伝えてくださるのは本当に有難いと思う。うがった見方をすればこの国の教養が底上げされてきたからこそ池上彰さんのような方が脚光を浴びる土壌ができてきたのかもしれない。無論池上彰さんの個人的な努力と理念には敬意を払うものである。でだ、解りやすい言葉で情報を得たからには、そこから先は我々一人一人が自身の頭で考えねばならない。では、そもそも考えるとはどういうことか?考える人と考えない人の違いは何か?私の経験上そのカギとなるのは「言葉」だ。我々は物事を考えるうえで、その道具として「言葉」をいやがおうにも使わざるを得ない。日本語で言うなら、て・に・を・は、しかし、何故なら、だから、また、その上、等々、小学校低学年で覚える基本的な接続詞や助詞が物事を考えるうえで非常に重要な役割を果たす。ジョージ・オーウェルの「1984年」を読むと解るのだが、かの小説の舞台となっている監視社会では為政者側が言葉をどんどん簡略化して最終的には言葉そのものを消滅させようと図っている。つまり思考や概念のツールを奪おうとしているのだ。もっと言うと「考えない・考えられない人間」をつくろうとしているのだ。1948年の段階でこのような発想をしていたジョージ・オーウェルという作家はすごい。またまた話はそれたが、何を言いたいかと言うと「自分の頭で考えよう」そのためにも「日本人ならまずは日本語」をしっかりと身に着けよう、という事。そして親なり教師なり教育に携わるものならば、それがどんなに拙いロジックでも子供が自分の言葉で述べる時、それに耳を傾けるべきだ。話は飛躍するかもしれないが、そうすることが民主主義のはじめの一歩になるとおもうのだ。

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「愛だろ、愛っ」

ひと昔前に「愛だろ、愛っ」というキャッチコピーが一世を風靡した。サントリーカクテルバーのCMで永瀬正敏さん演じる少し情けないキャラのセリフだ。これが私の学生時代に流行った。会話の中で割と深刻なボケをした友人に向かって(ここでは詳細は控えるが)「ツッコミって愛だろ、愛っ」といってフォローした友人がいた。また、この「愛だろ、愛っ」というフレーズは普段愛想の無い奴が言うほど効果的だった。今にして思えば皆、半ば照れ隠しで、半ば自嘲的なジョークだったのだ。自分の真心を韜晦させるためにこのフレーズを用いていた。私もまたこういう友人たちと同じだ。真剣なこと・大切なことを伝える際どうしても自分の本心を韜晦させてしまう。つまりジョークに紛らわせてしまうのだ。

それが粋だともいえるし、そうでもしなけりゃ恥ずかしくてやってられないというのもある。この「サントリーカクテルバー」のキャッチコピー「愛だろ、愛っ」は、それ自体ジョークに紛らわせつつも、大切な本心を述べている気がする。一つ気づいたのが一見「愛のない男(なさそうに見える男ほど)ほど」このフレーズが似合う。いかにも愛情たっぷりの人物(例えば松岡修造)を使ってもこのCMはしっくりこない。何故か?

ここで問題になるのは何をもって愛の対象とするかだ。先程一見「愛のない男」と書いたが本当にそうだろうか?目に見えるもの、触れられるもの・人(具体物)を愛の対象とするのか、それとも目では見えないもの、触れられないもの(抽象的な概念)を愛の対象とするのか?前者は難しい言葉を用いるなら「形而下」的である。これは解りやすい。良くも悪くも女性はおおよそこのタイプだ。(決して女性蔑視をしているのではない。)松岡修造もこのタイプだろう。ほんとのところは解らないが・・・(彼は誰よりも上手に「松岡修造」を演じているだけかもしれない。)

後者は「形而上」的なものだ。それは理念であり、美学であり、もしくはイデアなどとも呼ばれる類ものだ。   

このCMは一見、「形而下」的に見えるようでいて、その実、「形而上」的なものに光を当てていたのではないだろうか?だからこそヒットしたのだと思う。そうなのだ。良くも悪くも、男だったら目に見えるものとか、手で触れられるものとか、そんな類のものでなくて、理想とか美学だとか、目には見えないもの、手では触れられないものを追い求めるべきでなはいだろうか?それこそ人生をかける価値があると思うのだ。(もっとも私は明日の糧を稼ぐので精いっぱいだが)(笑)

とにかく「愛だろ、愛っ」なのだ!そして私にとってそれは良くも悪くも、くどい様だが良くも悪くも「形而上」的なものだ。ついでに言わせてもらうなら私のように感じる人がもう少しでも増えたら、よりbetterな社会になるのではないかと、僭越ながら思ったりもするのだ。

 

あたしは君のメロディーやその哲学や言葉全てを

守るためなら少しくらいする苦労は厭わないんです。

幸福なんです♪(椎名林檎 幸福論 1999年)

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忖度

You wanna be who you'd be
If you're comin' with me
I think I've got a feeling I've lost inside

 

Oasisの代表曲『Roll With It』の一節だ。意訳すると

 

自分らしく生きたいんだろ!

