どこ吹く風

自分には全く関係・関心がないというように、知らん顔をすること。「何処吹く風と聞き流す」

意識と無意識、個と共同体

 一時期フットボールの日本代表本田圭佑選手が

「個」の力を伸ばすことが必要とよく述べていた。「個」と「集団」の関係について考えてみた。

  突然だが、アリやハチの集団には「共有する無意識」があると思われる。

誰に教えられたわけでもなく「群れ」として有機的に機能するからだ。

 では人間の集団・共同体、国家、なんでもいいが、これらには「共有する無意識」があるのだろうか?

 おそらくはある

家族には家族の,

職場には職場なりの、

オーケストラの楽団員には楽団員なりの、

フットボールチームにはそのチームなりの

「共有する無意識」が存在するといっていいだろう。というよりもむしろ、それがないのは集団として未成熟ともいえる。 「共有の無意識」、それは「共有の価値観」とか「阿吽の呼吸」と言い換えてもよい。ここでは「集団の無意識」と呼ぶ。これに対して個々人が持つ考えを「個の意識」と呼んでみる。 「個の意識」と「集団の無意識」とは時にシンクロし、時に相互に作用しあって互いを形成している。

  ある作家が「人間は国家がなくても生きられるが、人間なくして国家は存立しえない。どちらが主であり、従であるかは自明の理である。国家とは個々人がより生活しやすくするために作った《道具》に過ぎない。」という趣旨のことを述べておられた。

また「無意識」という概念が、フロイトという個人の「意識」によって生み出されたものである以上、「意識」は「無意識」の上位に位置するのだろうか。とすればその解釈を「個」と「集団」に当てはめてみれば「個の意識」は「集団の無意識」より上位に位置するのだろうか?

個の意識 > 集団の無意識

  別の作家は次のように述べている。個人の無意識は水面下で皆、他者の無意識とつながっており、それは夢という形をとって現われる、そしてその連なった無意識のうち、

水面上に表出したものが「個人の意識」である。 その意味で解釈するならば、

あくまで「個の意識」は「集団の無意識」に従属するのだろうか?

個の意識 < 集団の無意識

  アリを例に考えてみよう。 アリは餌を見つけるとそこから巣までお尻からにおいを出して帰る。その匂いをたどってほかのアリが列を作る。こうして餌と巣の間にルートが出来上がる。ところが中にはイレギュラーなアリがいて、列からそれて、勝手に自分で最短ルートを作ってしまう。このアリがお尻からにおいを出し、こうして新たなルートができる。このイレギュラーなアリは結果的に集団に貢献している。

  次に人間の例を見てみる。

 エジソンという人間がいた。刑務所に電気椅子をセールスして回ったろくでもない男だが、彼もその幾多の発明品によって人類社会に貢献すること大であった。

  彼らは共同体の枠の中でその存在価値を示した。彼らに共通して言えるのは個「個の意識」を持っていたことだ。簡単に言うと彼らは「自分自身」を持っていた。やはり

個の意識 > 集団の無意識

なのだろうか? 最後にもう一つ例を見てみたい。かつてイタリアにジョルダーノ=ブルーノ(1548~1600)という学者がいた。「宇宙は無限だ」と公言した初めての人で、ローマ・カトリック教会の権威に反対するのを承知で、コペルニクスの地動説に賛同した。結果、異端として火あぶりの刑に処された。「宇宙は無限だ」と言い張ったのが死刑の原因だった。処刑される直前に「裁かれている私よりも、裁いているあなた方のほうが、真理の前におののいているのではないか?」と述べたことが現代に伝わっている。(『世界史講義録』金岡新先生より)

  彼の何がいけなかったのだろう? 思うにジョルダーノブルーノは常識の先を行き過ぎていた。共同体の枠をはみ出してしまったのだ。たとえそれが真理であったにしても。彼は自説を曲げるべきだったのかもしれない、誰よりも自分自身のために。そんな時にこそ人はユーモアや皮肉を必要とするのだろう。 彼自身が初めて唱えた説ではなかったにしろ、結果からみれば彼は時代を先取りしていた。二歩も三歩も!

「個人の意識」は時に「集団の無意識」を突き抜けることがままある

その一つの例だ。俗にいう天才というやつだ。ただ現実にはコペルニクスが地動説を発表してから市民権を得るまで100年以上が経過している。「集団の無意識」の改革は徐徐に徐々に進むものであり、きっかけを作るのが「個の意識」だとしても、それはやはり「集団の無意識」に従属せざるを得ないという事だろうか? もしくは時代の半歩先を進むものは成功をおさめるが、2歩も3歩も先を行くものは逆に排斥の対象となる、という事だろうか?そう考えるなら共同体の懐の深さが問われるのだが・・・

  思うにジョルダーノブルーノは自制(よくない言い方をすると計算)すべきだったのかもしれない。まさに『冷静と情熱の間』だ(笑)。 結論として言えることは

「個の意識」は「集団の無意識」と折り合いをつけるべきなのだ。時と場合にもよるのだろうが・・・

 また、ジョルダーノ・ブルーノには申し訳ないが、自己のであれ他者のであれ共同体のアイデンティティーを脅かしてはならない。たとえそれが真理だとしても。若干話題はズレるが、昨今フランスで話題になったムハンマドの風刺画はやめるべきだったと私は思う。(表現の自由が大切なのは重々承知だが) 文化の多様性という面からはもちろんだが、誰だって家族や友人のことを悪く言われるのは嫌だ。信仰の対象を茶化されるのはなおさらだろう。「己の欲せざるところ人に施すことなかれ」だ。もしやるならばそこには愛のあるユーモアが必要と思われる。あとは受け取る側の懐の深さと。

  どうでもいいことだが仕事を定年退職できたら犬を飼いたい。ブルーノと名付けてうまいものをたらふく食わせてやりたいと思うのだ。

 

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