どこ吹く風

自分には全く関係・関心がないというように、知らん顔をすること。「何処吹く風と聞き流す」

「美」について

 先日から「美」について考えている。古い友人によれば、「芸術作品で表現する「美」は自分で確立するもの」との事。私自身が個人的に確立した?「美」とは別に、至極一般的な意味での「美」について考えてみた。

 

 先日、映画『シン・ウルトラマン』を観てきた。光の星から来た外星人であるリピア(ウルトラマン)は、禍特対の神永新二が逃げ遅れた子供をかばって死亡した姿から人類に興味を示す。彼は神永との融合を決意するのだが・・・。

 

 この神永新二の行為に典型的な「美」の1つの在り様が示されている。解りやすく言えば「自己犠牲」だし、もう少し抽象的な言い方をするなら「自己を超える行為」となる。生き物なら自分が一番大切なのは自明のことであって、この行為は生物学的には極めてアブノーマル(変態的)だ。そのアブノーマルな行為にリピア(ウルトラマン)は興味を示したのだ。自己よりも優先すべき何かがある。そこに人も外星人も「美」を見出すのかもしれない。

 

「美」があれば、その逆「醜」もある。ここでは「自分が1番大切」がそれだ。生物学的には極々ノーマルな行為だ。人間の「自分が1番大切」という心理がうまく表れたのが日本史で言えば関ヶ原の決戦だろう。誰だって自分が1番大切で、誰だって勝つ方につきたい。

 

 話は戻るが、リピアと融合してウルトラマンと呼ばれることになる神永は警察庁公安部からの出向である。私はこの設定は面白いなと感じている。神永のように「自己を超える行為」の出来る人材と言うのは、それは一個人としては立派であるが、“上”からしたら使いづらい存在でもあるだろう。「自分が1番大切」その意味でノーマルな人材の方が“上”からしたら使い勝手が良い。そんなこんなで「出された」のかなぁ?などと勝手に想像してしまった(笑)。

 

 さて、ここまでの考察からすれば、私、長谷川は極々ノーマルな、「美」とは程遠い存在だ。長いものにはすすんで巻かれてきたし、強いものにはすすんで従ってきた。無論これからもそう在るつもりだ。そんな醜い私が書く文章に果たして「美」が宿るのか?興味深い所ではある。昔何かの本で読んだ事がある。「自己の存在を超える事は偉大さへの第一歩である」と。

 

 そんなわけで、どんなわけで?今後もお付き合いのほど、何卒よろしくお願い致します。

自己を超える行為とは?