どこ吹く風

自分には全く関係・関心がないというように、知らん顔をすること。「何処吹く風と聞き流す」

分断と共生

 今日、友人と食事(ラーメン)をした。そこで大学受験の頃の話になった。友人と私は同じ高校に通っていたが、クラスも違うし、お互い名前を知る程度の中だった。当時の私は塾や予備校にこそ行かなかったものの、家で受験勉強ができた。一方の友人は大変だった。よそ様の家庭事情なので詳しくは書けないが、色々とあったようだ。とても落ち着いて受験勉強できる環境ではなかったらしい。長い付き合いの友人だがそこまで踏み込んだ話をしたのは初めてだった。私の両親は私がサッカーに熱中していた時はサッカーに、受験勉強にいそしんでいた時は受験勉強に、それぞれ落ち着いて集中できる環境を整えてくれた。当時はそれが当たり前だと思っていた。でもそれは両親が骨を折ってそうしてくれたのであって、決して当り前ではなかったのだ。今更ながらその事に気づいて、まず両親に頭が下がった。次に友人に対して何だかすまない気持ちになった。友人にしてみれば私が恵まれて見えた事だろう。

「この年になって、男なら結婚して子供をもってやっと一人前だ。」

私に対してちょくちょく上から目線でモノを言う背景にはそんな訳があったのだ。

「世間体とかステレオタイプの幸せにこだわる必要は無いよ。」

と言う私がいかにもノホホンと生きているように見えたのかもしれない。

 

 以前、他人を妬んでばかりいる人の事を精神的に幼いと書いた。もしかしたら私は少し傲慢になっていたのかもしれない。彼らにも彼らの言い分があるのだろう。かといって人を妬んで集団でいじめをするような輩に情けをかける必要はないのだが・・・。  

 

 世間にはいろいろな人がいる。それぞれに立場も違えば背負っているモノも違う。そこには誰かを妬まずにはいられない人もいるだろうし、人に妬まれれば逆に相手を見下したくもなるだろう。それが嫌ならば、自分と同じような境遇、同じような背景を持った人とだけつきあっていればよい。そうすれば妬むことも妬まれることもない。でもそれって今騒がれている“分断”に他ならないのではないか?アメリカに住んでいた事のある別の友人が言っていた。「向こうでは住む地区によって、スーパーに売っているモノの品質も値段も大きく異なるよ。」それだけ経済格差がはっきりしている。つまりは分断だ。それがない分、まだこの国はましなのかもしれない。

 

 何にせよ、傲慢になってはいけないし、かといって卑屈になる必要もない。いつでもフラットな状態に心を保ちたいものだ。私の知る小説に次のようにある。

“平和とは能力ある者の自制により保たれる”と。自分は才能があるのだから人より恵まれて然るべきだとか、いい暮らしができて当り前だとか、それでは平和は保たれない。そういう事だ。

 ただ私個人の意見としては・・・「でもなぁ~俺なんか別に才能もないし、それに人よりいい暮らしをしたいとか思った事ないんだけどなぁ。その割には人から妬まれた記憶ばかり残っているけどなぁ。何だかなぁ?」

 

 すみません愚痴でした。それに私も小さい頃はよく他人様を妬んだものでしたm(__)m

 

 さて皆さんはどう思いますか。分断と共生。私にとって簡単には答えが出ないテーマなのです。

 

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「分断」嫌ですねぇ

 

人命よりも・・・

古来人は

人命より重いものが在ると言って戦争をはじめ

人命より重いものは無いと言って戦争をやめる

そうな・・・。(『銀河英雄伝説田中芳樹先生より)

 

果たして

オリンピックとは

人命よりも重いものでしょうか?

 

皆さんは如何に考えますか?

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切羽詰まってきました!