俺に気なんか使うなよ!

そんなことされたら

なんだかさみしくなっちまうじゃないか。

 

私はこのフレーズが好きだ。理由は単純に正直で温かみがあるからだ。

 

今年の流行語に「忖度」が選ばれた。意味は「相手の気持ちを推し量ること」。この忖度が私は苦手だ。正確には忖度している自分自身が嫌いだ。これは社会人としては致命的な欠点だと思う。何故なら互いに忖度しあうことで物事が円滑に進み、社会が滞りなく運営されるからだ。確かに社会が円滑に運営されるのは良いことだ。ただそこに、よそよそしさと、誤解を恐れずに言うならある種の不誠実さを感じるのは私だけだろうか?学生時代、特にお金があったわけではないが、私は友人にだけは本当に恵まれていた。今思うにあれは下手な忖度をしなかったからだ。忖度せずに思いのたけを正直に述べたからこそ築けた人間関係だったのだ。社会人になってからはそうはいかない。互いに忖度し合い、程よい距離を保つ。それが大人の付き合いというものだ。もしくは私の学生時代が幼かったというべきなのだろうか?ひょっとしてOasisの曲想は幼いのだろうか?そうかもしれない。ただ幼稚であろうが、自分勝手であろうが、そこには時を経て人の心を打つ何かがある。でなければこれほど多くの人に支持されないはずだ。もしくは忖度し合う世の中だからこそ訴えるものがあるのかもしれない。それを人は美意識というのだろうか?昔、「幽遊白書」という漫画の中でけんかに一番強いものが好きな願いを叶えられる、つまり魔界のルールを決められるという魔界統一トーナメントなるものが開催された。我こそはとひしめく猛者たちの中で、圧倒的な強さで優勝したのはこれと言った野心のない主人公の亡父の友人だった。一番強いものがも他者に対して一番優しくなれるという単純明快な、しかし社会のある一面の真実を表していたのをよく覚えている。富樫義博先生は忖度がお嫌いなんだろうなとその時思った。

しかしまあ、なんにせよ忖度は必要だ。ただそれは何処かしら温かみと誠実さに欠ける。もしかするとそれがさみしくて嫌で、忖度など必要としない関係を求めて人は家庭を持つのだろうか?私は今まで家庭を持ちたいと考えたことがなかったが、なんとなくその理屈がわかったような気がする。忖度ばかりの世の中で多少の摩擦があってもホンモノが欲しいのではないだろうか?私には小学4年の甥っ子がいるのだが、彼の「おれウナギ食いたい。」という、忖度のまるでない表情がまぶしいのだ。

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無視できない存在

このブログを初めて2年余りが過ぎた。当初はごく親しい人たちに向けて、また願わくば印税収入につながればと思って始めたこのブログだが、最近は色々な方々に読んでもらっているようで、反応が興味深い。ストレートに「読んでます。」とおっしゃってくださる方もいれば、それとなく言外に読んでいる旨を伝えてくださる方もいる。読んでもらえないよりは、読んでもらえる方が書く側としては当然嬉しいわけで、やる気も出るというものだ。ただ、なかにはこれはもう確率的にどうしようもない問題なのだが、困った読者もいる。こちらの視界に入るかはいらないかの立ち位置でこれ見よがしに嘲笑してくるのだ。いやなら読まなきゃいいだろうし、誰もあなたの為には書いていない。と声を大にして言いたいのだが、相手の気持ちが解らないでもない。嫉妬と羨望がないまぜになった気持ちを自分でも持て余しているのだろう。その吹き出し方があれなのだろうなと思う。無視できない存在というのは誰にもあるもので、その人にとってはそれが私なのだろう。何のとりえもない、しがないオッサンに過ぎないのだが・・・私にも無視できない相手がいる。女優の深田恭子さんだ。35になってあの美貌とすれてなさ。そして何より彼女の誕生日は私と同じ!何か運命的なものを感じる(笑)のはこちらだけで当の深田恭子さんにとってはどうでもいい事だ。私が「ファンなんです!誕生日、一緒なんです!」とアピールしても彼女にとっては迷惑なだけだ。私の想いは一向に伝わらない。こんなに想っているのに何で振り向いてくれないのだ!ここに至って私の感情は裏返る。つまり憎しみへと転化するわけだ。可愛さ余って憎さ百倍である。まさに愛情と憎悪は表裏一体、いわゆる一つの愛憎劇の出来上がりだ。この手の輩が私は本当に苦手だ。彼・彼女らの傲慢さにはほとほとあきれる。私自身、表現者とは傲慢な人種だと以前に書いたが、傲慢 - kirutokira’s blog彼・彼女らはそのはるか上空を行く!自己を客観視するという能力に欠けているのだろう。もしくは自己を客観視できなくなるほどのインパクトを私が与えているという事だろうか?もしやそれを人は恋といふのか?

