どこ吹く風

自分には全く関係・関心がないというように、知らん顔をすること。「何処吹く風と聞き流す」

ゆずれないもの

いいかいボーイズ&ガールズ
ハセッチの話をよく聞くんだ。難しいことは言わない。とにかく聞くんだ。
みんなには「ゆずれないもの」ってあるかい?
えっ、大好きなあの子はゆずれない?
なるほど、それも大事だな
でも今日の話はちょっと違うぞ
そう、ハセッチがみんなくらい、たしか小4の時
ハセッチはサッカーに夢中で毎日サッカーばかりしていた。
そのころハセッチはクラスで二番目にサッカーがうまかった。
ある日、クラスで一番サッカーの上手い友達がこう言った。
「ねえ、れん君、今日はうまい人だけ集めてチームつくろうよ!きっとおもしろいよ。」
もちろんそのチームにはハセッチ自身もふくまれる。
サッカーの上手い人ばかりでチームを作るんだ。
パスがつながって楽しいのは間違いない。

さてここでみんなに質問だ!
ハセッチは何と答えたと思う?
うん?なになに、その通り!
そう、ハセッチは断った。
「それは絶対ダメだ」と言ってゆずらなかった。
じゃあ、なぜハセッチはゆずらなかったんだろう?
んっ、なになに、うまい方のチームに入れない人がかわいそうだから。
うん、それもある。でもそれだけじゃない。
~わかった!ハセッチは「ずる」をしたくなかったんだ~
そう、そうなんだ!ハセッチは「ずる」をして勝ってもおもしろくない事を知ってたんだ!
多分ハセッチは勝ち負けよりももっと大事なものがあるってことに気づいてたんだ!
そして、それがハセッチにとっての「ゆずれないもの」だったんだ!
すごいね!そのころのハセッチ!かがやいてたね!まさに人生のピーク!
えっ?今はどうなのかって?よくぞ聞いてくれた。
今のハセッチときたらすごいよ。
あっちに偉い人がいると聞くとあっちでペコペコ。
こっちに強い人がいると聞くとこっちでペコペコ。
情けないったらありゃしない。
えっ、いつからそうなっちゃったのかって?
それを聞くなよ?!ハセッチにもいろいろあったのさ!
でもね!でもまだハセッチはあきらめてないよ!
まだまだこれからだって思ってる!
みんなはどう?
みんなにはゆずれないものってある?
勝ち負けよりも大切なものってある?
みんなにとってそれが何なのか?
ハセッチにはわからない。
でもね、それが何であれ、簡単にゆずってはいけない!
何故ならそれは自分自身に他ならないから。
えっ言ってることがよくわからないって?
そこは宿題だ!よ~く考えてごらん!
今日のハセッチのお話はここまで!
ではまた!

PSハセッチを超えていけ!

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夢中でした!

 

デコボコ

 前職でお世話になった方が「凸凹のある人間同士が補い合ってやってくのが会社ってもんだよ。」とおっしゃっていた。「素敵なことを言うなあ」と思ったのを覚えている。

 話は変わるが10月から学童保育で働き始めた。この学童保育ではおやつを食べた後に「食べこぼしチェック」をする。その後に静かに出来たところから順に手洗いに行ってもらう。その際の号令をかけるのが我々支援員の仕事の1つでもある。まだ慣れない私はその際「食べこぼしチェックをして」を言うのを忘れて「では・4・5・6班から手洗いに行って!」と言ってしまった。すると子供たちから「違うよ食べこぼしチェックがまだだよ!」とブーイングが起きてしまった。私は「ごめん、ごめん、申し訳ない。俺の間違い、俺の間違い!」と謝って、「食べこぼしチェックして!」と伝えた。食べこぼしチェックが終わった後で今度は「では1・2・3班から手洗いに行って!」と伝えた。すると今度はまた子供たちから「え~、さっきとちが~う!」とまたブーイングが起きてしまった。子供たちにしてみれば静かにしていた4・5・6班から手洗いに行っていいと言われたのに、今度は1・2・3班からどうぞというのでは話が違うという事なのである。私はまた頭をかいて「あそっか!」と気付いてどうしようか、言い直そうかと困っていたところ、2年生のO君が「どっちでもいいんだよ。」と助け舟を出してくれた。O君のおかげでその場は事なきを得た。その時、先にあげた「凸凹のある人間同士が補い合ってやってくんだよ。」という前職でお世話になった方の言葉が思い起こされた。ほんとそのとおりだな~と思ってしまった。もっとも我々は大人で相手は子供なのだからこちらがしっかりしなければならないのは確かなのだが・・・。それにしてもO君の一言は有難かった。優れた人・できる人が統率して皆がそれに従うというのも組織の在り様の1つだが、私には「凸凹のある人間同士が補い合ってやってく」の方が合ってるな~と思った。聞けばO君は少年野球をやっているとの事。なるほどチームプレイをしているO君は人として大切なことを言葉によらず悟っているのかもしれない。私がしっかりしなければならないのも確かだが、O君には大切なことを教わった。ありがとうO君!