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気になる数字

 

 現在私は3つの数字が気になっています。

 

 1つ目は私の住む自治体(県)のコロナウイルスの新規感染者数。

 これはもう、もちろんの事ですがどんどん減って欲しいです。職業柄私も近々ワクチンを打てることになりました。早く収束してマスクなしの生活を取り戻したいものです。

 

 2つ目はこのブログのアクセス数。

 これは出来る限り多くの方に読んで欲しいから、どんどん増えて行って欲しいです。この長谷川 漣って奴は面白い事書くなあ!と思っていただければ幸いです。

 

 3つ目はこのブログに寄せられる「いいね」の数。

 この数が問題です。果たして多い方が良いと単純に言えるのでしょうか?

 

 この一連のブログのテーマはズバリ「劇薬」です。効き目も凄いが副作用も大きい。そのような文章に対して気軽に「いいね」出来るものでしょうか?
 何事においてもそうですが、新しい思想や価値観が世に問われる際、それらに対する評価は往々にして賛否両論です。裏を返せば「いいね」がたくさん寄せられる文章は既成の価値観の中に綺麗に納まるものだという事になります。それはそれで良いのです。でも私にとっては物足りません。「気軽には評価できない」その様な文章こそ、閉塞した時代に風穴を開ける事が出来るのではないでしょうか?そしてどうせ書くなら、そういった文章を書きたいものです。よって賛否両論、毀誉褒貶、もしくは気軽に「いいね」できない状況は「どんとこ~い!」なのです。そして、こういった事を全部ご承知の上で「いいね」してくれる皆さんには、本当に、本当に感謝しかないのです。

「いいね」して下さる皆さん!いつもありがとうございますm(__)m。

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「いいね」っていいね!

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美しい感情

 大学の頃、私と同じ文学部にすごく綺麗で洗練された女の子がいた。地味な国公立大学のキャンパスで彼女のまわりだけは空気に華があった。その子は地元仙台の出身で、大学1年生らしい自然な、それでいて品のいい身なりをしていて、北関東の山間の町から出てきた私にとってはちょっとしたカルチャーショック?だった。可愛い子がいるものだなあ、と遠くから見ているだけで、結局4年間で1度たりともしゃべる機会は無かった。今になってみればそれでよかったと思う。あの頃の未熟な私では(今でも未熟なのかもしれないが)何をしゃべって良いか解らなかったし、「好きです」などと告白でもしようものなら振られるどころか相手にさえされなかったに違いない。もっとも「好き」とは違ったと思う。一言も言葉を交わした事のない相手を好きになるというのは私にはよく解らない。都会的で洗練された異性への憧れだったのかもしれない。 

 まあ、何にせよ、一言もしゃべる機会のなかったのは結果的に良かった。一方的な好意をぶつけても相手にされないのは当然だし、そうなった場合、未熟な私はこれまた一方的に彼女を逆恨みしていたに違いないからだ。当時から、学内で目立つ存在だった彼女にはその手の逆恨みが絶えなかった。

「学校は社交場じゃねーよ!」

とか

「何気取ってんだよ。」

とか、そのほとんどは男子学生によるものだ。自分たちの手の届かない存在に対するそれは嫉妬と羨望の入り混じった複雑な感情だった。もし間違って彼女に告白でもしようものなら(確実に振られていただろうが)彼らと一緒になって彼女の陰口をたたく側になっていたに違いない。そうならなくて本当に良かった。

 話は少しずれるが出会い系サイトがもてはやされるのはよく解る。恋愛につきもののその手の面倒を避ける事が出来るからだ。振った、振られたの気まずさもない。ローリスクなのだ。だからと言って私は出会い系を肯定するわけでも否定するわけでもない。興味のある人は自己責任の下、好きなように活用したらいい。

 私が言いたいのは以下の事だ。

 今は懐かし、昭和・平成の教育ドラマ『3年B組金八先生』にこんなエピソードがある。ある寺の跡取り息子が同じクラスのマドンナに恋をしてその想いを伝える。結果は見事に振られてしまう。でも、その寺の跡取り息子は決して彼女を逆恨みなどしない。彼は最後に担任である金八にこう宣言する。

