どこ吹く風

自分には全く関係・関心がないというように、知らん顔をすること。「何処吹く風と聞き流す」

お金の授業

 今朝、起きぬけに血圧を測っている母に語った。

 「戦争のない社会は無理としても、戦争のより少ない社会は指向する価値があり、その為には歴史を学ぶ必要がある。何故なら、歴史を学べば、何故、戦争するに至ったのか?若しくは、何故、戦争を避けて外交で解決できたのか?が解るからだ。そして歴史を学ぶためには経済・金融・為替等について学ばねばならない。何故なら、歴史を理解する為には経済の仕組みが解ってないと話にならないからだ。例えば第2次世界大戦の最大の要因となった世界恐慌とは何か?経済の仕組みを解ってないと字面を追うだけの「解ったつもり」になってしまう。したがって、戦争のより少ない社会を指向する為には、経済について学ばねばならない。現行の制度では経済について高校3年で「さわり程度」を学ぶが、それでは遅いし足りない。よって私は提唱する。小学生の段階から「お金の授業」を取り入れるべきだと。今後は小学校から、英語、プログラミング、そして「お金の授業」を学ぶべきだ。」と。すると母は「人を見て法を説けっていうでしょ。あたしは経済の事なんてわかんないよ。それより今日29歳のお誕生日だね。ご結婚の事についてなんか言うかね?」とウキウキを隠しもせずに聞いてくる。私が「真子さまの事か?野次馬根性むき出しだね、あなたは。」と言うと母は「いいんだよ。庶民なんだから(笑)。」そこで父にこの話をしようかと思ったが、「そういう話は友達としろ!」と言われるのが落ちなのでやめた。友人を探したが近場にはそういう話をする奴はいないし、東北で歴史の教員をやっている友人は忙しいし、結局このブログに書く事にした。

 繰り返しになるが、戦争のより少ない、よりましな社会を指向する為に、早い段階から経済について学ぶ必要があり、今後は英語・プログラミング・お金の3科目を小学生の必須科目に加えるべきだろう。

 また、ここまでは歴史を理解するために、経済の仕組みを学ぶ必要性を説いてきたが、それとは別に、日本と言う国の社会構造上もやはり、国民一人一人が経済について学ぶ必要に迫られている。具体的には「金融・運用」についてだ。日本が世界の工場だったのは昔の話。人件費は上がり、産業の空洞化は進み、金利は下がり続け、貯蓄しとけば安心と言う時代はもうすでに終わって久しい。かつて世界の工場だったイギリスが金融へとその産業構成をシフトしたように、日本もまた、貯蓄から運用へとシフトチェンジする必要があるのではないか?貯蓄が大好きな日本人の国民性だがこれからはそれだけでは足りない。社会構造の変化に伴い、我々のお金に対するスタンスも変えていかねばならないのだろう。その為にも「お金の授業」は必要不可欠なのだ。もっとも何事にもリスクはつきもので、お金の扱いについてもそれは十二分に学ぶ必要があるのだが・・・。なにはともあれ、お金儲け、もしくはお金にお金を儲けさせるのを「卑しい事」とさげすむ時代はもうとうの昔に終わっているのではないでしょうか?皆さんはいかが思われますか?

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非常に面白かったです!!!

「長谷川漣の何処吹く風」もあわせてどうぞ!月末に「その7」が公開予定です!

長谷川 漣の何処吹く風 – 表現者の肖像

宣伝もしくは求職

 今回はズバリ宣伝をさせてください。

 現在、幻冬舎ルネッサンス新社さんのサイト『表現者の肖像』に連載中(全12回)の私のエッセイ『長谷川漣の何処吹く風』ですが、Googleで『表現者の肖像』と検索するとトップに載る様になりました。(2020年10月20日現在)おかげさまで多くの方々にお読みいただいている様です。嬉しい限りです。ありがとうございます。まだ読んでないという方はこの機会に是非お読みいただければ幸いです!

