どこ吹く風

自分には全く関係・関心がないというように、知らん顔をすること。「何処吹く風と聞き流す」

禅問答

禅問答とは何か?

一番わかりやすいのが

一休宗純と将軍足利義満

屏風の虎の話だろう

(実話か作り話かはさておき)

 

将軍「一休、この屏風に描かれた虎を捕まえてみよ」

一休「わかりました。ではまず、なわを用意してください」

将軍「ほれ用意したぞ、約束通り屏風の虎を捕えてみろ」

一休「わかりました。では次に屏風の虎を外に出してください!」

将軍「屏風の虎を外に出せるか!」

一休「屏風の虎を捕えられるか!喝!」

 

という具合だ。

一休は将軍足利義満の無理難題を見事に喝破しているが

普通の人にはそうはいかない。

将軍様の無理な言いつけに困惑するのみだ。

そして真面目な人ほど

このやり取りを通じて

将軍様=主

その人=従

という関係性(依存関係)

に組み込まれていく。

 

こいつがしょっちゅう行われている場所がある。

 

 

 

学校だ

決して悪く言うわけではないが

ただ

誤解を恐れずに言うならば

何かを表現・主張するという事は

時に誰かを傷つけることだ

たとえその気はなくとも

それが嫌なら何も主張しなければいい

でもそしたら今度は

あいつは何も主張しないやつだ

と言われる。

どっちにしても何か言われるのなら

主張した方がましだ

それに

毒にも薬にもならない表現など

最初から存在する意味がないとも思うのだ。

 

と言い訳を述べたうえで

敢えて言わせてもらうなら

 

非常にナンセンスなことだと思う。

 

職員室で

部活を辞めたいと泣いている生徒に対して、

教師の側がずーっと沈黙しているのだ。

それが延々続く

 

若しくは

いわゆる禅問答を教師の側が吹っ掛けるのだ

そうして返答に困っている生徒に対して

ここぞとばかり

依存関係を深めていく。

 

「おいおい、これから自立していこうって世代に対して

依存を深めさせてどうすんだよ!」

 

と傍目で見ながら

内心では思っていた。

(自分が中学生だった時も教師になってからも)

≪高校時代は幸いそういう先生には出会わなかった≫

 

思いはため込んでおいてもどっかから噴き出すもので

私の場合ある日の授業でそれが出た。

 

「君らは『鋼の錬金術師』って漫画を知ってる?」

あの漫画の最初のエピソードが面白い。

ある若い女性が恋人を亡くした悲しみから宗教にはまってしまう。

熱心に信仰すればその恋人が生き返るとそそのかされて。

ところが主人公である鋼の錬金術師

(自分の母親を蘇らせようと、禁忌とされていた人体錬成を行い

その代償として右手左足を失い義手義足になった)

がその宗教のインチキを暴く。

結果その若い女性は何と言ったか?

「これから私は何にすがって生きていけばいいの?教えてよ」

これに対して主人公は何と答えたか?

「そんなことは自分で考えろ。

立って歩け!前へ進め、あんたには立派な足がついているじゃないか。」

 

10年以上前の漫画だから少し表現的にどうかという面もあるが)

言わんとしていることは十分通じる普遍的なメッセージだ。

 

「かつて昭和の国民的ドラマ『3年B組金八先生』の中で主人公、

坂本金八が「人という字は人と人が支えあって人なんだよ。」

と言っているけど、

まずは一人一人が自分の足で立って歩いて

その上で支えたり支えられたりするんだ。

まず、自分の足で立って歩くこと

少なくともそうしようと努力することだよ。

そのために、まず連れ立ってトイレに行くことを辞めたらどうかな?

まずはそこからだよ。本当に」

 

私の長くもない教員生活の中で珍しく「いいこと」を言ったと自負している。

それによって否定されたように感じた方もいただろうし

その方にはその方なりの理由もあったろうし

(孤独だっただけかもしれない)

と思うと申し訳ないのだが・・・

 

ただ依存関係に組み込むことを教育と称する

変な風習が当時まかり通っていたのは事実だ。

 

個人競技、例えばフィギアスケートの安藤美姫モロゾフコーチのような

関係が成り立つのは、それはそれでわかる。

しかし、学校教育というのはそれとは違うだろと思う。

なんでこんな話(禅問答)になったのかというと・・・

・・・・・・

・・・・・・

・・・・・・

とにかくトイレには一人で行こう!喝!

私が言いたいのはそれだけ!

 

 

 

鋼の錬金術師①』 荒川弘 2002

f:id:kirutokira:20180210051449j:plain