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『               』

 「一回宇宙に行ってみてえな。」という私に対し「ふん、宇宙には誰もいねえからな。」というのが友人の返答だった。

 今までで一番イカシタ会話を挙げろと言われれば必ずこれが来るだろうし、この先何年たってもやはりこれのような気がする。残念なのは相手が男だったことだ。私がこの会話を”イカシテル”と思うのは次のような理由からだ。

 6月、サッカーワールドカップに日本中が熱狂した。日本チームのプレイに国全体が一喜一憂し、ある解説者の言葉を借りるならば「日本が一つ」になった。日本代表を応援するという行為を通じて我々は感情を共有したのである。

 人は感情を共有することが好きだ。お気に入りのCDを薦めたり、わざわざ映画館に足を運んでホラー映画を観たりするのはこのためだろう。「怖い」という感情すら我々は共有したいのだ。我々のDNAには「感情を共有することへの欲求」が書き込まれているのかもしれない。

 確かに「感情を共有する」のは素晴らしい。個々人では得られない大きな力を我々は手にすることができる。その喜びは言葉では表せない。しかし良い事ばかりではない。    

 4年前のフランスワールドカップ、3敗という結果で帰国した代表選手にサポーターがコップの水をあびせるという出来事があった。何が彼をあのような愚行に駆り立てたのだろう。彼だけが日本代表の結果に不満を抱いていたのならばあんなことにはならなかった、と私は思う。「みんなも自分と同じように感じている」という認識、それが彼の中であのような行為を正当化させる「感情的根拠」になっていたのではないか。でなければ言葉を交わしたこともない他人に対してなぜあれほどの怒りを抱くことができるのか、私にはわからない。彼の行為もまた「感情の共有」のなせる業なのではないだろうか。

 人間には「感情を共有することへの根源的な欲求」がある。ただしそれは喜びや笑いといった正の感情だけではない。憎しみや、怒り、といった負の感情もまた我々は共有する。歴史上、宗教に起因する戦争が残虐なのも、社会に「スケープゴート」とか「いじめ」という言葉が存在するのもこのためではないだろうか。

 思うに「感情の共有」とは劇薬なのだ。効き目は大きいが、副作用もまた大きい。用法と容量を間違えると困ったことになる。きっとあのサポーターは使用上の注意をよく読まなかったのだろう。もっともそんなものはじめからない。自分に合った用法・用量を自分で見つけるしかないのだ。ただ、飲みすぎには注意したい。薬なんてたまに飲むからこそ効き目があるのだから。

 前置きが長くなったが、今にして思えばあの時、ごく短いフレーズの会話を通して私は友人と分かち合うことができたのだ、「分かち合わないことの価値」を。”イカシタ会話”なわけである。ちなみにこの友人は今”あのベッカムヘアー”にしているらしい。ブームが去ったころにやるところと、洒落た美容室でなく”なじみの床屋”で”なじみの親父”に切ってもらったところがいかにも彼らしい。”イカシタ”男である。

 

※分かち合いたいもの、分かち合いたくないものについて家族会議で話し合ってみよう。

例 分かち合いたいもの(笑い、思い出)

例 分かち合いたくないもの(お父さんの歯ブラシ)

※この文章に題名をつけてみよう。

※「私」にとって友人はどのような存在でしょうか。「私」の気持ちになって考えてみよう。また、男女間に真の友情は成立するか?とことん考えてみよう!