 私自身はこのエッセイを「一応、文学や芸術の範疇のすみっこに入るもの」として認識しております。である以上、他人様の作品と比べてどうこうというつもりはないのですが、それでもGoogle検索のトップに入るというのは嬉しいものです。(今後は本屋大賞などと同様にGoogle検索賞なんていう賞も生まれるのでは???)何にせよ、励みになる事は確かです。Googleの皆さん有難うございます。今後もスキマ時間に読めて、それでいて新たな発見がある、そんなエッセイを書いていきたいと思います。どうぞよろしくお願いします。

 さて、それとは別に、私こと長谷川 漣は目下求職中です。文筆業に限らず、何か私にできる仕事がありましたらどうぞコメント欄に、もしくは以下のアドレスにお寄せください。こちらもよろしくお願いします。

hasegawarenn@bc.wakwak.com

こちらもあわせてお読みください!

長谷川 漣の何処吹く風 – 表現者の肖像

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Google検索大賞」なんて賞、出来たら面白いですね!

 

才と器

 「才と器」は私が以前から温めてきたテーマだ。今回このテーマで書こうと思ったのは今朝セブンイレブンで立ち読みした『週刊モーニング』の『島耕作』が「才能と老い」と言うテーマを扱っていて、それにインスパイアされたからだ。ご興味のある方は是非、今週号の『モーニング』をお買い求めください。

 世の中には実に様々な人がいる。「才」は人一倍あるのに如何せん「器」の小さい人とか、何の「才」もないのに「器」の大きな人もいる。では、そもそも「才」とは何か?また、「器」とは何か?

 「才」の方は解りやすい。そのまま才能の事だ。才能にもいろいろあるがここではそこに深くは触れない。押しなべて才能で良い。

 では、「器」とは何か?私が思うに「器」とは「どれだけ確固たるアイデンティティーを持っているか」という事だと思う。ちょっとやそっとの事でぶれたり脅かされたりしない、柔軟でそれでいて確たる「自分」を持っているか?それを指して「器」もしくは器量と言うのではないだろうか?ここで問題が一つ浮かび上がる。「器」がでかいといわれる人は、自己に対して確たるアイデンティティーを持っていると仮定されるわけだが、一体何を根拠にそんな確たるアイデンティティーを持つ事が出来るのだろう?容姿?能力?学歴?それともオンリーワンの何か?それらは皆まとめて「才」と呼ばれるものである。自分の「才」をアイデンティティーの根拠にするのはよく解る話だ。中国史で言うと曹操李世民などはこの類かも知れない。二人とも歴史に名を遺す優秀な人物だ。それに対し漢の創始者である劉邦三国志劉備などはいろいろ読んでみたところこれと言った「才」がない。二人とも戦争は負けてばかりだし、劉邦に至って戦に負けて逃げる際に自分の子供を車から放り投げるような悪い意味での人格者だ。そんな「才」のない劉邦劉備だが、どう言うわけか人材には恵まれた。おそらく「この人をほっとけない」と言う何かを持っていたのかもしれない。それをして「愛されるキャラ」というべきか。それも含めて「才」と言ってしまえばそれまでだが・・・。

 さて、「器」が大きいといわれる人物を大きく二つに分けてみた。前者は「才」を自分のアイデンティティーの根拠にする者。後者は「才の無さ」を自分のアイデンティティーの根拠とする者。果たしてどちらが良いのか?

