どこ吹く風

自分には全く関係・関心がないというように、知らん顔をすること。「何処吹く風と聞き流す」

ホンモノ

大学時代、東洋史研究室に在籍していた私は一度たりとも、まともに予習して授業に臨んだことがなかった。漢文を原文から読解するその授業は毎週金曜日にあるので、木曜の夜は皆徹夜してその授業に臨んだ。私は研究室に行くと誰かが持ち寄った漫画を読んでばかりいた。そしていよいよ夜が更けてくると誰が待つわけでもないのにそっこー家に帰って寝た。何故ならつまらなかったからだ。ひたすら漢文を訳すというその作業に一ミリグラムの魅力も感じなかったのだ。こんなつまらないことをやるのは受験勉強でたくさんだ。と思っていた。お蔭で授業は珍紛漢文?で23回質問して、こいつに質問してもだめだと悟ったのか先生も一向に私を当てなくなった。それでもきちんと出席したのが我ながら偉いものだと思う。一つには研究室が楽しかったからというのもある。

 

劣等生以外の何物でもなかった私はしかし、卒論では教授から高評価を得た。理由は単純で、授業はつまらなかったが卒論を書くのは面白かったのだ。自分で情報のピースを集めてそこからロジックを組み立てて仮説に導く。その作業自体は楽しかった。その為には漢文も中国語も読んだ!苦ではなかった。無論院生にも資料を紹介してもらった。

 

昨今友人のFBの記事によると「受動的学びから探求的学びへ」と今の公教育では叫ばれているらしい。いろいろな横文字を使ったりして言葉が独り歩きしている感があるが、つまりは大学時代の私のようになれってことでは?自分でいうのもなんだが時代を先取りしていたと思う。(笑)(大学生だから当然と言えば当然だが)

 

今にして思えばあの授業は卒論を書く上で必要な漢文読解の訓練であると解るのだが、如何せんアプローチの仕方がまずかったように思う。(失礼な言い草だが)

 

どういうことかというと、これからサッカーを始めようとしている子供にバルセロナの試合を見せるのとサッカーのルールブックを読ませるのとどちらがいいだろう?無論答えはバルセロナだ。バルセロナのサッカーを間近で見せたら子供はサッカーに興味がわくだろう。そして自分もああなりたいと自ら探求するのでは?ルールなんかいやでも頭に入ってくる。

 

つまりはホンモノだ。質の高いもの(ホンモノ)を提供・紹介してやるのが教育者なり親なりの務めではないかと・・・できる範囲内でだが。大道芸だって文学だって、芸術だって、哲学だって、スポーツだって、グルメだって、理系の事は解らないけどホンモノを知ることが何をするにしろ原動力となるのではないだろうか?そして本当に道を究めた人なら難しい事をやさしい言葉で伝えることができるはず。そういう人なり物なり事なりに触れる機会をできるだけ多く作ってやるのが教育者の務めではないかと・・・最近思うようになった。

 

ちなみに私が卒論を書く上で“ホンモノ”としていたのはそれまで読んだ漫画や本だったのだと思う。

 

話は変わるが先日『figma テーブル美術館 ダビデ像』というフィギュアを購入した。

ホンモノを観にフィレンツェまで行くのに越したことはないが、如何せん時間も金もない。

でもこれはこれで別の意味でホンモノだと思っている。(笑)

 

figma テーブル美術館 ダビデ像 ノンスケール ABS&PVC 塗装済み可動フィギュア

 

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 追記

同じ研究室に在籍していた友人にこの文章を読んでもらったところ、決して単なる漢文の和訳ではなく、それは探求的で双方向性のある面白い授業だったとの事です。ただ私の側のレディネス(学習の土台としての知識や能力)の不足であるとの指摘を受けました。確かに私の在籍した大学では2年間の教養課程があり、自分の専攻を吟味する十分な時間が与えられていました。「これからサッカーを始めようとする子供」とはわけが違ったようです。両先生方には大変失礼をしました。お許しください。