「自分は絶対に彼女より長生きする。そして彼女の葬式のお経は必ず自分が挙げる。」

 このドラマをリアルタイムで見た当時、確か中学位だったと思うが、彼の気持ちがよく解らなかった。でも今なら解る。何と、何と美しい感情ではありませんか?一歩間違うと現代ではストーカー呼ばわりされてしまうかもしれない。だけど、それでも、この感情の純度は間違いないのです。

 私が今後、年甲斐もなく恋愛をするようなことがもし在るならば、この少年のような「美しい感情」を忘れたくないものです。・・・・いや、ちょっと待てよ。それではまるで私が振られることが前提みたいじゃないか?冗談じゃない!負け戦は一度きりでたくさんだ。トホホ(笑)

 さて、この文章をお読みの皆さんは「美しい感情」持っていますか?忘れたく、無くしたくないものですね、この「美しい感情」を!

 

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懐かしいですね!

 

アティチュードもしくは頑固者

 現在、講談社の文芸ニュースサイト「tree」が主催する 2021年上半期 エッセイ&ノンフィクションコンテストに応募している。7月下旬に結果発表予定。エッセイやノンフィクションに限ったコンテストとしては国内最大規模だ。以前にも述べたように私には賞が必要だ。ワクワクドキドキしながら結果を待っている。応募するにに当たって、自分が過去に書いた文章を読み直していたのだが・・・あまりにも立派な事が書いてあるので我ながら驚いた。

 「いやあ、すごいなこの文章!えらい立派な事が書いてあるけど、誰が書いたんだろう?きっと書いた人もたいした人物に違いない(笑)」

などと笑ってしまった。

 さて、他人事なら笑って終わりだが、自分の書いた文章ともなればそうはいかない。自分の発した言葉に縛られる必要はないものの、最低限の責任は持たねば。

 言っている事が180度変わる人。相手によって態度がころころ変わる人と言うのは巷に溢れている。彼らはそれでいい。アマチュアだから。ただ、文筆業であるならばそれではいけない。自分の発した言葉に最低限の責任は持たねば。なんせ、言葉でお金をいただいているのだから。では、ジャーナリストやノンフィクション作家はともかく、小説家やエッセイストが自身の発する言葉に対して持つべき責任とは何か?それは詰まる所、人生に対するアティチュード、人生に対する態度に他ならないのだと思う。人生に対してどう向き合うか?それがころころ変わるようでは誰もその人の言葉に共感なり共鳴なりするはずがない。細かい事はともかく、この点俺はダイジョブそうだな。自分で考えながら自分でほっとした。言い換えると文筆業などになるのは相当の頑固者という事だ。どうやら私は結構な頑固者らしい。そんなことを友人に告げると

「でも細かい所もちゃんとしないと!」

と言って私が、その講談社のサイト「NOVEL DAYS」で自分の文章のアイコンに使った芥川龍之介の画像が、著作権的にまずいと指摘してくれた。死後100年近くたっているのだから大丈夫だろうと思ってネット上にあったものを無断使用してしまったのだが、どうやらまずかったらしい。今から変更すると審査されない恐れがあるので、取り敢えずこのままにしておく事にした。

と、ここまで書いてきて1つウッカリしていたことに気づいた。

「そういえば俺だってただのアマチュアじゃないか?」

 いつの間にか自分がお金をいただく側に立って文章を書き進めてきていたことに気づいた。恥ずかしい。そうなのです。そのアマチュアがもしかしたらお金をいただける側になる、その初めの一歩になるかもしれないのがこの

講談社文芸ニュースサイト「tree」主催 2021年上半期 エッセイ&ノンフィクションコンテスト」

なのです。このウッカリ者を応援してやろうという気概をお持ちの方はどうぞ、読んでやってください!