 私が思うに後者がより良い。何故なら「才」を根拠とする場合、いずれは必ず自分以上の「才」を持つ者が現れるからだ。それは年齢とも関係している。今日立ち読みした『島耕作』にもそれは描かれている。年を取り「老い」を迎えるとともに自分の「才」を追い越すものが出てくるのは必然なのである。そうなった時、何をアイデンティティーの根拠とするかが問題だ。自分の「才」をその拠り所としてきた者はそこで焦る。何か他のアイデンティティーを見つけなければならない。うまく見つけられるか否かはその人とその時の状況次第と言うべきか。それに対し後者は強い。

 こういった「才」はなくとも「器」はでかい人達に共通する点は何か?それはおそらく「自分が好き」という事ではないだろうか?「自分を嫌い」と言う人には誰もついていかないからだ。では自分を好きになる、自己を肯定する上でカギとなるのは何か?または誰か?月並みだが、それってやっぱり「母親」の存在なのではないだろうか?最初に出会う自分以外の人、つまり母親に愛されるかどうかでその人が自分を肯定できるかどうか?つまり自分を好きになれるかどうかは、ほぼ決まってしまう様な気がする。その意味で女性の果たす役割って偉大なのだ。

 いろいろ述べてきたが、結論としては有り勝ちな、女性の果たす役割ってすごいというところに落ち着いてしまった。でも、当たり前とされている事を再発見する事って、とても大事だと個人的には思う。自己弁護(笑)。

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弘兼先生、今回面白かったです!!!

「長谷川漣の何処吹く風」その6『愛わがままに』もお読みください!

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シール

 今、手元に「メンテナンス会員様 大商談フェア」とシール貼りされた一通のはがきがある。何のことはない。私が車を購入した某自動車会社の、とある販売店からの定期的な車のメンテナンスのお知らせのはがきだ。長谷川 漣様と書かれたシールが貼ってある。そのシールが若干、本当に若干だが右肩下がりになっている。その下にはこれまたシールで大商談フェアとあり、下にその販売店の住所と営業時間が印刷されている。こっちは水平に貼ってある。予備校でスタッフを務めていた時代、よくこういうはがきをつくった。その際シールをそれぞれのはがきに貼ってっていくのだが、「あっ今度のは右肩上がりになったな。ほんのちょっとだけど、でも右肩下がりになるよりはいいや。」とか。いちいち、そんなことを思いながら住所の印刷されたシールを貼っていった。「あっ今度のは水平に貼れた。」とかほんとにどうでもいいような、それでいてどうでもよくない事を気にしながらそのシールを貼っていった。シールが若干、右肩上がりになっていようが、右肩下がりになっていようが、おそらく大した影響はない。大した影響はないんだけれども、それでも何となく「右肩下がりは良くないよな。」とかそんなことを想いながら、丁寧に、丁寧にシールを張った。1つ1つ出来るだけ水平になるように貼っていった。多分、多分だが働くってそういう事の繰り返しなんだと思う。ほんっと、どうでもいいことかもしれないが・・・。でも、でももし教員をずっと務めていたらこういう事は解らなかったと思う。そう思いながら販売店さんからのはがきをもう一度見た。このはがきを担当した方はどんな思いでこのシールを貼ってくれたのだろう?私は障害を発症したことに伴い職を転々としてきた。その過程で色々な仕事を受け持った。顧客の住所のシールを張るという仕事ももちろんあった。教師として授業を教えていたのでは解らない事も結構あった。その一つ一つが今の自分になっているのだと思う。スガシカオさんの代表曲「プログレス」の歌詞で「ずっと探してた理想の自分て、もうちょっとカッコよかったけれど、僕が歩いてきた日々と道のりをホントは自分て言うらしい」とある。なんか、いかにもな曲だなと思ってあまり好きではなかったが、でも、今なら彼がこの曲で伝えたかった事がわかる気がする。多分、多分だけれど、そのシールがほんのちょっと右肩上がりになるかならないか、そういうところに働くって事の本質はあるのだ。だから何だってことないんだけれど。でも世の中で働いている数知れない人たちのために想う。それが仕事なんだと、今度は水平に貼ろう。もしくはほんのちょっと右肩上がりになるように貼ろう。くどい様だが、だから何だってことはない。でも、でも多分そういう事なのだ。

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「長谷川漣の何処吹く風」その6「愛わがままに」お読みください!

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ルーフいい感じです!