以前、村上春樹さんがインタビューで答えていた。「私は絶滅危惧種の動物のようなもので、そっとしておいてもらえればよい」というような趣旨の発言だった。私には村上春樹さんのような才能はない。無論印税収入もない。だから、それこそ、そっとしておいてもらえる権利があると思うのだが・・・一体、こんな冴えないオッサンの何がそれほど周囲にインフルエンスを及ぼすというのだろう?悩みは尽きない。でもまあ、笑われて、憎まれてなんぼだ。と思う事にしておこう。表現者としては。

 

※話は変わりますが、スターウォーズも見方を変えるとアナキンとパドメに始まる血族間の愛憎劇と言えるのではないでしょうか?もっとも私はそれほどスターウォーズに興味はありません(笑)。

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俺が地球を・・・

芥川竜之介の晩年の作品に「河童」がある。ある男が河童の世界に迷い込んでそこで河童と生活を共にするという話なのだが、これが当時の日本社会・人間社会を痛烈に風刺していて面白い。特に興味深いのは、以下の箇所だ。河童の社会では胎児に産まれたいかどうかを問い、胎児が生まれたくないと答えれば即時に中絶が合法的になされる。その際、父親の河童にこの世界に生まれてきたいかどうかを問われた胎児の返答が印象的だ。

 

「僕は生れたくはありません。~中略~ 僕は河童的存在を悪いと信じていますから。」

芥川龍之介『河童』1927年より)

 

胎児に産まれたいかどうかを問い、胎児が生まれたくないと答えれば即時に中絶が合法的になされる。

 

高校生の時にこの小説を初めて読み衝撃を受けた。書かれている内容的には「毒以外の何物でもない」のだが、その「毒」によって自らの「毒」が中和されたように感じた。「毒を以て毒を制す」とはこういう事だろうか?おそらく当時の私は自己の存在に対して懐疑的になっていて、そんな折にこの小説を読んで、ある種の救いを見出したのだと思う。自分のような「暗闇」を感じている人がほかにもいると思い、安心できたのだ・・・前向きなことを述べるだけが救いになるとは限らないという一例だろう。「毒」が救いになることもあるのだ。ただ、この作品を発表して間もなく芥川龍之介自身は自殺して他界しているわけで、その辺りは難しいなと思う。

 なぜこんな話になったかと言うと昨日ある方とお話をする機会があり、その方曰く「自分はどうしても自己を否定しがちだ」との事。ガラスの十代を経ていいオッサン?になった私は、現在では自分自身に対して、いやに肯定的だ。むしろ島本和彦先生※の言葉を拝借するならば

 

「俺が地球を回す!

 この地球、誰がまわしてると思っていた?

 俺だ!そして、お前なんだよ!

 回し方を間違えるなよ、人が落ちたりするからな。。。」

 (http://jironosuke.cocolog-nifty.com/blog/2007/07/post_b834.html より)

くらいの気分でいる。こういうことを言うと眉をひそめる方もいると思うが、それくらいの心構えでよいのではないかと思う。ジョークを以て毒を制するのだ!

ジョン・レノンオノ・ヨーコのなれそめについては以前にも書いた。(http://kirutokira.hatenablog.com/entry/2016/08/03/234805より)、彼の生い立ちを知ると見えてくるのだが、ジョン自身もやはり芥川龍之介のような「自己の存在に対する懐疑」を少なからず抱いていたのではないだろうか?だからこそオノ・ヨーコの「YES」という言葉に心を奪われたのだと思う。自身の存在を無条件で肯定されたと感じたのかもしれない。表面的な言動はともかくジョン・レノンという人は生きることに真面目な人だったのだろう。もちろん芥川龍之介も。さて、何事によらず不真面目な私としては世界中の生きづらさを感じている方々に是非、島本和彦先生の作品を読んで欲しい。まずは『逆境ナイン①~⑥』をお勧めしたい。そして感じて欲しい「地球を回しているのはあなた方一人一人なのだ!」と。

 

(「俺が地球を回す~人が落ちたりするからな」は他作品のセリフです。どの作品のセリフだったか思い出せないのですが、確かに島本和彦先生の作品にあったものだと記憶しています。ご存知の方は教えてください。)

 

島本和彦日本漫画家実業家。本名は手塚 秀彦(てづか ひでひこ)。北海道中川郡池田町出身、北海道札幌市在住。漫画プロダクション「ビッグバンプロジェクト」代表。主な作品に『炎の転校生』、『逆境ナイン』、『燃えよペン』、『 吼えろペン』、『アオイホノオ』がある。(ウィキペディアより)

 

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 (『逆境ナイン』の名場面より)