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デコボコいいじゃないですか!

 

思考回路

 頭の良い人、仕事のできる人というのは必要十分に考える人だと思う。必要以上に考えれば好いというものではない。

 昔、村上春樹さんが「僕のように頭の回転が遅くて、口下手な人はいわゆる【もやもや】が残る。だからこそ物書きに向いている」という趣旨の事を述べておられた。逆に言えば、頭の回転が速く口が達者な人は、その場で解決してしまうから物書きには向かない。という事になる。私はまさに前者だ。頭の回転が遅く、口下手だ。よって【もやもや】が残る。だから必要以上にモノを考えてしまう。その結果仕事はのろいし、いらないミスをしてしまう。つまり仕事ができない。やれやれ。でもというか、だからというか文章を書くには向いていると自分では考えている。仕事に生かせないのが残念だ。

最近思うのだがてきぱきと仕事をこなす人というのは実に頼もしい。必要十分にものを考えそれ以上にはあとにひかない。そして次々と先の事を考える。私にはできないなと思ってしまう。これがいわゆる処理速度(スペック)というものか?仕事のうち大方はこの作業だ。自分は仕事のできない、とは言わないまでも仕事の苦手な人間だと思う。ただ高校の教員をやっていた頃はそうでもなかった。教員の仕事の半分以上は授業をいかに解りやすく、面白く伝えるかが占めており、その為には膨大な資料に当たり、その中から必要な情報を抽出し、自分なりの論理を組み立て、それをプレゼンする。その作業は文章を書くのとよく似ており、考えれば考えるほど不要なものがそぎ落とされ、同時に論理が深まる。それは私にとって心躍るとは言わないまでも十分に楽しい作業だった。まあ、昔を振り返っても仕方ない。何が言いたいかというと、デスクワークにはデスクワークの思考回路、専門職には専門職の思考回路、職人には職人の思考回路、研究者には研究者の思考回路、作家には作家の思考回路、そして芸術家には芸術家の思考回路があるという事だ。よく作曲家がその瞬間メロディーが天から降りて来た。という表現で自分の楽曲について語るが、芸術家の思考回路ってどうなっているのだろう?といつも思ってしまう。「俺にノエル・ギャラガーの様な思考回路があったらなあ。」と思わずにはいられない。ギター1つで大勢の観衆を沸かせられたらこんなに素晴らしいことはない!と思うのだが・・・。

 何にせよ、自分の思考回路が何向きなのかをわきまえる事って大事だと思う。好きなこと得意なことを生かして働ければそれがベストだと思うから。

 

敵を知り己を知れば百戦危うからず   孫子より

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戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり。

 

言葉の力

 言葉には力が宿る。本気でそう考えている。言霊ともいう。いつも「出来る」「出来る」と口にしていれば、いつか出来るようになるし、「ダメだ」「無理だ」とばかり口にしていると本当に出来なくなる。だから「どうせ」とか「全然」とかそういった類の言葉は出来るだけ避けるようにしている。逆に「出来る」、「出来る」と口に出していると本当に出来るような気持になってくる。すると次に「どうすればできるか」を考えるようになる。そこまでくればしめたもので、その次には「出来るための行動」を起こす事が出来るようになる。そのような意味で言葉って大事だと思う。ついでに言うと「馬鹿」とか「ボケ」とかいった類の品のない言葉もまあ、あまり使わないようにしている。他人を否定するような言葉を常日頃から用いていると、やっぱり他人を否定しがちになってしまうからだ。もっともこう言った言葉はその言葉が用いられる「文脈」が大事で、どういう流れでその言葉が用いられたかで、意味合いがだいぶ異なってくる。友人間で用いられる「馬鹿」「ボケ」や恋人同士の間で使われる「馬鹿」「ボケ」では、それが愛情表現の場合が往々にしてあるからだ。その意味で品はなくとも愛情のこもった言葉というのはあるわけで、品はあっても愛情のこもらない言葉よりはよっぽどましだとも思うのだが・・・。まあ、品もあって愛情もこもった言葉というのがベストではある。そう考えるとやっぱり品のある言葉の方がいいのかなとも思う。

 「正しい」とか「美しい」言葉を使いたいとは思わない。ただ、「感じのいい」もっと言うと「イカシタ」言葉を使いたいとは思う。何故なら言葉がその人を創るからだ。

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いい言葉です!