 

大人

さあ、みんな

ハセッチの話を聞くんだ!

今日はズバリ大人って何かについて話すぜ!

みんなはまだ子供だよね!

中には自分はもう十分大人だぞって人もいるかな?

じゃあそもそも大人ってなんだい?

~車運転できる人

~20歳以上の人

~お金いっぱい持ってる人

そうだね、大人って言っても色々あるよね。

ハセッチが考える大人って何だと思う?

それはね・・・。

悲しくても悲しいって言えない人

つらくてもつらいって言えない人

ムカついてもムカつくって言えない人

好きでも好きって言えない人

きらいでもきらいって言えない人

思っても言葉や態度に出さない人、出せない人の事を言うんだ!

何故かって?

みんなが集まって生活していく上では

自分の感情ばかり外に出していてはいけないだろ?

サッカーとか野球とか

チーム競技を習っている人はわかるよね。

じゃあ、もう一つ質問!

人はいつ大人になるのかな?

~中学生

~高校生

~大学生

~二十歳超えたら

いろいろ意見が分かれたね

じゃあハセッチが答えを教えよう

それはね

負けを受け入れた時だよ

人は自分の負けを受け入れた時

大人になるんだ!

~負けって何の負け?ケンカ?持久走?勉強?

いい質問だ

いろんな負けがあるけど

あえて言うなら

それは

恋に負けた時

言いかえると

恋にやぶれた時

好きな相手にフラれた時

人は大人になるんだ!

~えー

~やだー

フラれた時

つらいよね

相手の事が憎くなるよね?

何で自分のこと好きになってくれないのって

でも、そこで相手のせいにしちゃいけない

踏みこたえるんだ

自分が足りなかったんだって

負けを認める

その勇気と度量が必要なんだ

泣いてもいいんだよ

正々堂々恋したんだから

恥ずかしい事は何もない

そうやって

人は大人になっていくんだ

ハセッチだってそうさ!

みんなも

いっぱい恋してください

そして素敵な大人になってください

その頃ハセッチはいいおじいちゃんだ!

いつの日か

みんなが大人になって

ハセッチに白いおひげが生えたら

そしたらまた会おう!

その日まで

アディオス・アミーゴ・ロシエント!

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面白かったです!

「長谷川漣の何処吹く風」もあわせてどうぞ!
その6が近日公開です。

https://www.gentosha-book.com/creators/hasegawa-essay05/

 

基本、人とは醜いもので

 基本、人とは醜いもので、ただ稀に一瞬の煌めきを灯すことがある。だからこそ人は愛おしい。その瞬間を結晶化させるのが芸術や文学の役割なのだろう。芸術家や文学者がよく言えば高邁で、悪く言えばプライドが高いというのは致し方ない事なのかもしれない。何にせよ生きていくのは困難な事で、その為に人は醜くもなる。これまた致し方ない事なのだ。それが目につかないように、人は互いに適度な距離を保つ。それでも個人レベルで、組織レベルで「膿」は溜まっていく。「膿」が溜まらぬよう、その「膿」を明るみに出さぬよう、人には出会いと別れがある。出会いと別れを繰り返して人は生きる。それは洗練されたスマートな生き方とも言える。わざわざ「膿」を明るみに晒して取り除こうとするのは、ある意味、幼稚な行為なのかもしれない。これをTVドラマと言う架空の世界でやろうとしているのが、それも徹底的にやろうとしているのが「半沢直樹」だ。今まで論じてきた事によれば「半沢直樹」とは精神的に幼稚で洗練されない人間という結論になる。しかしこのドラマがこれほどまでに高い視聴率をたたき出しているのは「半沢直樹」その人に視聴者がある種の「美」を見出しているからではないだろうか?先程、人々の一瞬の煌めき、つまり美しさや優しさを結晶化するのが芸術や文学の役割と述べたが、「半沢直樹」は生き方それ自体がある意味、芸術作品と言えるのかもしれない。「半沢直樹」は架空の人物だが、現実の世界でも生き方そのものが芸術作品と言いうる人物がいる。そう「北野武」さんだ。ここでは詳しく述べることは避ける。(興味のある方、年齢的に北野さんをそこまで知らないという方はウィキペディアを参照してください。)存在そのものが芸術品だからこそ、彼の作品や言動がより一層重きをなすのだろう。さて、北野さんには比すべくもないが、私、長谷川の人生は今後どのような軌跡をたどるのやら。3文ゴシップにすらならないで忘れられてゆくのか、はたまた、芸術とは言わないまでも一つの作品として、まがいなりにも意味ある完結を迎える事が出来るのか?他人事と思えば面白くもあるが、幸か不幸かこれは他の誰でもない私自身の人生だ。何をもってハッピーエンドとするのかはいまだ解らないが、とにかく最後の結末までは仕上げねばならない。その為にも何はともあれ生き抜かなければ。たとえそれが醜くい人生であったとしても・・・。

