相撲における八百長と北野武さんの発言に対して

 以前、北野武さんが相撲の八百長騒動の際に 「相撲における八百長は是か非か?」

という質問に対し、

「相撲は豊作を祝って奉納する儀式である。つまりスポーツではないのだから、八百長は非ではない。」

という趣旨の発言をされていた。北野さんのこの発言に対し、時間がかかったがやっと自分なりの答えが出た。以下に示したい。三段論法で説明すると

 

①「文明」が長続きするには「平和」であるに越したことはない。

②「平和」を持続させるためには「調和」が必要である。

③「調和」には「真剣勝負」はいらない

 

 つまり文明を長続きさせるためには「真剣勝負」は必要ないのである。裏返すと、平和な時と場所に暮らす人々は「真剣勝負」に飢えているともいえる。ローマ時代に剣闘奴隷がいたのも、現代社会で各種勝負事、フットボール、ボクシング、囲碁、将棋、チェス等々が盛んなのも、これら真剣勝負に飢えた人たちが、自身の満たされない思いを各々に託しているからではないだろうか?過去においても現代においても、いわゆる見世物としての勝負事のそれが存在意義なのではないか?であるならば、相撲がスポーツであれ、儀式であれ、肝心なのは

「相撲に想いを託す人がいるかどうか?」

ではないか?そこに想いを託している人がいるならスポーツであれ儀式であれ、その思いを裏切ってはならないと思う。そして相撲に想いを託す人は、いる。と思われる。 つまり八百長は非である。というのが私なりの結論だ。北野さんの意見を伺ってみたいところだ。ちなみに私は相撲に興味はない。だからどっちでもいい。

 NHKには申し訳ないが『笑点』のほうが大切だ。司会者も変わり、新たなメンバーも加わり、目が離せない。人を打ち負かすことよりも笑わせることのほうがよほど価値があると思うのも、恥ずかしながら事実だ。もっとも私自身は非常に口下手な人間ではあるが・・・(笑)

 

 

追記

 この文章は矛盾している。「平和」を持続させるためには「調和」が必要と述べている。にもかかわらず「北野武さん」という「権威」にアンチテーゼを示し、その意味で「調和」を乱しているからだ。

 自分でもこれは矛盾していると思った。そのままにしたのは、「調和」のみを重んじ、陽性の反骨精神をすべて排除してしまっては、社会から活力が失われてしまうのではないかと(偉そうにも)危惧したからだ。「調和」にばかり重きを置いていては、「平和」は保たれたとしても、社会は緩やかに衰退していってしまうのではないか?それが良い悪いは別として。社会が持続的に発展していくためには「保守」と「革新」の程よいバランスが必要だと思う。

 

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