どこ吹く風

自分には全く関係・関心がないというように、知らん顔をすること。「何処吹く風と聞き流す」

主導権

主導権を握るという表現があるが、事、人間関係においてはそんなに単純なものではない。私事で恐縮だが、教員になって二度目の担任を任されたのが、当初ひどく荒れたクラスだった。(誰も持ちたがらないから私のところに回ってきたわけだが)担任として、最初の挨拶で明言したのは「多数で個人を攻撃する事、立場の強いものが立場の弱いものを攻撃する事、これは絶対に許さない」という事だった。実際に教員間で私自身が村八分状態だったのでこれには説得力があったようだ。それでも言葉だけでどうにかなるほど容易ではない。クラスという集団が出来ればそこには必然的にボスとなる生徒が生まれる。このボスに当たる生徒が非常に厄介だった。このボスを何とかしないと、下の者からも結局舐められる。それが言い方は悪いが≪群れの論理≫というものだ。このボスに当たる生徒は平気で掃除をさぼっていた。腹が立った私は「みんなが掃除しているのに、君は何様のつもりなんだ。」と怒鳴りつけた。「うるせー。」と怒鳴り返して帰ろうとするそのボスのカバンのをつかむと、カバンが壊れんばかりに引っ張った。ここで手を離したら負けだ。そう思った私はカバンが壊れようが何だろうが死んでも掃除させるという必死の形相で臨んだ。結果、その生徒は折れて掃除をするようになった。そうなるとクラス全体が落ち着いてきて、後の細かいことは生徒が進んでやってくれるようになった。クラスの時間表つくりや、掲示板の整理、席替え等々、ほぼ生徒たちの自主性に任せた。副担任の先生の助力もありクラスは和気あいあいとしてきた。生徒からは「おーいハセガワ~。」という声が聞こえてきて私は「ハセガワじゃないよ、ハセガワ大先生と呼びなさい(笑)」という冗談が通じるまでになった。結果、年度末の保護者会では「この一年いじめの無いクラスにしようというのが当初の目標でした。それは達成できたと思うのですが、あろうことか担任のわたしがいじめられる羽目になってしまいました(笑)。」と笑顔で報告できた。日々の些細な主導権は生徒の側に持たせて、要所、要所(コアとなる部分は)絶対に曲げない。これが私なりのクラス運営術、カッコよくいえばマネジメントだった。これは私という個人の性格、能力に由来するものでもあるのだが、学生時代に学んだ事が土台にはある。グレゴリー・ベイトソンという文化人類学者が述べているのだが、コミュニケーションの形態とは大きく3つに分けられる。

  対立型:これはアメリカと旧ソ連の核開発競争のようなもの。互いに対立し合い究極的には両者の関係は破たんに至る。

  支配・従属型:これは一方が強気に出れば一方が従属するというもので、これが進むと究極的には、両者の関係は破たんに至る。

  無礼講型:一方が支配しているようでいて、無礼講のような形で定期的にその支配が逆転することが一つの慣習として根付いている。このタイプは両者の関係は長期的に保たれる。

私は、無意識のうちに③のタイプを用いていたのだろうと思う。おそらくは性格的なものだろうが・・・。さて私は自分で言うのもなんだが穏やかで、従順な人柄だ。細かいことの主導権は信頼できる人に預けてしまった方が気楽だと常日頃から考えている。ただ、譲れない部分は死んでも譲れない。それもまた事実であり、人間て、そうそう単純なものでもないなと感じた今日この頃だ。この文章をお読みになった皆さんはいかがですか?無礼講していますか?

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夫婦間だろうが、何だろうが、無礼講は必要だと思います(笑)