メタファー

先日、約十数年ぶりに村上春樹さんの『海辺のカフカ』を読んだ。心に残ったフレーズがあったのでここに記す。

『でも人間はなにかに自分を付着させて生きていくものだよ』『そうしないわけにはいかないんだ。君だって知らず知らずのうちにそうしているはずだ。ゲーテが言っているように、世界の万物はメタファーだ。』

 これはどういうことか?おそらく人が受け入れる万物は全て受け入れる側の「主観」によりバイアスがかかるという事。例えば今日は天気がいい、何か良いことがありそうだ。とか、挨拶をした人がにこやかに応じてくれた、何か自分は良いことをしたのだろうか?とか、つまりは自分の主観により、事象を自分の感性というフィルター越しに見ているという事だ。

 その意味では「完全に客観的な理解」などというものは存在しないのかもしれない。また、このフィルターが強い役割を果たしている人の事を、いわゆる「感じやすい人」と言うのだろう。スピッツの『スピカ』という楽曲の歌詞にあるのだが、『割れ物は手に持って運べばいいでしょ♪』割れ物≒(感じやすい人)という箇所はまさにこのことを示しているような気がする。とてもやさしい歌詞だと思う。さて、割れ物の端くれの私としては、日々はメタファーの連続だ。「あれ、俺、何か褒められるようなことしたっけかな?いや別に人様の役に立つようなことしたわけでもないし、俺が役に立てるとすれば雪かきくらいなものだし・・・、逆に視線が冷たいと感じた時は「あれ、俺なんかまずいことしたかな?いや、特に迷惑をかけるようなことした覚えはないし・・・プライベートなことまでは責任もてないし・・・。」と、まあ毎日、身近な事とはいえ、世界の万物は私にとってメタファーである。いっそのこと全くの無感動な人間になれればとも思うのだが・・・今更、自分の人間性を修正するのも難しい。但し、下手な勘違いだけはしないようにしたい。これは経験的に学んだ事だが、『人は客観的事実よりも、自らこうあって欲しいと思う事を信じる傾向にある』というのが私の持論だ。どんなに客観的になろうとも「こうあって欲しいと思う事を信じたがってしまう」という傾向が私にもある。できるだけそうはならないように気を付けてはいるものの。ただし、この論理を突き詰めていくと、日々の社会生活はなるたけ機械的で無味乾燥なものの方が万事円滑に運ぶという結論になってしまう。それでは、人の人たる所以である人間味が損なわれてしまう。そう思うのは私だけではないだろう。もしくは、この無味乾燥ではあるが万事円滑に進むという点を重視するか、あくまで人間味というものに重きを置くかで揺れているのが、現代日本の直面している課題なのかとも思う。さて、難しい事は解らないが、私個人の至極、独りよがりな意見を述べさせていただくなら、隅っこの方で、「一介の傍観者(無論必要とあれば私にできることは何でもするが)でいたいな~」というのが正直なところだ。それこそ「メタファー疲れ」にならないようにしたいものだ。(笑)

youtu.be

この坂道もそろそろピークで 馬鹿らしい嘘も消え去りそうです

やがて来る 大好きな季節思い描いてたら

ちょうどいい頃に素敵なコードで ものすごい高さに届きそうです

言葉より 触れ合い求めて 突き進む君へ

 

※粉のように飛び出す 切ないときめきです

今だけは逃げないで 君を見つめてよう

やたらマジメな夜 何故だか泣きそうになる

幸せは途切れながらも 続くのです※

 

 

はぐれ猿でも調子がいいなら 変わらず明日も笑えそうです

ふり向けば 優しさに飢えた 優しげな時代で

 

夢の始まり まだ少し甘い味です

割れ物は手に持って 運べばいいでしょう

古い星の光 僕たちを照らします

世界中 何も無かった それ以外は

 

南へ向かう風 流れる雲に

心の切れはしを託したならば

彼方へ…

 

(※くり返し)

 

続くのです