どこ吹く風

自分には全く関係・関心がないというように、知らん顔をすること。「何処吹く風と聞き流す」

宿題

 「なんで宿題なんてやらなくちゃいけないの?」

職場の学童での一コマ。この問いは小学生にとっての永遠のテーマだろう。先日、適当にお茶を濁してしまったから、この場で改めて答えたい。

 

 私に言わせれば、宿題には相矛盾した2つのメッセージがある。

 

①考える力をつけさせるため

②考え無くさせるため

 

の2つがそれだ。何を言ってんだ?と思うかもしれない。順を追って説明したい。

 

 ①の方は解りやすい。サッカーに例えるなら、宿題をやるのはサッカーの基本のきであるボールタッチやインサイドパス・トラップなどの練習に当たる。こういった基礎的な足元の技術が出来るようになって初めて、“繋ぐサッカー”や高度な戦術をこなせるようになってゆく。高い建物をつくるにもまずは土台作りから。その土台に当たるのがこれらの基礎練習だ。学校の宿題はまさにこれに当たる。基礎的な計算の出来ない者に抽象的な・哲学的な思考など出来ようはずもない。

 

 次に②について。結論から言うと、宿題とは“出す側”と“出される側”との関係性を固着化させるための方便の1つだ。どう言う事か?

 我々学童支援員にも《子供達に言う事を聴かせなければならない場面》と言うのが多々ある。「言う事を聞きなさい!」と頭ごなしに言うのは下策だ。本当はいつもその子のことを思いやって、親切・丁寧に面倒を見てやる。それが出来ていれば、自然とその子はこちらを信頼して言う事を聞いてくれる。でも、(と言ってはいけないのだが・・・)全部の子供達を丁寧に優しく指導するなんて物理的に不可能だ。それに、こちらだって人間だから間違いや限界もある。その状況で「言う事を聞きなさい!」と1度や2度、言葉で言った所で効き目は薄い。有効なのは“習慣化”だ。つまりは「支配する側と従属する側」と言う関係性を習慣化してしまう事だ。ここで言うならば、宿題を出す側、出される側と言う関係を毎日、毎日繰り返す事で、支配と従属の関係を固着化させてしまうのだ。そうすれば子供達はツベコベ言わずに従うようになる。のみならず、誤解を恐れずに言うならば彼ら彼女らは“考えなくなる”のだ。もともとは持っていた「何故、宿題なんかあるの?」と言う問いすらいつの間にか忘れてしまう。言われたことを疑いもせずにやるようになる。

 

 その様に考えていくと、はじめて「宿題とは相矛盾したメッセージを発している」事が理解できる。ではこの相矛盾するメッセージのどちらがより重要なのか?

 

 私たちが育成したいのは言うまでもなくシチズン(市民)であり、シヴィリアン文民)だ。間違っても兵隊ではない。である以上、より重きを置くべきなのは前者だ。少し話は飛躍するが、サッカーにおいて“本当にいいチーム“とはどんなチームだろうか?それは選手自らが考えるチームだと私は思う。試合中に監督が与えられるメッセージには限界がある。選手自身が「今試合はどういう局面なのか?」を理解し、時間を使うべきなのか?引いて守るべきなのか?それとも攻めるべきなのか?ショートパスを多用すべきか?ロングパスを多用すべきか?等々。それを最終的には選手自身が考えるべきだと私は思う。

 

 よくサッカーのチームにはピッチ上の監督と言われる選手がいる。そういう選手がいるチームはまるで1つの生き物のようになる。そしてそういうチームは強い。そのような能力を発揮するかどうかは別として、全員が持つべきだと私は思う。つまり考えなくてはいけない。言い換えれば「何故、宿題が必要なのか?」と言う問いを忘れてはいけないのだ。同時に考える力を養うために絶対に宿題はこなさねばならない。宿題が本当に必要なのか疑問を抱きつつも、義務教育においてはきちんと宿題をこなす。こなさせる。これが私の“宿題”に対するスタンスだ。

 

 そして本当にできた子供と言うのはそういったこちらの意図をちゃんと理解している。で、言ってくれるわけだ。「毎日毎日宿題考える先生も大変だね!」と。

 

 もちろん皆が皆、そんな“出来たお子さん”である必要など全くない。そんな出来過ぎた子供ばかりでは教師の方が報われない。だからなM君「なんで宿題なんかあるんだよ?」と言う問いはそのまま持っていていいんだ。それはM君の大いなる強みだと私は思う。でもな、それはそれとして「宿題はちゃんとやれよ‼‼‼。」

 

ではまた!

「宿題」一度は出してみたいものです‼‼‼