適正価格

 昨日、兄が11歳の甥っ子を連れて遊びに来た。甥っ子にこんな話をした。

私「クラスにちょっと人気のある女の子がいたとする。その子本来の魅力はこんなくらいなんだけど、クラスのみんなが『~ちゃんて可愛いよね』と言ってる。するとその子の人気は急上昇で、本来の魅力をはるかに越えてしまう。この状態の事をバブルっていうんだけど、まあ今は言葉自体はどうでもいいや。そのうちクラスの誰かが『でも~ちゃんて性格悪いよね。』と言い出す。そうするとそれにつられてクラスのみんなも『そうだよねそんなに可愛くないよね。』と言い出す。その子の人気は急降下。本来の魅力よりずっと落ちてしまう。こういう事って理解できるよね?」

甥っ子「うん」

「だからその子が人気のある時には告白してもだめで、人気が下がった時に告白すればOKしてもらえる。タイミングが大切だって話。」と兄が茶々を入れる。

そこで私が「いや、それはそれでいいんだけど、大切なのは『クラスのみんな』に振り回されないで『本来の価値』を見極める目が必要だってこと。『物事の本質』ともいう。その子の魅力がどんなものなのか?自分自身の目と耳と頭で考えなくてはいけない。『クラスのみんな』に振り回されないで自分自身で見極めろという話。それが出来ればそうそうドジは踏まない。わかる?」「うん、解る。」「よし、じゃもう寝よう!」

 これは株式から応用した話だ。世界一の投資王ウォーレン・バフェット氏の師であるベンジャミン・グレアムは株式市場の事を「躁うつ病を患った気の毒な人物Mr.マーケット」に例えている。もちろんここで言う「クラスのみんな」の事だ。グレアムの主張はこうだ。Mr.マーケットがうつの時に株を買って、躁の時に売れと。先の私の兄の発言と要は同じだ。つまり、「適正価格」を見極めろと!それが出来れば怖くないという話。今、株式の話を、「クラスの可愛い女の子」に応用したが、これは例えば企業の人材活用にも応用できるし、主義や、システムと言った事柄にも応用可能だ。例えば会社にNさんという文章を書かせると非常に面白い人材がいたとする。Nさんのレポートが読まれると彼の人物評はうなぎのぼりだ。「Nは優秀な人材だ!」しかしよくよく見てみると社交性や協調性に欠ける。今度は彼の評価は下がる一方。「Nは見掛け倒しだった。」でも時間の経過とともに解ってくる。やはりNは物事を深く自分の頭で考えている。ただ社交性や協調性に欠けるのも事実。つまり彼はAという仕事には向いているがBという仕事には向いていない。これが「適正価格」だ。

 この例からわかるのは「適正価格」が判明するにはある程度の「時間」が必要不可欠だという事。さて、Nさんの例で必要な「時間」はせいぜい半年から1年程度だろう。しかし、より長いスパン、それこそ10年とか100年とか1000年と言ったスパンでみて初めてその「適正価格」が解る例もある。例えば「共産主義」がそれだ。カール・マルクスによって提示されたこの概念はかつて一世を風靡した。「共産主義は現代のユートピアだ!」と。しかしその「適正価格」が解かるのに(必ずしもまだその「適正価格」は解らないという意見もあるだろうが・・・。)100年以上かかった。マルクスの提示したその革新的な理論に当時、少なくない数の人々(未だにその理論を信奉している人もいると思うし、それを否定するつもりはないが)が熱狂した。つまり躁状態になってしまった。そのような中で「ロシア革命」・「文化大革命」・「安保闘争」が起きた。結果は言うまでもない。彼らは事を起こす前に立ち止まってこう考えるべきだったのではないだろうか?「今、自分たちのやろうとしている事の歴史的「適正価格」はいくら位なのだろうか?」と。つまり10年後、100年後、自分たちの採ろうとしている行動はどのように評価されるのだろうか?と。そして自己に対して疑いの目を向けるべきだったのだ「自分たちはもしかするとヒート・アップしているのではないか?」と。 

  ファシズムにしても同じことが言える。ヒトラーを支持したのは「躁うつ病を患ったクラスのみんな」だ。そしてその「適正価格」がいかなるものであったかは今更語るに及ばない。また、ヒトラーという個人にばかりスポットが当たりがちだがヒトラーという特定の個人がいなくても別の誰かがその役割を担ったのではないか?ヒトラーを作り出した「躁うつ病を患ったクラスのみんな」つまり「大衆」こそ、責任を問われるべきなのではないか?(経済的混乱があったにしても)その意味で個々の人物ばかりをクローズアップした旧来の歴史観は少し違うと思う。

 このブログをはじめから読んでくださっている方々はお分かりと思いますが、私がこのブログで一貫して主張しているのは「感情の共有」には気をつけろ!です。「躁うつ病を患ったクラスのみんな」とは言い換えれば「群集心理」に他なりません。そしてそれは「感情の共有」のなせる業です。何も「感情の共有」が悪だとは言いません。ただ、「その子が本当に魅力的かどうか?」自分の五感で感じ、自分の頭で考える必要があると思うのです。メディアに惑わされず。それが出来れば歴史は変わっていたかもしれないのです。

 『現在自分たちが採ろうとしている政治的行為の「適正価格」を歴史的スパンで考える。それを踏まえたうえで自身が集団的に過熱しすぎていないか、過冷しすぎていないかを客観視して政治に、経済に、歴史に臨む』

  そのような歴史観を「Mr.マーケット的歴史観」と名付けます。既に知識人や研究者によって提示されている概念かも知れませんが、一応そのように命名しておきます。著作権や知的営為の成果を放棄するつもりはありません。なお今回の記事を記すにあたり友人Nの助力を得ました。ここに謝意を表します。 

諸田 亮

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