 

P.S. 宝くじあたらないかな~

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ソナチネ(1993)北野武監督作品

「長谷川漣の何処吹く風」その5もあわせてどうぞ!

https://www.gentosha-book.com/creators/hasegawa-essay05/

 

 

リスク

 ある日、仕事から帰ると食卓にはうどんとピザが並べられていた。

「お帰り、今日忙しかったからスーパーでお惣菜買ってきたよ。食べな。」

と母が言う。それを聞いて、その光景を見て、久しぶりに腹が立った。と言うかキレそうになった。それをぐっとこらえて、麦茶のグラスを一気に飲み干した。グラスに入っていた氷を思い切りかみ砕いた。「バリリ!ボリ、ゴリ!」それで一息ついた。私が怒ったのは「うどんにピザ」という組み合わせに対してではない。数あるスーパーのお総菜コーナーからいっつも同じものしか買ってこない事に対してだ。北関東の平野で生まれ育ったうちの母は冒険とか挑戦とかを極端に避ける。いわば保守の塊だ。それはスーパーのお惣菜についても同じだ。大きなスーパーのお総菜コーナーには和食もあれば、パン類もあるし、中華だって、揚げ物だってある。本当に様々なお惣菜があって目移りする。たまにスーパーに行って「あれ食べてみたい」と私が言うと、母は何かと理由をつけて却下する。そしていっつも決まったものを買う。何か新しいものを食べてみようとか、珍しいものに挑戦してみようとか、そういうのが全くない。リスクをとるという事をしないのだ。したがってうちの食卓はいっつも同じようなものが並ぶ。それが私には腹立たしい。そしてついにはうどんにピザだ。さすがの私もキレた。ピザにしたって、はるか昔、兄がどうしても食べたいというのでしぶしぶ買ってみたら美味しかったというのがその理由だ。自分で開拓したものではない。何故この人はこうもリスクをとらないのか?父には悪いが、自分の結婚相手には公務員を選んだし、私には教師になるよう、それこそ幼少期から口酸っぱく言ってきた。今ある状態を保ち守る事、そういう方向にしかベクトルが向いていないのだ。いや、それはいい。それは母の人生だ。私がとやかく言う事ではない。ただ、人の親である以上、有形無形に他に影響を及ぼすという事実にこの人は気づいていない。うどんにピザもその一例だ。それが私には腹立たしい。この母を反面教師としてか、私はリスクをとる人が好きだし、敬意を払う。自分自身もそうありたいと思う。

 話しは移るが、人類で初めてカニを食った人って凄い。あんな外見の物を初めて食べた人って、リスクを恐れない人だったのだろう。その人のおかげで我々はカニを食えるようになったのだからその功績は大だ。あ~うちの食卓にも本物のカニが登らないかな~。そのくらいのリスク母にとって欲しい(笑)

「長谷川漣の何処吹く風」その5もあわせてどうぞ!

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人類で初めてカニを食した人に感謝!