どこ吹く風

自分には全く関係・関心がないというように、知らん顔をすること。「何処吹く風と聞き流す」

解き放つ存在

 うちの母は他家に嫁いだ妹とその家族の事を、目を細めてとても嬉しげに、そして誇らしげに話す。その度に私は、「ああ、この人にとっての最高傑作は妹なんだなあ。」と妹に対し若干の嫉妬を抱く。と同時に、最近では母の事を「なんて可愛い人だろう。」と思うようになった。母が妹を誇らしく思うのにはわけがある。自分の理想とする価値観を妹が体現しているのだ。妹の旦那さんはとても素敵で優秀な方だ。東京で勤め人をしている。その旦那さんとの間に2子を儲け、妹は専業主婦をしている。そして子供たちの教育に非情に熱心だ。つまり妹は母と非常によく似た道をたどっている。うちの母も地方公務員の父と結婚し専業主婦として一家を支えた。妹が自分と同様の価値観・人生観を持ったことが母には嬉しく、誇らしいのだろう。もちろん妹には妹なりに独立した一個の意思があり、その独立した意思が選んだのがたまたま母と同様の道だったのかもしれない。それは私には解らない。ただ何にせよ、自分の娘が自分と同様の人生航路を選んだことが母には嬉しかったのだ。もしかすると100点満点の答案を返された女子学生のような気分なのかもしれない。そしてそんな母を見て私は「可愛いなあ。」と思うのだ。

 母はそれなりによく読み、よく考えるほうだし、そこそこユーモアやウィットにも富んでいる。私が文章を書くのが好きなのも母方の影響だろう。つまり母はそれなりに知性が豊かだと私は理解している。ただ、その価値観は単純だし、視野は決して広くない。保守的で極端に冒険を嫌う。例えば母に“お金持ち”になりたいと言うと途端に嫌な顔をする。お金持ちの何が嫌なんだ?と問うと「汗水流して働くのが一番いいんだよ。」と言う。「お金持ちだって汗水流しているし、それ以上に考えている。」と思うのだが・・・。こういった話になると母は頑迷なことこの上ない。まあ、そのような面を含めて「可愛い」と私は若干の揶揄をこめて評しているのだ。

 

 兄と私、特に幼少期とても“ぼんやり”していたらしい私には「いい大学?を出て、公務員か教師になりなさい。」と事あるごとに母は迫って来た。それが彼女なりの親心であり、理想でもあったのだろう。結果、私は長じて教師になり、その後紆余曲折を経て現在に至るわけだが・・・。身近な人、親や兄弟の言葉や存在はそれ自体が1つの“枷”(かせ)になる。思えば母の愛情は、どちらかと言うと受け身な私にとって常に“枷”(かせ)としての側面を併せ持っていた。いつも一生懸命で単純な気質の母はそのような思考には至らなかったのだと思う。それを含めて現在の私は彼女を「可愛い」と表現できるようになったわけだが・・・。裏を返せば私もそれだけ成長した。つまりは年を取ったのだ。ただ惜しむらくは現在の45歳の私でなく、20歳くらいの私が母を「可愛い」と表現できるくらいに大人になっていたら。そうしたらもっともっと面白い人生が遅れただろうに。大学に残って研究者になる道もあったし、物書きになっても良かった、起業だって出来た。「たら・れば」を言い始めたらきりがないし、現在の自分を否定するつもりもないのだが、もう少し早く大人になっていればと思わずにはいられない。

 

 話しは戻るが、先程身近な肉親の言葉や存在はそれ自体がある種の“枷”になると述べた。でも同時にそれは“枷を解くカギ”にもなれると思う。言葉や存在は時に“縛るもの”であり、時に“解き放つもの”でもあるのだ。私には2人の甥と姪が1人いる。姪っ子はまだ幼いからいいとして、2人の甥っ子にとって私の存在や言葉が彼らの心を“解き放つもの”になれればよいと思う。職場の学童でも同様だ。出来る事ならば“拘束する存在”よりは“解放する存在”でありたいと思う。もっとも解き放ってばかりでは収拾がつかなくなるし、キッチリと〆てくれる人がいるからこそ、そんなことが言えるわけで・・・。嫌われ役をキッチリと務めてくれる方々には感謝が絶えないm(__)m。それとは別に私の本質は“解き放つ”ことのあるように思える。と言うか、母を反面教師として得た、それが私なりの人生観なのだ。

解放王アルスラーン。田中先生有難うございました‼‼