どこ吹く風

自分には全く関係・関心がないというように、知らん顔をすること。「何処吹く風と聞き流す」

シンクロ その2

 以前『シンクロ』と言う文章を書いた。証明するすべこそないものの「シンクロ」は確かに存在する。イルカなどはその最も解りやすい例だ。イルカはその個体同士で「シンクロ」し合い、群れとしての「共有意思」をもっている。これは人間同士でもいえる事だ。人間同士が「シンクロ」し合い「共有意思」をもつ。それは職場やスポーツのチーム・合唱団・合奏団等々の共同体にしばしば見受けられる。この「共有意思」は生物種の枠の中にのみに限られたものだろうか?いや違う。何故なら、例えば馬と人間がそうであるように異なる生物種間で「共有意思」が存在する事はままあるからだ。だとすれば、はるか太古には種の壁を超えた「共有意思」を我々は生態系レベルで、もしかすると地球レベルでもっていたのではないか?それをして「神の意思」と呼びうるのかもしれない。進化の過程でこの「神の意思」から最も遠く離れてしまったのが人類なのではないか?それは何故か?答えは人類が「言語」を獲得したためだ。「言語」というデジタルなコミュニケイト手段を獲得したがために、人類は「シンクロ」から遠ざかってしまったのだ。ただ、完全に「シンクロ」できなくなったわけではない。それは前回の『シンクロ』に記した通りだ。言語を獲得してしまった我々人類が「シンクロ」する為には、逆説的ではあるが言葉にすることを避ける、もしくは口や態度に出すのを避ける必要がある。言葉にするのを避けても、口や態度に出すのを避けても、想いはあふれ出てくる。それはどのような形をとるのか?主としてそれは「夢」を通じてなされる。「夢」の中でイメージとして我々は「シンクロ」するのだ。この「夢」での「シンクロ」をテーマとして扱っておられるのが三宅乱丈先生だ。『pet』『イムリ』の2作品を通じて三宅乱丈さんはこのテーマに肉薄しておられる。「夢」は我々が「神の意思」に触れることのできる残されたすべなのかもしれない・・・。

 さてここで問題だ。果たして我々人類は「神の意思」に近づくべきなのか?それとも遠ざかるべきなのか?「シンクロ」すべきなのか?「シンクロ」すべきでないのか?この問いの答えは容易には出ない。前回の『シンクロ』でも述べたように、人類が流血の末に獲得してきた「人権」「個人」「内心の自由」などの諸概念とそれが背反するものでもあるからだ。

 ただ、次のようにも考えられる。

「脳細胞間のネットワークの総体」として「一個体の意思」がある。

同様に

「個体間のネットワークの総体」として「群れの共有意思」がある。

と考えるならば、「一個体の意思」と「群れの共有意思」はよく似た構造にある。であるならば、我々生物はその脳が意思をもつのが自然な在り様なのだから、群れが共有意思を持つのもまた、自然な在り様と言えるのではないだろうか?つまり「シンクロ」するのは生物として自然だという事だ。むしろ人間はその自然な在り様に逆らっているともいえる。

 さてあなたは「シンクロ」したいですか?それとも「シンクロ」したくないですか?「シンクロ」の先には何が見えるのでしょう?

その答えは神のみぞ知る(笑)。

 

参考文献(『ウムヴェルト』『ディザインズ1~3』共に五十嵐大介

 

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