 

おなら

「おならしたでしょ?」

ふと、そんな声が聞こえてきた。新しい職場での一コマだ。ほほえましくて思わず笑ってしまった。豊かな事だと思う。これに対して我々大人はいつごろから「おならしたでしょ?」と言わなくなったのか?若しくは言えなくなったのか?はたまた、言わせなくなったのか?そういえば(『のだめカンタービレ二ノ宮知子)では主人公の野田恵がしょっちゅう「おならブー!!」というフレーズを連呼していたな、と思い出した。才能はもとより結局その辺の「のだめ」のキャラクターが千秋真一の心を持っていく要因だったのかもしれない。そう考えると「おなら」も捨てたものじゃない。タブーと捉えるよりも、むしろ積極的に活用すべきコミュニケーションツールと捉えると面白い。それに恋人が「おなら」をした時、どの様にリアクションするかでそのカップルの相性というか成熟度のようなものが解ろうというものだ。「おなら」を敢えて一般化するなら、「誰にでもある、避けて通れないちょっとした恥ずかしい失敗」になる。それにどう対応するのか?スルーするのか?(そ知らぬふり)ソフトに受け止めるのか?(おならしたでしょ?)敢えてハードに受け止めるのか?(くっせーよ!)ユーモアに昇華するのか?(ジャスミンの香り!)どの答えが1番正しいのだろう?いや、そもそも何が最も正しいかではなく、この場合、何が最も温かみがあるかで考えるべきだと思う。それがコミュニケーションであるからには・・・。何にせよ、「おならしたでしょ?」と聞こえてくるような職場で働けるのは有難いことだ。そんな職場、そんな社会もいいかもしれない。豊かさってそういう事だと思うから・・・。

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全巻持ってます!

 

文学の限界と時代性

 先日、文藝春秋の元編集者である岡崎正隆氏の講演会「芥川賞直木賞秘話」に参加した。芥川賞直木賞にまつわる知られざるエピソードや、長年、出版編集者として携わり、作家との関わりの中で知り得た様々な裏話などを聴く事が出来た。講演の終わりに質問タイムがあったので質問してみた。

文学賞、特に芥川賞などは、それまでにない新たな文学のテーマを開拓したことに対して贈られると理解しています。ただ小説を読んでいるとたまにこの作家の作品はもっと以前の海外作品ですでに扱っているテーマを装い新たに提示しているのでは・・・?と思う事があります。文学というものはそれこそ何千年という歴史を持っているわけです。そう考えると、もうあらかたのテーマは汲み尽くされているのではないでしょうか?」

 対して岡崎氏は少し考えられた後、

「確かに同じようなテーマを扱った作品というのはあります。ただ、時代性というのはあります。(『コンビニ人間村田沙耶香)を読みました?あの作品はまさに時代性があると思います。その点でテーマは尽きることはないのでは・・・。」

とおっしゃられた。司会者が「時間の都合もありますのでこの辺で・・・。」との事だったのでそれで終わりになったが、私としてはもう少し聞いてみたかった。『コンビニ人間』には確かに時代性がある。ただ、普遍性はあるだろうか?言い換えれば30年後、50年後に『コンビニ人間』は残りうるだろうか?作者の村田さんには悪いが、そうは思えない。私の質問がまずかった。「普遍的なテーマはすでに語り尽くされてしまっている。」と言えばよかった。そうなのだ。普遍的なテーマは確かに語り尽くされているのかもしれない。あらゆる恋愛劇の原型がシェイクスピアに遡り、そしてシェイクスピア自身がそれまでの作品を原型として物語を構成しているように。あらゆるテーマを語り尽くしてしまった場合、人は何をテーマにするのだろう?そんなことを考えていた折、第25回芥川賞受賞作、安部公房の『壁』(Sカルマ氏の犯罪)を読んだ。それで気づいたのだが、テーマに行き詰った際のひとつの出口としてはテーマ自体をテーマにするという手法があるという事。つまり恋愛についての物語があるように、物語についての物語もあるわけで、いわゆるメタ小説なる分野があってもよいのではないだろうか?などと考えた。安部公房さん自身はルイス・キャロルの影響を受けていると述べている。なるほど、カフカの『変身』の様だと思ったが全編読んでみると『不思議の国のアリス』的でもある。おそらくどちらも読んでいるのだろう。そしてこの作品(Sカルマ氏の犯罪)が世に出たのが1951年の事だ。50年以上前の作品だが色あせない。普遍的だ。     

