どこ吹く風

自分には全く関係・関心がないというように、知らん顔をすること。「何処吹く風と聞き流す」

シンクロ

419日の「川崎フロンターレ」対「湘南ベルマーレ」戦で、川崎の選手が蹴ったダイレクトパスを別の選手が胸で落として、3人目の選手がこれまたダイレクトでシュート、ループ気味にゴールへ入るという場面があった。「感じているな」と思わずうなってしまった。ほんのコンマ何秒かの時間内に3人の選手がお互いの意思を疎通し合ってゴールが生まれている。決して言葉で示し合わせたわけではない。そんな暇はない。しいて言うならアイコンタクトがあったかもしれないが、そうも見えなかった。一瞬のうちに3人の選手が同じイメージを描きそれを共有(感じている)しているのだ。サッカーの醍醐味の1つはこういうプレイを見ることにあると私は思う。

話は飛ぶが『海獣の子供①~⑤』(五十嵐大介小学館)という漫画がある。最近読んだものの中で12に面白かった作品だ。この漫画の中で、鯨が重要なモチーフとして扱われている。

~鯨の脳皮質は人間よりはるかに大きく発達しており、体の機能は使われるから発達するという前提に基づくなら、鯨は考えているという事になる。天敵もなく殺し合いもない鯨はきっと人間とは違う発想をするはずだ。そして人類よりはるかに古い歴史を持っている。彼らは「ソング」と言われる歌をうたう事で何キロも離れた仲間同士でコミュニケイトしている。水の中では音は空気中よりずっと遠くまで伝わるのだ。鯨の歌はとても複雑な情報の波であり、見た風景や感情をそのままの形で伝えあって共有し合っているのかもしれない。言語によらずに。言語は性能の悪い受像機のようなもので、世界の姿を粗すぎたり、ゆがめたり、ぼやかして見えにくくしてしまう。“言語で考える”ということは決められた型に無理に押し込めて、はみ出した部分は捨ててしまうという事だ。鯨の歌の方がずっと豊かに世界を表現している。こういった彼ら特有のコミュニケーション能力を考えると鯨は非常に高度な知の体系を創り出しているかもしれない。~(以上本文より抜粋、順序を改変、表現を若干変更)

で、私は思うのだ。人間だってその昔は海の中にいたわけで、鯨の持つ能力を何処かに多かれ少なかれ残しているのではないかと。もしかするとそれを第6感というのかもしれないし、テレパシーなどと言うのかもしれない。それが強い人もいれば、そうでない人もいる。ここで話は戻るが、冒頭に述べた川崎フロンターレのゴールシーンではこの「鯨のようなコミュニケーション」(それをここでは便宜的に「シンクロ」と呼ぶ)が、行われていたのではないだろうか?この「シンクロ」率が上がっていく過程がチームとして成熟していく過程なのだと理解すると面白い。3年生が抜けて新チームになって初めかみ合わないのが、徐々にお互いを感じて無意識のうちに意気があって(シンクロ)してくる。それが高校サッカーなどを見る一つの楽しみ方でもある。

このシンクロというテーマは『風の谷のナウシカ』(ワイド版コミック、宮崎駿 徳間書店)の中でも「念話」という表現で使われているし、ファーストガンダム富野由悠季)では「ニュータイプ」という概念で示されている。宇宙に進出した人類が覚醒するという意味で「NEW」なのだが、今まで述べてきた流れからすると人間が本来持っていた能力を再獲得するという意味で、逆に「オールドタイプ」への回帰と言えるのかもしれない。まあ言葉自体はどうでもよいのだが、私が定義するところの「シンクロ」は確かにある。それを実証する研究でもないかなと思った次第だ。(ご存知の方は教えてください。)

海獣の子供』ではこのテーマについて次のように述べてしめくくっている「かつて人間も気高いケダモノであったのだ」と。これはこれで一面の真実を表している。大変興味深いテーマだ。ただ、それは人類が血を流して獲得してきた近代化の歴史を否定するものともとれる。万人の万人に対する闘争から、自然権・人権・個人という概念の獲得、こういった人類史上に残る功績と「気高いケダモノ」という概念は矛盾する。近代的自我に対するアンチテーゼとして読んでみるのは良い。だが今更ケダモノに戻るべきでないのも事実だ。さてこの文章をお読みの皆さんはこのテーマについてどうお考えですか?皆さんは周囲の人と「シンクロ」していますか?この文章自体に「シンクロ」した人は「いいね」してください(笑)。

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非常に深い内容です。2度・3度と読む価値ありです!