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言葉とロジックと共感と

先日ホリエモンこと堀江貴文氏の本を読んだ。

本全体に対する感想はともかく

興味深い点があったので取り挙げたい。

 

堀江氏は東大駒場寮で大学生活を送ったのだが

他の寮生と些細なことでけんかになった。

その際、堀江氏が言われた言葉が

「お前には人の気持ちってものがわからないのか!?」

これに対する堀江氏の答えは

「人の気持ちなんかわかるわけないでしょ!」

だった。

さて、私は堀江貴文的価値観や生き方を

肯定するわけでも否定するわけでもないが

この会話に対しては一言いいたいところがある。

 

結論から言うと

この寮生の

「お前には人の気持ちがわからないのか」

という発言は論理的に破たんしている。

どう論理的に破たんしているかというと

「お前には人の気持ちがわからないのか」

というからには

彼自身は自分が「人の気持ちがわかる」

という前提のもとに話していることになる。

同時に堀江氏の事を

「人の気持ちがわからないやつ」

と既定している。

という事は、彼は

「人の気持ちがわかるやつ」

であるのだから

「人の気持ちがわからないやつ」の気持ち

も解るという事になる。

これは矛盾している。

何故なら

「人の気持ちがわからないやつ」の気持ちは

「人の気持ちがわかるやつ」にはわからない

若しくは

「人の気持ちの解らないやつ」の気持ちは、

「人の気持ちの解らないやつ」にしかわからない

からだ。

したがって

彼の前提「人の気持ちがわかる」は成り立たない。

ゆえに

「お前には人の気持ちがわからないのか」

という発言は論理的に破たんしている。

もし、この寮生が

「昔は俺もわからなかったけどな。」

というのなら

そこには「時間」という概念が加わり、話は別だが・・・

 

このロジックに私は中学生のころ気づいたが

「あまり言わない方がいいな。」

と思いつつ現在に至っている。

でも、いい大人になった今だからこそ言いたい

「人の気持ちはそう簡単には解らない。

だからこそ言葉を大切に扱うべきだ。」

 

 

堀江氏の肩を持つわけではない。

ただ、我々は安易に

「人の気持ちがわかる」

という表現を多用するべきでなない

とは思う。

他人の心を理解したつもりになって

安易に同情したり共感したつもりになるのは

ある意味、失礼で傲慢なだけでなく

時には危険でさえある。

 

 

十数年ほど前にベトナムに旅行したことがある。

ベトナム戦争の生々しい銃弾の後の残った激戦地を訪れた際

「他人事とはいえ、ひどいな」

とつぶやいたら、

現地の若い日本語ガイドさんが

そっと

「ありがとうございます」

といったのを思いだした。

何に対しての「ありがとう」なのかは、

あえて述べる必要はないと思う。

 

無意識に口から出た言葉だったが

おそらく間違った言葉選びではなかったようだ。

 

語彙を増やすとか、

語源を知るとかいうのとは違う。

 

言葉を丁寧に用いるというのは

難しいようで簡単な、

簡単なようで難しいことかもしれない。

 

ただ、バックグラウンドの異なる他者と

「よりましな関係」を築いていく上で

言葉を丁寧に適切に用いるのは

必要なことであり

ひいてはそれが

「よりましな社会」を築いていくことに

つながるのではないだろうか

 

と、今この文章を書いていてわかったのだが

要するに、

私は無責任に他人の感情に便乗する輩が嫌いなのだ。

心底。

そういう輩がいるから

いじめとか炎上とかヘイトスピーチとかがなくならない。

 

話は戻るが

今はなきSMAPの楽曲に「しようよ」というのがある。

なんて事はない「話をしようよ」という曲だ。

リアルタイムで聞いたときは何とも思わなかったが

今聞いてみると意味あるメッセージが込められている。

今更ですが

SMAPの皆さんお疲れさまでした。

 

 

 

微笑みに分かった顔しないでさ

いつだって気持ち素直に伝えよう

正直にとにかく何でも隠さずに

話をしようよ

 

作詞:森浩美