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自分の翼

 ずいぶん前の話だが、以前勤めていた会社の年下の同僚と二人で飲みに行った。そこで二人の共通の知人の事が話題に上った。

「今度Nとキャンプに行くんですよ。」

と年下の同僚が少しこちらの顔色をうかがいながら言った。と言うのも、私とNは仲が悪い。その事を同僚は承知していた。(私にだって嫌いな奴の一人や二人いる。)私は

「うん、それはいいよ。」と答えた。短いフレーズの中に「俺と君との関係は俺と君との関係だし、君とNとの関係は君とNとの関係だ。だから変に気に病まなくていいよ。」と言外のメッセージを込めた。それが伝わったのか、同僚は安心したようだった。後になってみて思い返した。俺も大人になったもんだと。昔はこういった対応はできなかったに違いない。俺にとっては気に食わないやつでも君にとっては大事な友達なんだ。それはそれでいいんだよ。そんな風に思えるようになったのは20代も終わりになってからだと思う。繰り返すが私も大人になったものだ。

 

 さて、話題は大きく変わりますが、今(『日本の戦後を知るための12人』池上彰著 文藝春秋)を読んでいます。現在、江副浩正さんと村上世彰さん、堀江貴文さんを読んだところです。この3人について著者の池上彰さんは次のように述べています。

 

~江副さんが検察から狙われたのは、様々な規制を突破して秩序を破壊する異端児であったからでしょう。既成秩序の破壊者はどうしても狙われやすい。ホリエモン然り、村上世彰然り、いずれも有罪になっていますけれども、みな稀代の風雲児として様々な規制に風穴を開けたことも事実だと思います。~

 

 このうち、村上世彰さんの言い分をディフォルメするならば

「株式会社は誰のもの?それは株主です。その株主の利益を経営者たちはちっとも考えていないじゃないか?」

という事になります。事件を経て憑き物が落ちた後、彼はこう語っています。

東京証券取引所企業統治についての方針を打ち出し、私の考えていたことが実行される仕組みができた。私の役割は終わったんです。」

 彼が世間に対して投げかけた問いにはそれなりの歴史的意義があったのです。それは他の二人にも言える事でしょう。

 

 さて、私こと長谷川漣も世間に対して1つ投げかけたい問いがあります。それは

「嫉む側と嫉まれる側、悪いのはどっち?」

と言う問いです。突然何を言い出すんだ?と不審に思われた方もいらっしゃるでしょう。でも、私にとってこの問いは、自分が住む日本と言う国を考える上で、避けては通れない重要な問いなのです。と言うのも、頭で考えれば、そりゃ嫉む方が悪いに決まっています。極々当たり前の事です。でもその極々当たり前の事実が、この国では市民権を得ていないような気がするのです。逆に言えば「嫉まれる方が悪い」と言う、へんてこりんな価値観がまかり通っている。少なくとも私の経験上はそう思えるのです。何故なのでしょう?いろいろ考えてみたのですが、1つには個人と共同体のパワーバランスと関係しているのではないでしょうか?この国では個人が個人として確立していない。自分と他人の境界線があいまいだから他人を嫉んでいる自分を恥ずかしいと思わない。それどころか共同体にとって都合が良ければ、「嫉まれる側が悪い」という解釈も十分成り立ちうる。つまり個人と共同体のパワーバランスが共同体の側に偏り過ぎなのです。個人に重きを置き、個人と共同体のパワーバランスをよりましな、より現代的なそれへと変える為にはどうすればよいのでしょう?

 私自身の話をさせていただくと、私も子供の頃は他人を嫉んでばかりいました。でもそれがいつの頃からか、他人は他人、自分は自分と思えるようになってきたのです。先にも述べましたが、おそらくそれが「個の確立」もしくは「大人になる」という事なのでしょう。その為には自分に自信を持つ事が不可欠です。私がOasisを好きなのも、その楽曲に「俺は俺だしお前はお前なんだ」と言う強烈なメッセージがあるからかもしれません。また、10代後半から20代前半にかけて影響を受けたマンガ(『銃夢木城ゆきと 集英社)の主人公ガリィのセリフで、今だに忘れられないものに