 1つ解ったのはどの作品もそれ単体で存在しえたわけではないという事。つまりゼロから生まれる作品はないという事。本でなくとも実体験をベースに書かれた作品もあるわけで、やはりゼロから生まれたわけではない。そう考えると、いろいろなテーマの作品を読んでおくに超したことはないわけで、でも使える時間は限られているのだから、できるだけ効率よく読む必要があるわけで、するとやはり古典と言われるものを読むのが良い。という結論に落ち着く。何だか当たり前の事を再確認してしまった。やれやれ。

 

『壁』(Sカルマ氏の犯罪)のあらすじは以下の通りです。(ウィキペディアより)

ある朝、目を覚ますとぼくは違和感を感じた。食堂でつけをしようとするが、自分の名前が書けない。身分証明書を見てみても名前の部分だけ消えていた。事務所の名札には、「S・カルマ」と書かれているが、しっくりとこない。驚いたことには、ぼくの席に、「S・カルマ」と書かれた名刺がすでに座っていた。名刺はぼくの元から逃げ出し、空虚感を覚えたぼくは病院へ行った。だが、院内の絵入雑誌の砂丘の風景を胸の中に吸い取ってしまったことがわかり、帰されてしまう。ぼくは動物園に向かったが、ラクダを吸い取りかけたところを、グリーンの背広の大男たちに捕らえられ、窃盗の罪で裁判にかけられることになった。法廷には今日会った人々が証人として集まっていた。

その場を同僚のタイピスト・Y子と逃げたぼくは、翌日に動物園でまた彼女と会う約束をして、アパートに帰った。翌朝、パパが訪ねてきた。その後、ぼくは靴やネクタイに反抗され時間に遅れて動物園についた。Y子はぼくの名刺と語らっていた。よく見るとY子はマネキン人形だった。ぼくは、街のショーウインドーに残されている男の人形から、「世界の果に関する講演と映画」の切符をもらった。行くと、せむしによる講演と映画が始まった。ぼくはスクリーンに映っているぼくの部屋を見た。やがてぼくは、グリーンの背広の大男たちにスクリーンの中へ突き飛ばされ画面の中に入った。画面の中のぼく(彼)が壁を見続けていると、あたりが暗くなり砂丘に「彼」はいた。そして地面から壁が生えてきて、そのドアを開けると酒場だった。そこにはタイピストとマネキン半々のY子がいた。

別のドアから「成長する壁調査団」となったドクトル(病院の医者)とパパの姿をしたユルバン教授が現われ、「彼」を解剖しようとするが、「彼」は機転をきかし、難を逃れた。その後、ユルバン教授は、ラクダを国立動物園から呼びよせ、それに乗り、縮小して「彼」の中を探索するが蒼ざめて戻ってきた。ドクトルとユルバン教授は、調査を中止し逃げていった。ただ一人残された「彼」は、壁そのものに変形していく。

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独特の寓意とユーモア。大人になって分かる、そんな小説です。

 

自転車

 自転車通勤を始めた。新しい職場まで自宅から片道6キロ、往復12キロを自転車で駆け抜ける。風がいい。だいたい20分で着く。帰りは暗くなるので30分くらいか。慣れてくれば自転車に適した道がわかってくる。車種はGIANTの2011モデルescapeR3桜ピンク。親父が乗っていたものを譲り受けた。ハンドル中央部にスマホ装着用のアタッチメントを取り付けて装備は完了。これでグーグルマップを利用できる。雨さえ降らなければ怖いものなしだ。運動にもなる。

 話しは移るが、今こうしてパソコンに向かっている時間を「静」の時間とすれば、自転車に乗っている時間は「動」の時間だ。「静」の時間に「静」の思考があるように、「動」の時間には「動」の思考がある。ここ数年「静」の時間の中で生きてきた。少し「動」の思考の中で生きてみるのもいいと思う。文体も変わってくるかもしれない。ついでに(『弱虫ペダル渡辺航)を読んでみようと思う。

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優しい色です。

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読んでみようと思っていました!