どこ吹く風

自分には全く関係・関心がないというように、知らん顔をすること。「何処吹く風と聞き流す」

泣き笑いのエピソード

 先日久しぶりによく眠れた夜があった。翌朝目が覚めて、さて何かを書こうと思のだが、何も浮かんでこない・・・。

 

 このブログは眠れぬ夜や、夢を見ていて目が覚めてしまった明け方近くに書くことが多い。大抵は心配事や悩み事があって、それで眠れなくて頭が冴えてキーボードに向かう。熟睡して何も書くことが思い浮かばないのはある意味幸せだ。

 

 そう考えると文章を書くという行為は、苦悩と向き合って、それをどう昇華させるかだと思う。文学作品とはその結晶だろう。

 

 文学の究極の目的が「救い」であるならば、それは眠れぬ人を熟睡させることでもある。夜寝むれずに思いわずらったり、悩んだりすることがなければ文学作品なんて生まれないだろうし、文学の必要性もない。つまり苦悩から生まれるのが文学であり、苦悩を救うのも文学だ。

 

 かの魯迅は医学で救える数は限られている、文学ならもっと多くの人たちの心を救える。そう考え文学者になったとか・・・。私のこの文章は誰かの救いになっているのだろうか?まあ、少なくとも私一人の救いにはなっている。もしくはいつも読んでくれる数少ない人たちの何らかの救いになってくれているならば本望だ。

 

 ふと疑問に思ったのだが、ノホホンと生きてノホホンと死んでいくならば文学の必要なんてない。それが一番幸せなんじゃないか?

 

 心のどこかで、「でもそれは何か違う。」と思う。ノホホンとしていそうな人にだってきっと人には言えない何かを抱えているのだろうし、私自身、はたから見たらノホホンと生きているようにしか見えないのだろう。あの人はノホホンとしていていいなぁというのはそう言葉にしてしまう人のおごり以外の何物でもない。

 

 それに実際どんなにノホホンとしている?人でも生まれてくるときは泣いてお母さんのおなかから出てくるのだ。私は自分が生まれてきたことの事を覚えていないし、赤ん坊が生まれてくるのを実際に見たこともない。果たして、赤ん坊は泣いて出てくるのか、笑いながら出てくるのか?わからない。でも皆が言うのだからやっぱり泣いて出てくるのだろう。そしてそれが、生きることに対する我々人間の基本的なとらえ方なのかもしれない。生きるという事はそれだけで結構な面倒ごとなのだ。

 

 でもだからこそ、笑いが必要なのだとも思う。普通に考えたら悲しい事でも、それを笑い話に昇華させる。そういう力を我々は持っているのだと思う。人を泣かせることよりも、人を笑わせる事の方が高尚だと私が思うのはその辺に関係している。「あの頃は大変だったよなぁ(笑)」と『泣き笑いのエピソード』がいくつかできたら、もしかするとその人は一人前なのかもしれない。

 

 NHK朝ドラ『おちょやん』を参考にさせていただきました。

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杉咲花さん素敵です!