「人には誰にでも

見えない翼がある

私がたった一つこの世界に望むことがあるとしたら

全ての人が自分の翼で飛ぶことだ」

があります。

 どちらも、自分自身になれ!と言うシンプルなメッセージを我々に与えてくれます。これらの作品が示しているように、我々日本人も「個人が確立した」とまではいかなくても、「より個人が自立した」時代へとシフトチェンジする必要があるのではないでしょうか?その意味で我々日本人も「大人」になる必要があるのです。私の文章がその一助になれば幸いです。このブログに綴って来た一連の文章に何か歴史的?意義があるとするならば、それではないかと思うのです。

 先にあげた3人は稀代の風雲児として様々な規制に風穴を開けました。私こと長谷川漣は文章の力でもって皆さんの「心の規制」に風穴を開けたいと、おこがましくも考えているのです。どうぞ、生意気をお許しください(笑)。

 さあ、皆さんも自分の翼で飛びませんか?

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池上さん有難うございます!

 

GIVE&TAKE

 今日、書店に行って5月25日発売の(『ハイパーミディ中島ハルコ④』林真理子先生原作 東村アキコ先生作画)を買ってきてソッコー読んだ。結論から言うと大変面白かった。特にラストの終わり方が良かった。作中の序盤で、自分の受ける相談を有料に出来ないかと話を持ち掛ける中島ハルコ。それに対して“年の離れた妹分”である、いづみは次のように応じる。

 

「傍若無人なハルコさんの唯一のやさしさが

これなんです!!

人の相談に乗ってあげるってやさしさです!!

その唯一のやさしさである

お悩み相談でお金取ったら

唯一のやさしさが

商売になっちゃって

やさしさじゃ

なくなっちゃいます!!」

 

 実はこの箇所が④巻全体を通じた伏線になっている。

 後半で今度はいづみ自身が熊咲産業の庶子である熊咲雄介との結婚をめぐってハルコに相談を持ち掛ける。ハルコの意表を突くアドヴァイスの結果、二人はめでたく結婚に漕ぎつける。それは二人にとってはめでたし、めでたしなのだが、1つ私には気がかりがあった。いづみが雄介と結婚してしまったら、中島ハルコ自身は「ヒマ」になってしまうのではないか?ここで私の言うところの「ヒマ」とは言い方を変えれば「孤独」に他ならない。自分の妹分が幸せに結婚して家庭を持つのは喜ぶべきことだ。でも同時にそれはハルコが「ヒマ」若しくは「孤独」になる事を示唆してもいる。傍若無人で歯に衣着せぬ物言い、キオスクでは堂々と立ち読みする自分勝手さ。でも不思議と人には嫌われない。そんなハルコに私は知らず知らずのうちに肩入れしていたのだ。でも私の心配は杞憂に終わる。

 最後のシーン。ブーケトスを横目で見やるいづみの大学時代の友人。聞けば旦那と別居中との事。我らが中島ハルコは

 

「ワケありね

悩みごとなら

聞いてあげるわよ」

あなた 本当に

ツイてるわよ」

と、最後のセリフを決める。

 人生には出会いと別れがある。別れではなくとも、環境が変われば自ずと疎遠になる。それは致し方ない事だ。でもきっとまた新しい出会いもある。与えたり与えられたりしながら人は寂しさを埋め合わせて生きていくのだ。だからこそいづみは巻の序盤で

 

お悩み相談でお金取ったら

唯一のやさしさが

商売になっちゃって

やさしさじゃ

なくなっちゃいます!!」

 

とハルコをいさめたのだと思う。無論ハルコの方もそんなこと百も承知でポーズをとっていたのだと思うのだが・・・。

 今まで述べてきたようなことが物語中に説教臭く描かれているわけでは決してない。でもあくまで、あくまでほのかにそんなことを感じさせる構成になっていたのは林先生の筆力か?それとも東村先生の画力か?はたまた担当編集者さんの力か?

 いずれにせよ『ハイパーミディ中島ハルコ①~④』大変面白かったです。

 林先生、東村先生、有難うございました!!!

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是非、令和版を!!!